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2018年6月号 根来ゆうさんより、おてがみが届きました
「全部のせのパフェみたいな人生」
◯女である事が苦痛だったこと
私はずっと女であることに違和感があった
母に言わせると
「女の子なのにワンパクで困る」手合いの子どもだった
母は手作りのワンピースを私に無理やり着せた
外で猿のように野山を駆け巡...
◯女である事が苦痛だったこと
私はずっと女であることに違和感があった
母に言わせると
「女の子なのにワンパクで困る」手合いの子どもだった
母は手作りのワンピースを私に無理やり着せた
外で猿のように野山を駆け巡っていた私の浅黒い肌には
レースのついた細かい花柄のそれは、全く似合わず
お隣のクラッシックバレエを習っていた女の子に比べて「少女」として随分見劣りしていたと思う。記憶にないが私は男の子もよく泣かせていた(物理的に!)そうだ・・・
さて、思春期がきて第二次性徴で胸が目立って来て、まわりにいやいやブラジャーを付ける様に促されても一向に私が自分が女である実感が得られず、乙女たちが初恋や初体験する中、通過儀礼としての異性とのいわゆる「男女交際」にはこれといって興味は湧かなかった
◯女をやらなきゃとひととおり努力してみた結果・・・
私は齢45になろうという人生の成熟期を迎えてもなお
「男と番う」意味がわからず、彷徨っている
20代は合コンにも行ったし、好きでもない男とカップルになるフリもしてみたが、どこかで冷めている自分がいた。プロポーズされても全くしっくり来なかった。
30代は婚活パーティーにも好奇心から行って見たが、そこでモテても虚しいばかりで飽きていかなくなった。婚活パーティーは商品価値がまだ幾分か残っている自分に酔いたい人か、本当にコミュニケーションが苦手な人が多く集まる所と言われていて、なんだか業者がアリバイ的にやっている緩い詐欺の現場に見えた
私はいつ男と番うのか!?
イエスやブッダに聞きたい
そして、それと反比例して私は空手やムエタイや柔術に手を出し、軍人や武道家の友達ばかりが増えていく
そしてそこには出会いはない!
私には一生結婚も、出産も、子育ても無いのかな?それでいいのかな?と半分以上諦めつつもずっと気になっていた。子育てだけでもできないものか?
「20代でテキトーな男との間であってもいいから、子どもだけでも作っておけばよかった!」と後悔先に立たずな心境だった
私は人生のほとんどを、周りの物差しに合わせようと意識はしてきたけど、結局は「当たり前の女の幸せ」に従える程優等生でもなく、何処かで「人生全体がストライキ」みたいな状況だった。自分を「可哀想」とまでは思わないけど「なんか物足りない」とは思ってきた。
◯新星のごとく現れた・・・希望?
そんなとき私の目の前にジャンヌ・ダルクのごとく現れたのが「アツコ」だった
彼女は私が撮っていた映画に役者として出演してくれた女性で、年の頃は30手前だった
彼女は「私、男がいなくても子ども産みたいし育てたいねん」と、言いたくても言えなかった事をサラリと言ってのけ、複数の知人友人の男性から精子提供をうけ、長年の不妊症の時期を乗り越えて13年ぶり位にやっと妊娠した
父親は科学的にはわからない、でも彼女は「父親が誰かは分からへんねん、そのほーがええねん」と言っている
彼女は「自分の子どもだから育てる」という考え方が嫌いみたいで、私にはその言葉がしっくり来た。あと、勝手に男に「俺が責任とるから!」とかも寒気がするから言われたく無いみたいだ。
つまり、子を産みたいけれど、そこに単に生物学的父というだけで関わってくる人からの束縛やコントロールは要らないという事みたいだ。
アツコは子を産む。そして、不特定多数の人々が出入りするコミュニティをつくり、そこで子育てしたいそうだ。なんてパーフェクトな解決策だ!と私は思った。
◯なんでそんなに「フツウの結婚」が嫌なのか?
私は1970年代生まれだ。私の母の世代は姑さんとのジメッとした問題を抱え、逃走の手段が核家族だった、核家族ならフリーダムだと思っていた。でも、結果社会は摂食障害でコミュニケーションに問題のある私みたいな娘を多く産んだ。私は(私たちは?)承認を得られない母親たちの愚痴を延々と聞いて育って来た。解決としての家族や戸籍制度に違和感があるのは当然である。
今の標準的な事として流布されている価値観には「幸せなフリはもうやめようや。バレてるからさ」という風な印象を私は持つ。
アツコの様な女性たちの事を「男に認知してもえあえなかった可哀想なシングルマザー」とか「計画性もなく子どもをもつ動物みたいな輩」とか「貧困女子まっしぐらの愚か者」とか「高収入の男と番えなかった負け組女」とか「わがままばかり通そうとして産まれてくる子どもが可哀想」とか自分から切り離して勝手に下にみて蔑むのは簡単だと思う
でも、それで私たちは何か新たな解決策を得られるのか!?
否
物理的に子をつくり、育てていたとしても、人様を蔑んで支えられる価値観は脆弱に思える
実際日本の出生率は低いままな訳で・・・
こと、こういったテーマについては日本は空気が重いと思う
◯子と一緒にある人生
アツコの子育てはアツコだけのものでは無い気がする
こんなご時世であっても、子どもを産もうと頑張っている若者がいて
その若者をことさらディスっているのが今の政治家
今の社会
そんな中、子を持とうとしている人にぐいぐい食い込んだっていいと思うし、なんなら結婚も、出産も、終身雇用としての結婚も飛び越して、どさくさに紛れて共に子を育ててもいいじゃないか!?と思う
だって、そうそうチャンス無いもん!
そう、未婚(非婚?)の人が子と接するチャンスなんてそうそうないんです
母は手塩にかけて私を嫁にやるべく丁寧に育てた
手作りのロールケーキ
手作りのワンピース
丁寧に編み込んだお下げ髪
六年間無理に習わせたピアノ教室
初めての生理に炊いたお赤飯
数十万かけた振袖のレンタル代
結婚費用の為の積立金二百万円
それらを全部私はドブに捨てた
私は母の様に生きようとは思わないし
私は私らしく生きたいな・・・と思ったから
好きなことを手放さない(例えば詩を書くことも)
大して好きでも無い男と適当に番いたく無い
恋人や配偶者をモノとして品評したり、束縛したく無い
もとい、勝手に「異性と恋愛する人」と決めつけられたくない
自然に人と一緒にいたい
自分の稼いだお金で暮らしてみたい
たまには恋愛もしてみたい
生活空間に子が居て欲しい
そんな「全部載せ」のでっかいパフェみたいな生き方をアツコの事件は私に想起させた
そして、そんな気づきが何千人、何万人もの女の人たちにいつか伝わるといいのになあと
ほんわか思う
私たちは自分の足で歩いていくだけの力を持っている
幾つになってもそれに気づけるなんて、素敵なことじゃないか?
桜の季節に何かが生まれる予感がするのでした
中目黒の桜並木を眺めつつ・・・
根来ゆうより愛をこめて
■根来ゆう(ねごろゆう)さんって、どんな人?
岡山県倉敷市生まれ。20歳から10年近く摂食障害を経験。数年自助グループに参加。映画、テレビドキュメンタリーの仕事を経てフリーに。97年に依存症をテーマに短編を3本制作。2001年に摂食障害を扱った長編ドキュメンタリー「そして彼女は片目を塞ぐ」を制作。山形国際ドキュメンタリー映画際にて上映。祖母、母、自分の三世代の労働とライフスタイルを並べた「her stories」性暴力について扱った「らせん」などの作品がある。
消費と依存、モラトリアムと成熟拒否、身体、サブカルチャーにおける女子文化、労働行政と移民政策など様々なテーマで作品制作を続けている。
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映画監督
2018-06-15T00:00:00+09:00
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2018年3月号 樋口ミユさんより、おてがみが届きました
「臨時ニュースを繰り返します
現在、詩人の数がまったく足りておりません。
詩人の数は決まっています。
独りの詩人が消えれば、独りの詩人が生まれる。
しかし、詩人の数は足りておりません。
今、メディアに乗って、電波に乗って、呼びかけます。
あ...
現在、詩人の数がまったく足りておりません。
詩人の数は決まっています。
独りの詩人が消えれば、独りの詩人が生まれる。
しかし、詩人の数は足りておりません。
今、メディアに乗って、電波に乗って、呼びかけます。
あなたこそが詩人ではなかったのでしょうか?
絶対数に満たない。
まだ気がついていない、
未だ詩人となっていない、
隠れ詩人がいるはずなのです。
自分自身でも詩人と気がつかず
今その人生を終えようとしている、
もしくは全く別の人生を選ぼうとしてるあなたこそが、
あなた自身が、
詩人なのではないでしょうか。
臨時ニュースを繰り返します。
現在、詩人の数がまったく足りておりません。
臨時ニュースを繰り返します」
そんな言葉から始まる戯曲を書きました。
地上からすべての詩人がいなくなったら、きっと世界は終わりをむかえてしまう。
世界情勢の均衡は詩人によって、詩人の言葉によって保たれている。傾いた経済を、二度上がった北極の温度を、武装しはじめた国を、絶滅しかけた人種を、沈んだ大地を引き上げるのは、詩人が朝日について考えるとき、夕暮れについて考えるとき、ニンゲンについて考えるとき。言葉の、その奥に広がる言葉になる前の言葉が、宇宙を連れてくる。
んなワケない。
ええ、そんなコトがあるワケない。
けれども、世界は言葉によって支えられているのではなかろうかとずっと疑っているあたしは、どうにかしてそれをお芝居に出来やしないだろうかと取り組んだわけであります。
言葉で世界を作るのは誰か。
言葉と戦っているのは誰か。
言葉を考えるのは誰か。
言葉を探しているのは誰か。
言葉になる前の言葉を掴もうとしているのは誰か。
見えるはずもない思考をカタチ創るのは、誰か。
小説家や劇作家は言葉を駆使する。
ああ、だめだわ。
使いこなしちゃ探している感じがしない。
戦っている感じがしない。
では誰が?
・・・・・・詩人だ!!
と、ここへたどり着いたあたし。
安直でしょうか。
思い込みでしょうか。
ただの憧れでしょうか。
イメージ先行でしょうか。
うん。でも、でもね。
そんなコト、あるわけないと書きつつも。
あたしはどこかで信じているのであります。
やっぱり。
地上からすべての詩人がいなくなったら、きっと世界は終わりをむかえてしまう。
と、あたしは考えるわけでありますが、詩人のみなさん。
どうお考えでしょうか。
よろしければお返事ください。
■樋口ミユさんって、どんな人?
樋口ミユ higuchi miyu 劇作家・演出家 Plant M主宰
誕生日 4月6日 出身地 京都市
劇団Ugly duckling旗揚げ以降、解散までの劇団公演32作品の戯曲を執筆する。劇団解散後は、座・高円寺の劇場創造アカデミー演出コースに編入し、佐藤信氏に師事。2012年にplant Mを立ち上げる。
受賞歴
1999年 3月 「深流波〜シンリュウハ〜」で第7回OMS戯曲賞大賞を受賞。
2000年 3月 「ひとよ一夜に18片」で2年連続、第8回OMS戯曲賞大賞を受賞。
2012年6月 第38回放送文化基金賞受賞ラジオドラマ部門「飛ばせハイウェイ、飛ばせ人生」
2017年2月 大阪市文化祭奨励賞 女優の会 「あたしの話と、裸足のあたし」の舞台成果
ホームページ https://plant-m.jimdo.com/
ブログ http://plant-m.blogspot.jp/
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劇作家
2018-03-15T01:55:00+09:00
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2018年2月号 アオキ裕キさんより、おてがみが届きました
日々荒野。
3月に踊った東池袋中央公園は炊出し会場でもあり、ソケリッサ!ではメンバー勧誘を含んだパフォーマンスとして何度か踊った事のある空間。初めて来た時は夏だった。サンシャインやプリンスホテルなど接にそびえ立つ建物に囲まれた公園の奥は、木が鬱蒼と生い...
3月に踊った東池袋中央公園は炊出し会場でもあり、ソケリッサ!ではメンバー勧誘を含んだパフォーマンスとして何度か踊った事のある空間。初めて来た時は夏だった。サンシャインやプリンスホテルなど接にそびえ立つ建物に囲まれた公園の奥は、木が鬱蒼と生い茂り都会の谷底のようであった。そしてその空間に膝を抱え休む路上生活の人々の姿は、母なる子宮の安堵の中にいるようにも見えた。「谷底と子宮」僕はこの世の中で生きている。身体に入り混じる不安と希望、悲しみと喜び、日々滅亡と繁栄を繰り返す血がこの中に凝縮されている。
そこに転がる石ころは全てを知っている。
そして僕達はその石ころを蹴っ飛ばす。
今回使用する道具は大きく重い、劇場から毎回メンバーと共に転がしての会場への往復は一苦労だった。地面を眺めながら運ぶ道端、10円玉が落ちていた。メンバーと目があった。僕達はニヤリと笑った。
そこには人がいる。共に過ごし、そして踊りが生まれる。そこに僕は躍動を感じる。
美しく煌びやかで価値のあるものと信じたその景色をふと無意味だと思わせる。きっとこの目の前に広がるのは日々荒野だ。
女流詩人のみなさまへメッセージ
誰かに伝えたいことがあり、言葉が生まれました。きっとそこに至るには身振りや感情表現だけでは伝えられない生きるために必然とした強烈な渇望があったと思います。一つの言葉の中にある壮大なドラマ。詩によって揺さぶられる身体の出現は楽しみです。
■アオキ裕キさんって、どんな人?
ダンサー/振付家、兵庫出身。東京にてジャズダンスを学ぶ。タレントのバックダンサーなどを経、2001年NY留学時にテロと遭遇。帰国後、自身の踊りの根底、今あるべき真価を追求。 2005年ビッグイシューの協力とともに路上生活経験者を集め、ダンスグループ「新人Hソケリッサ!」を開始。個人しか生めない体の記憶を形成した踊りにより自己肯定を生むなど、社会的弱者への社会復帰プログラム、またダンス教育のアプローチとしても定評を得る。一般社団法人アオキカク代表。
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ダンサー/振付家
2018-02-15T00:00:00+09:00
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2017年12月号 正木恵子さんより、おてがみが届きました
はじめまして、正木恵子と申します。
文章がとても苦手なのでこのお手紙を書くかどうかものすごく悩んだのですが、がんばって筆?をとりました!つまらないお手紙ですがすみません。
私は打楽器奏者をしていまして、ざっくり言うと太鼓からマリンバ、マラカスなどの小さ...
文章がとても苦手なのでこのお手紙を書くかどうかものすごく悩んだのですが、がんばって筆?をとりました!つまらないお手紙ですがすみません。
私は打楽器奏者をしていまして、ざっくり言うと太鼓からマリンバ、マラカスなどの小さな打楽器まで色々な打楽器を演奏したり教えたりしています。それと、保育園や学校、公共施設などで、子どもたちや障害のある人ない人やお年寄りなど色々な人と、うたを作曲したり楽器を演奏したりする音楽ワークショップもしています。
さて、私の自己紹介話は置いておいて。
2月のことですが、音楽家の赤羽美希さんと2人で組んでいる音楽ユニット「即興からめーる団」で主宰しているワークショップ・プロジェクトの『うたの住む家』(集まった人たちとうたを作るワークショップを2007年から100回以上続けています)を東京の両国門天ホールで行ないました。いつもは即興からめーる団が音楽のワークショップをするのですが、その日はゲスト講師に上田假奈代さんを迎えて詩を作るワークショップをしていただきました。そこで、なんと私も詩を作らせてもらいました。ドキドキ。
詩の作り方はこれまたざっくり言うと、2人ペアになってお互いインタビューし合って、相手から聞いたことのメモを元にして詩にする。というものでした。
私は両国門天ホール支配人の黒崎さんとペアになってお互いにインタビューし合ったのですが、黒崎さんはとても面白い方で、私があまり何も質問しなくても(インタビューなのに)面白いことをどんどん話してくださるので、瞬く間にたくさんの言葉が私のメモ用紙に並んだのでした。そしてそのメモから詩にしたのですが、相手の言ったことだと思って書くからか、文章が超苦手で作る自信が全くなかったはずなのに自動書記のように筆が進み、あっという間に詩を作ることが出来ました!詩を書いていた時、すごくアドレナリンが出ていて不思議な感覚でした。詩人のみなさまもそうなのでしょうか??
と言うわけで(どんなわけ)、その作った詩を載せて最後のご挨拶にさせていただこうと思います笑 ちなみに、上田さんのワークショップでできた詩の数々はいくつか作曲してうたにしていく予定です。ドキドキ!
あと、黒崎さんが私にインタビューして作った詩のほうが実はめちゃくちゃ傑作だったのですが、そのお話は、またいつか。
「引っこしの夜」
月に星
宇宙人がいそいでトラックを運転している
誰の引っこしかはわからない
ひもでくくられたほろから 何かがはみだして
色んな引っこしがあるけれど
引っこすとは
引っこしはあったほうがいい
捨てるものを取捨選択して
きれいになる ふしめになる
もう引っこすことはないわたし
宇宙へとはしるトラック
未来はもはやトラックではなく
フェリーのような宇宙船に
すぽん と すいこまれて
行くのかもしれない
なんとなく ふさわしいのは
日本語ではない
■正木恵子さんって、どんな人?
プロフィール:正木恵子(まさき けいこ)
打楽器奏者。12歳で打楽器を始める。名古屋市立菊里高校音楽科を経て、日本大学芸術学部音楽学科打楽器専攻卒業。
現在、フリーパーカッショニストとして打楽器やマリンバの演奏・指導に携わるほか、劇音楽の演奏やダンスとの共演、映像作品とのコラボレーション、即興演奏など、幅広い音楽活動に取り組んでいる。また、子どもや高齢者、障害のある人との音楽ワークショップを保育園や学校、コミュニティ施設等で数多く行っている。
音楽ユニット「即興からめーる団」メンバー。打楽器奏者3人組による打楽器アンサンブル「どってん博物館」メンバー。おもちゃ楽器バンド「moccha」メンバー。
うたの住む家ホームページhttp://utanoie.is-mine.net
即興からめーる団ブログhttp://improkarame.blogspot.jp
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フリーパーカッショニスト
2017-12-15T00:00:00+09:00
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2017年10月号 加藤わこさんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさま
『Sさんからの手紙の事』
初めまして、京都市に住む加藤わこといいます。蘭の会さんへ手紙を書いてみませんかと、古い友人から声をかけてもらい、喜んで書かせてもらっています。
わたしは、9年前にもらった1通の手紙を、今でもときどき読み...
『Sさんからの手紙の事』
初めまして、京都市に住む加藤わこといいます。蘭の会さんへ手紙を書いてみませんかと、古い友人から声をかけてもらい、喜んで書かせてもらっています。
わたしは、9年前にもらった1通の手紙を、今でもときどき読み返します。お守りのような手紙です。「リビング京都」というフリーペーパーに、写真付きのミニコラムを書いていた時、編集部に届きました。
「突然のお便り失礼いたします。先日あなたの吉野川の写真を見て、あまりにも懐かしく、ペンを取りました。おいやでなければお読み下さい」。
端正な文字が流れるようにつづきます。
「昨日のことや朝食のおかずのこと等忘れてしまうことがありますのに、何故、60年も前のことが、昨日のことのように鮮明に思い出せるのでしょうか。わたしは77歳の女性です。父は奈良県吉野郡の出身です。子どもの頃の夏休み、父の実家に遊びに行くのが楽しみでした。おばあちゃんは、川で遊ぶ孫たちのために草鞋を作ってくれました。都会の子は、川を渡るのに、ぬるゝ水苔がついた石ですべってしまうのです。筏(いかだ)にも乗せてもらいました。上から鮎が群れをなしてキラリゝと光って泳ぐのが見えました。そこは、『天皇の淵』と、言われていました」・・・
手紙が語る故郷の川の、鮮やかなこと。清流にきらめく鮎の群れ、子どもの声が響く谷。「天皇の淵」とはどんなところだろうか。想像するだけで吸い込まれそうになります。
「思い出してもどうにもならない、帰らぬ昔のことですが、父も母も祖母も元気で居た頃に、戻れるものなら戻りたい想いで、心の中はいっぱいです。」
何度読んでも、このくだりで喉の奥がクッとなります。9年経った今は一層沁みます。
Sさんにお礼の手紙を書くと、すぐに2通めの手紙が届きました。お礼のお礼がていねいに綴られ、次のように締められていました。
「…あなたのおかげで、胸がいたくなるような遠い日の思い出にひたることが出来ました。ありがとう。お元気でおすごしください。拝」
手紙の中に、詩を見るときがありますよね。思いかけず。
インターネットにもたくさんの言葉が溢れています。それらは誰に宛てるともなく漂う手紙の束のように思います。
何度も開く手紙のように、何度も覗くページがあります。蘭の会に寄せられた手紙のページも、そんな場所になりそうです。そしてそこにわたしも加えてもらえることが、本当に嬉しいです。
いつかお会いできることを願って、書き置きます。
■加藤わこ(かとうわこ)さんって、どんな人?
奈良県吉野郡出身、京都在住。コンピュータメーカー勤務後、フリーランスでいろいろな仕事や活動をしています。現在は講師業、企画請負、ライター業、三度笠おむすび塾主宰、まち歩きガイド等をやっています。好きな言葉は「カオス」です。ブログ三度笠書簡
プロフィールの写真は気仙沼市の復活した名店「喫茶マンボ」で今年(2017)3月に撮ってもらったものです。
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フリーランス
2017-10-15T00:00:00+09:00
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2017年8月号 安田恵美さんより、おてがみが届きました
こんにちは。
はじめてお手紙を書きます。
私は、犯罪をしてしまった人、刑務所に入った経験がある人が、その後、社会の中でひとりの人間として生活していくためにはどのような施策が良いのか、そしてなぜそのような施策が必要なのか、という領域の「専門家」...
はじめてお手紙を書きます。
私は、犯罪をしてしまった人、刑務所に入った経験がある人が、その後、社会の中でひとりの人間として生活していくためにはどのような施策が良いのか、そしてなぜそのような施策が必要なのか、という領域の「専門家」(といってもまだまだヒヨコですが…)です。日本の制度や議論の中で研究していても、なかなか良いアイディアが思い浮かばないので、私は、大好きなフランスの議論や制度を参考にしながら研究をしています。このお手紙も、実はパリのホテルの一室で書いています。フランスの法制度を学ぶのはもちろん、受刑者や出所者に寄り添いながらかれらの社会復帰を支える人々にインタビューしているのです。彼らの活動からヒントを得て、大阪で「シャバの空気をおいしくする会」という活動を色々な人とつながりながら行ったりもしています。
私の活動や研究テーマは賛否両論あるもの、だと思います。肯定的にみていただくのも、批判的にみてただくのも、それはあなたの自由です。ただ、批判的な意見を持たれるとしても、刑務所や受刑者の状況や法制度について知ってほしいのです。知ったうえで、批判をしてください。
まず、私が今このような研究や活動するようになったきっかけとなった出来事をお話ししたいと思います。10年くらい前、私は、東北にあるとある小さな地方大学で、犯罪と刑罰に関する刑法という法律を学ぶゼミに所属していました。ある日、そのゼミの活動の一環として、刑務所を見学する機会がありました。私の頭の中には、なんとなく、「犯罪者・受刑者」にたいして、「みるからに悪そうな顔つきの(もしかしたら、頬に傷があるかもしれない)、身体が大きい」イメージがありました。しかし、実際に行ってみたら、刑務所内の工場には、白髪の、小さいからだを寒さでより丸めてヨロヨロと作業にいそしむ高齢者が多かったんです。彼は一日8時間、東北の雪が積もるところにある施設なのに暖房もなく、冷え切った工場でひたすら作業にいそしんでいました。
その光景は私にとって、とても衝撃的でした。
彼らはなぜ、刑務所でこんな暮らしをしているのだろう?私は、刑務官に尋ねました。こたえはこうです。「彼らは、軽い窃盗を何度も何度も繰り返しているんですよ。貧しくて食べるものが買えないんです。食べるものを盗んだり、無銭飲食したり、あるいは、刑務所なら3食食べれますからね。」
私が抱いていた「受刑者=悪人像」は見事に消え去りました。人・お店のものを盗ることや無銭飲食はもちろん犯罪です。彼らが犯罪をしたのは事実です。でも、実際に高齢受刑者を目の当たりにして彼らを2年、3年と刑務所に入れることは行き過ぎているように思えました。今でもそう思います。それから10年間高齢犯罪者の実態と彼らに対する刑罰や刑務所内での生活について研究を重ねてきました。彼らはなぜ犯罪を繰り返すのか?簡単に言ってしまえば、刑務所出所後に行く場所がない、頼る人がいないから、です。でも、もっと奥底には、「自分を大切にすることができなくなっている」という問題があるのだと思います。ひどい生活困窮状態に陥るまでのながれの中で、色々な人や機関に頼ってもうまくいかない、という経験をとおして、「人から大切にされない→自分は大切にされる価値のない人間なのだ→どうなっても良い」という思考のスパイラルにおちいってしまうのではないでしょうか。
様々な法律は、受刑者であろうと、犯罪をしたことのない人だろうと、同様に人権や尊厳が尊重されるとしています。法律のセカイではそのようになっていても、一般的にはこのような考え方は、少数派のようです。むしろ、一般の人々にこのようなお話しをすると、「偏っている」と言われることもしばしばあります。私は、むしろその逆で、受刑者も出所者も一人の人として等しくまわりから大切に扱われなくてはならない、と言っているつもりなのですが…。
「シャバの空気をおいしくする会」の活動を始めたのは2016年春のことです。きっかけは色々ありますが、「偏っている」という誤解を解きたいな、と思ったのもそのひとつです。2016年の活動としては、刑務所と社会を行ったり来たりしている人が置かれている状況について情報を提供し、それについて考えたり、意見を交換するワークショップの開催、出所する人にたいしては、「シャバのあるき方」というペーパーの作成、といったところです。シャバの空気をおいしくしていくためには、社会にいる人たちと刑務所出所者の両方に力をつけてもらうことが必要です。社会にいる人たちには、刑務所を出てきた人の存在を否定しない力を、刑務所から出所した人には社会に居場所を作っていく力を。このように書くと、住む場所や社会保障の話になりそうですが、必ずしもそうとは限りません。
さて、話はフランスに戻ります。今回も、受刑者や刑務所出所者によりそう活動をしている様々な人々にお話しを聞くためにきました。たくさんの人に出会いましたが、特に印象的だったのは、刑務所内で「表現活動」を提供している人々です。フランスでは、刑務所の中に一般の人・団体が入って受刑者によりそうことができます。刑務所の中で絵をかいたり、立体を作ったり、詩を書いたり…。自分の気持ちを表現する活動は彼らにとってとても貴重な時間となります。自分と向き合う時間、コミュニケーションの時間…人それぞれです。
どれも社会で生活するための準備運動として重要なものです。残念ながら日本の刑務所では、「教育」的な活動が多く、そのような自由な表現活動は数少ないのです。刑務所出所者も、若ければすぐに就労することが「良い」とされ、高齢であれば施設でおとなしくしているのが「良い」とされている。いずれにしても、彼は「品行方正」であることが社会から求められているのです。そのために彼らは刑務所出所後、シャバとの熾烈な「闘い」に身を投じなくてはならず、自分と向き合う時間や余裕はないのです。「闘い」に疲れ、「犯罪のスパイラル」に陥っていく人も少なくありません。
「表現」する時間は、コミュニケーションをとるためのツールであり、自分と向き合う時間であり、自分を解放する時間にもなります。いずれにしても、彼らにとってとっても重要です。社会と闘っている受刑者・出所者にたいする「表現」の場が日本でも広がっていくことを切に願っています。そして、このお手紙を読まれたみなさんのうち一人でも多くの方に、「表現」という形での彼らの社会参加に関わっていただきたいのです。
■安田恵美さんって、どんな人?
2013年3月に大阪市立大学大学院法学研究科後期博士課程を修了。2015年4月より國學院大學法学部に専任講師として着任し、現在に至る。大学では、主に刑事政策と犯罪学の講義を担当している。専門は、高齢犯罪者の権利保障と社会復帰に向けた施策に関する日仏比較。大阪では「シャバの空気をおいしくする会」の一員として、市民向けワークショップの開催や刑務所出所者向けのリーフレットの作成等の活動を行っている。
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國學院大學法学部専任講師
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2017年7月号 ジェイリンミンダさんより、おてがみが届きました
日本の体験
私はジェイリンミンダです。亜米利加人です。ウェスタンミシガン大学の学生です。宜しくお願いします。
みんなの日本語を勉強する西洋人はこういう文章を暗記しないと行けません。そのように、日本に留学する時に、正しい道は作ってあります。毎日日本...
私はジェイリンミンダです。亜米利加人です。ウェスタンミシガン大学の学生です。宜しくお願いします。
みんなの日本語を勉強する西洋人はこういう文章を暗記しないと行けません。そのように、日本に留学する時に、正しい道は作ってあります。毎日日本語の授業に行って、周りの留学生と話したり、遊んだりします。授業に居ない時に祭りに行って、観光し、留学のプログラムの作った無理矢理します。反対に僕は留学した時に、親友と新しい道を作りました。
よく僕は日本語について褒められて、そして、「よく勉強していますね!」とかいわれるけど、僕の本当の習い方は授業も教科書なしでした。英語の表現は「When in Rome, do as the Romans do」で、日本に居たから、日本人のような生活をしたかったです。僕と親友はよく授業をさぼって、遊びに行ったんです。でも、遊ぶと言うことは必ず、日本人と。この親友はスペイン人で、日本語を勉強したことは無かったから、僕はずっ通訳者としていました。そのことによって、僕の話す能力はよく上達できました。
実は、最初に僕は普通と留学生の生活をしたかった。でも、すぐにこのスペイン人と仲良くなって、毎週末激しい遊びに僕をつれって行きました。クラブや、バーや、居酒屋によく行ってしまいました。二人の関係は、このスペイン人は危険な状況を見つけて、僕は日本語によって、守りに行く。
例えば、あの日に、スペイン人と一緒に無料のナイトクラブに行って、僕は日本人の友達できて、一緒に踊ってた。反対に、親友はバーでたくさん飲ませられた。親友を探す時に、その隣の人は高そうなスーツと宝飾を着てる人達でした。そんな早く判断したくなかったけど、安全のため、僕は親友に来て、「ああ、すみません!私の彼女のことです!帰って行ってしまいます...」といいながら、手をつながって逃げました。
この生活はちょっと激しそうけど、価値は本当にあると思います。ことに、他の留学生はできないたくさん経験できました。クラブで会った友達は自動車修理工で、カーショーに苫小牧まで連れて行ってくれた。たくさん楽しい人も、素敵なカイゾされた車もレースを見られました。その上、そういう人達はずっと日本語だけしゃべるから、ずっと勉強になっていました。
一人でも、ちょっと大学のことを無視して、冒険のように探していました。日本人の彼女できて、その時も本当に凄くいい練習できました。授業で習えない言葉をたくさん聞いてる。「振れる」、「チュー」、「ふざける」、「合コン」などは、日本語の教科書には無くて、体験から習った役に立つ言葉です。その付き合いのおかげで、今の付き合いに対しても、友達の付き合いについても話せてきました。
加えて、海外でバイトするのがも、日本語を手伝いました。ずっと先生とALTとして、英語を教えました。その時に英語も日本語で考えてるのが良いことでした。以外は翻訳者のこともできて、それによって、日本語の書き方をたくさん並んで来た。日本語の考えは英語にするのが、本当に日本語の理解を支えました。
僕の留学年はちゃんと精巧ではなかったです。成績はよくなくて、大学の期待をたまに捨ててしまいました。留学生とは仲良くならなかった。けど、僕にとって、体験できるのほうが大事でした。だれでも、流れを従いに行けるけど、新しい世界を見るために、流れの反対に行って。君たちの読者は留学に行きたい日本人でも西洋人でも、本当に体験して欲しいです。一瞬だけでも、学生の世界を忘れて、ちゃんと留学する国に含まれることを許したら、感動して、目を覚めると思います。
■ジェイリンミンダさんって、どんな人?
留学生
男性
亜米利加人
22歳
ウェスタンミシガン大学生
英語の先生
作曲、日本語の専攻
社会言語学専門
臭味は亜米利加のプローゲーマのこと、卓球、演歌、スポーツ
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大学生・英語の先生
2017-07-14T20:40:40+09:00
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2017年6月号 ヨシミヅコウイチさんより、おてがみが届きました
だれかがなにかを「装う」ということについて、
こんにちは、
いかがおすごしでしょうか、
と書き出した途端に、もう「ごっこ遊び」が始まってしまっているわけですが、100人を超える詩人のみなさま、しかも「女流」ということは全員女性であるわけです。ことば...
こんにちは、
いかがおすごしでしょうか、
と書き出した途端に、もう「ごっこ遊び」が始まってしまっているわけですが、100人を超える詩人のみなさま、しかも「女流」ということは全員女性であるわけです。ことばなるものと真剣に向き合うことを専らにしている100人超の女性のみなさんに対して、そうしたことをやや疎かにしながら日々暮らしている男としての当方が一体何を語ることができるだろうか、そう考えると全くもって途方にくれてしまいます。
ですがここは気を取り直し、手紙、というヒントをいただいているわけですから、そこは当然男が女性に手紙を書くとなればそれはもう恋文ということになるわけです。そして恋文の本義とは、やはり決定的な真実の光を輝かせないまま、いかにして無内容な作文を綴ることができるかにあるわけです(ほんとかよ)
と、いうわけで、と強引に、例えばみなさま、を「あなた」とおきかえて、つまり「あなた」に向けてお手紙をしたためているのです、と装って、だれかがなにかを「装う」ということについて、少しだけ書いてみたいと思います。
装う、というとやはり装いも新たに、とか季節の装いを身に纏って、というように女性が自らを美しく演出するというような華やかな香りが漂います。つまりこれはお召し物の話です。また化粧というのも当然装いであり、最近は日常的に化粧をする男もいるらしいですが、当方は一切そういうことに疎いタイプということになります。むしろ換喩的にズレていくタイプなので、よそう?と聞き違えて装いは二の次に子供のためにご飯をよそう女性の姿、あるいはその手の内にある器、そこに盛られた白い飯、そんなものを想像してしまうのですが、つまりは単に食い意地が張っているだけなのです。
それはさておき、例えば新装開店、と書くとややタバコ臭くなってまいります。装備とか装填、と書くと厳めしい男所帯の火薬の臭いが、或いは偽装、と書くとかなり邪な感じがしてくるわけです。おなじ「装」という漢字でも、こちらは何と言いますか男くさいといいますか、嘘とか虚構とか良からぬものの匂いといいますか、どこか犯罪的な感じもしてくるわけです。
ですが、うそ、というと何故でしょう、何か女性のほうが男よりも長けている、そんな印象もあるのです。うそ泣き、というのは女性がするものでしょう。個人的な経験から来る間違った印象(!)かもしれませんが、どうもいつも騙されているのは男のほうであって、最近はやりのダーティーな心理学ものとか、メンタル何とかみたいなハウツーもの、そういうものを読んでいるのはたいてい男で勤め人で、という感じがして、我々男はそうした作戦によってかろうじて女性に対抗しているに過ぎない、勝利しているのはいつも女性である、そんな気が致します。男の場合は、うそ、というよりも、えせ、似非、ですね、つまり似て非なるものを装って、こそこそと忍び寄っていく、そんな感じでしょうか。総じて詐欺師的といいますか、適当な作り話をでっち上げて、我田引水、自分の土俵にするすると引きずり込む、そんなところがせいぜいです。ですから、女詐欺師(女流詐欺師?!)というのは、女性的なうそと、男性的なえせと、双方をあわせ持つ、ある種の最強の登場人物ということになるかもしれませんが、それはまた、別のお話し、と致しましょう。
男が聞いた風な話を始めますと、大抵ウソ臭くなってきます。やはり匂う、臭う?多分うそが香る、薫ることはなさそうですね。うそを見破るのは女のほうであって、男の語りというのはいつだってウソ臭いのです。おそらく女性にとって、男が何事かを語るふるまいは、嗅覚に訴えかける何かであるようなのですが、そこはあなたのお考えをぜひともお伺いしたいところです。
そういえば、あの有名な物語の登場人物は匂とか薫という名前でありましたし、この二人の男の間でゆれ動くヒロインは、男たちの不実を疑い、おのれの不義を恥じながら、水面に浮かぶ小舟のようにゆらゆらと漂うばかりでありました。そしてそんな物語を1000年以上前に物語ったのは、なるほどこれは女性であったわけです。ですが真っ赤なウソ、ということばもありますから、こちらは大いに視覚的な表現でありまして、私の仮説は脆くも崩れ去ってしまうばかりということになります。
一方、女のうそを見破るのはやはり同性である別の女性、或いは男であるなら例えば刑事とか探偵とかジャーナリストといったような特殊な職能を持った存在でありまして、これはつまり真実を暴きたてる者、であります。言わなくてもいいことをあえて言ってしまう存在ですから、性格が悪いといわれたり、ヤボなことをあえて口にするような男なので、これはやはり女性にはモテない、ということになっている様です。
つまり女性は一般にうそを見破るが、男がうそを見抜くにはやはり特殊な技能がいるということです。ですが昨今は「女性上位時代」なんてことばがかつてあり、「草食系男子」といういい草があるように、ある種の「男らしさ」がスポイルされつつある時代であるわけです。これはどうやら近代というシステムが否応なく孕んでいる何かであるらしく、ここ数年というスパンではなく、ここ100年来、という中で、緩やかに起きつつあることのようです。
例えば夏目漱石の小説に『三四郎』というのがあります。この小説の主人公=三四郎は、「索引の附いている人の心さえ中ててみようとなさらない呑気な方」だとヒロインにズバリいわれてしまう、それこそ草食系男子の走りみたいな男であります。で、この小説のなかにこんな台詞があります。
「同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋お七時代の恋だ…(中略)…何故というに。二十前後の同い年の男女を並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。男はばかにされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね……(後略)」
なるほど明治時代の昔からこんなでしたか、と、まさしく目から鱗でありまして、たまたま最近全く別の興味から読んでみたのですが、教養がないというのは罪深いことだ、と反省している次第であります。
そんな時代であるが故に逆に「ツンデレ」などというキャラクター造形が出てくる、ということかもしれません。ツン=男まさりと見せた積極的な誘惑のアプローチ/デレ=結局乙女、というこのシステムは、こういう仕掛けになってますよという「振り」であるわけで、そう、結局プロセスはどうあれ男は乙女にたどり着くほかはない、というこれまたごく当たり前の結論にたどりつくしかないのです。
大分横道にそれました。ともあれ装うという言葉には、本体そのものとそれを覆い隠すように存在する外側との最低でも二段構えの、ある種の二重性を前提としていることになります。本体とそれ以外、つまり外部に対して防御的に身代わり的に作用する何か、昨今のLINEやSNSといったテクノロジーはまさしくそうした二重性を補填する、優れて今日的な何か、なのでありましょう。
ともあれわれわれは膨大な量の装いの文化というものと延々と作り出してきたということの様であり、多くの人はそれを多かれ少なかれ受け入れつつ生まれ、生き、そして死んでいく、ということを繰り返してきたことだけは間違いがないでしょう。本来、あなたが感じているようにわたしも感じている、などということは厳密にはあり得ないわけですが、虚構としての共感を装いによって獲得し、ある種の共同性というものを維持運営してきたということでしょうか。そしてことばを獲得したことによってやがて内面なるものを獲得し、ある種の二重性の中を生きていくことを強いられながらも、声の肌理であるとか、ふいに作動する無根拠な身振りのようなものを改めて獲得しつつある、今はそんな時代でもあるかもしれません。装われた共感を蒸発させてしまう空っぽの身振り手振り、またはその連なりのようなもの?
共感、と言ってしまえばあらゆる表現手段はただそのことだけに賭けられているともいえるわけで、人様の共感を得るための作法、そうしたある種の表現系一般としての装い、真実には決してたどり着けないものの、ある種のかりそめの共感を織りなすことによってかろうじて今ここにいることができる、ということかもしれません。
これは私の個人的なことになりますが、わたしにはどちらかというとあえて人様の共感を得られないような方向にハンドルをついつい切ってしまうという心の癖のようなものがありまして、それはつまり装いの亜種としての偽装であり、個性的であろうとする凡庸さであり、平凡であることを忌避する振る舞い、であるわけですが、そのことによって共感の機会を大いに失ってきたような気がしており、実際そうであったでしょう。であるならば逆に、平凡であることを専らにすれば共感の機会も増えるのではないか、というようなことを最近は考えておるのです。またそうした機会とはいわば装いがはらはらと外れていく、そんな武装解除の瞬間でもあるような気がしており、そう考えるとなるほど世界の秘密というものはいつでもごくごく単純なものであるのだなぁ、と、やや既視感にさいなまれつつ、ひとり言ちているのです。
なんてことをぼんやり考えながら、これはほんとうについ数日前のことですが、酒でも飲むべしと最寄り駅近隣のターミナル駅で下車すると、改札前で、大学時代の恩師が入場して来るのにバッタリ出くわしてしまいます。最近どうしてるの?と問われ、ちょっと人様の共感を得るための作法、というものを勉強しております、と答えると、ああそうだねえ、キミはそれを学んだほうがいいよねぇ、と納得されてしまいまして、まったく困ったもんです。積もる話をとも思いつつなんせお忙しい方なのでご遠慮申し上げ、実際その日もなにかの講演だったらしいのですが、取り急ぎ恩師の近著を拝読して共感したというようなやり取りをし、何かあったらまた学校のほうに郵便を送ってください、そう仰っていただき、その場はそれで数分で別れたのです。
自宅への道すがら、そういえば折に触れ、恩師にはそうしたことを言われて来たような気がして、なるほど忠告というものは言えばわかるというものではなく、最後は本人の気付きの時宜でしかないのだ、という至極当たり前の結論に達したというようなありさまで、それでもそのような時宜でうっかり出くわすワケですから、なるほど「縁」というものはあるのかもしれない、そんなことを考えさせられる出来事ではありました……
……といった感じで、わたしはいくらかでもあなたの共感を得ることが、はたしてできたのでありましょうか。何やら意味ありげなこと、内容のある事をくどくど書き連ねてしまったような気がして、大いに心もとないわけですがさてさて、お叱りを受けないうちにこの辺で、退散するに若くは無し、ということでございます。
どうぞお健やかに。
ごきげんよう。
■ヨシミヅコウイチさんて、どんな人?
ヨシミヅコウイチ/由水孝一/画家
1969年神奈川県川崎市生。1989年から15年ほど京都、のち東下り現在埼玉在住。現代美術系平面作品を専らにする画家、1997年ОギャラリーUP・S(東京)にて初個展、以後各所にて個展等。一頃屏風に入れ込む。2011年BOOK ART 2011にて初映像作品「散漫な思考 散漫な映像 散漫な読書 散漫な観客」を発表。最近は映像作品の設計図としての脚本のお勉強をコッソリとしている。但しその実態は単なる不良中年にすぎない。 https://www.youtube.com/watch?v=Rj-1CUvv-Ts
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画家
2017-06-15T00:00:00+09:00
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2017年4月号 アワポンさんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさまはじめまして。
アワポンと申します。
なにをしてる人なん、と聞かれていつも困っています。
わたしが大事にしていることは、
ぱっと見るととてもばらばらなのですが、
一応ひとつ、ずっとつながっているテーマがあって、
そのことを、ちょっと...
アワポンと申します。
なにをしてる人なん、と聞かれていつも困っています。
わたしが大事にしていることは、
ぱっと見るととてもばらばらなのですが、
一応ひとつ、ずっとつながっているテーマがあって、
そのことを、ちょっとだけ。
世界が生まれる「ひとつまえ」に、
勇気を出して目を凝らし、耳を傾けると、
なまなましい、知りたくなかったけど、
いちばん探していたエネルギーが佇んでいる。
その世界を知らずに一生逃げ回ることをしあわせと呼ぶのかもしれない。
でも、一度その世界を知ってしまうと、逃げることはもうできなくなる。
おなじなのにちがう、ちがうのにおなじ、それはひとつまえ。
だいきらいはだいすきで、だいすきはだいきらい。それはひとつうえ。
ときどき、
そんなことも全部ぶっとんで
360度ぐるりと景色がせまってくる。
すべてはその瞬間のために。
■アワポンさんって、どんな人?
1979年兵庫生まれ。10歳の息子と2人暮らし。
物事の「ひとつまえ」をととのえたり、問いかけることをライフワークにしています。
フランス語の「シチュアシオニスト」ということばを最近知って、
これが肩書にぴったりくるかなぁ、でもちょっとちがうなと悩んでいます。
音楽畑出身でありながら、その経歴をぶっとばし、
人生の謎を追ううちにいつのまにやら闇鍋な人生。
鍋の具材は、形而上の世界と形而下の世界をまじめにつなぐヒントたち。
西洋占星術、ホリスティックな体の整え方、菜食、哲学、心理学、シャーマニズム、民俗学、
サブカルチャー、普段着着物、オルタナティブな学びについて、などなど。
手仕事をしながら「?」を「!」にひっくりかえすのが好き。
だいぶ煮えてきましたので、5月に文学フリマに出店予定です。
2015年末より、ココルームにお邪魔して働いています。
ブログはこちら
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シチュアシオニスト
2017-04-15T00:00:00+09:00
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2017年3月号 瓜生智子(うりうさとこ)さんより、おてがみが届きました
蘭の会の皆様
こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶、瓜生智子と申します。
まだ顔も見ぬみなさまへどんなお手紙を書かせていただこうかと、考えあぐねておりましたが、変に肩肘を張らず、最近よく考えていることを、想いのままにつらつらと書かせていただこうと...
こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶、瓜生智子と申します。
まだ顔も見ぬみなさまへどんなお手紙を書かせていただこうかと、考えあぐねておりましたが、変に肩肘を張らず、最近よく考えていることを、想いのままにつらつらと書かせていただこうと思います。
最近「愛する」とは一体どのようなことなのだろうか、と考えることがございます。皆様は、どんな風にお考えでしょうか。
「愛するとは、その存在をそのままに受け止めること」
様々な方や本とのであいの中で、今の私に一番しっくりときた言葉でありました。
そして、同時に愛するということの難しさを教えてもらった言葉でもありました。お恥ずかしいことに、自らのことを振り返ると、相手に対して「こうあって欲しい」「ここを変えてくれないかな」「もう少しこうだったらいいのに」とその人の存在をそのまま受け止めることと、真逆なあり方をしてきた自分に気づかされました。
では、存在ごと受け止められるとは、一体どういったことなのだろうか。と考えますと、ふと、小さい頃に父が話してくれた大地の働きの話を思い出しました。それはこんな話でした。
父「失敗や挫折から立ち直るには何が必要だと思う?」
私「うーん、私が頑張ることかな?」
父「そうだね、それもあるかもしれないね。でも、立ち上がる時、踏ん張る時にそもそも大地がないと立ち上がれなくないかな?私たちは大地があってどこか当たり前と思っているけどそうじゃないんだよね。その上、大地は、この人が好きだから、嫌いだからと区別はしない。この私に変わって欲しい、と…こうして欲しい、と…あぁして欲しい、と言わない。なんとも言わずに、ただただひたすら支えてくれているのが大地なんだよ。だから感謝していかなきゃいけないね。」
という話でした。その話を聞いた時には、ふーんとしか聞けていなかったのですが、今になってこのことを思い出したのでした。そして改めて考えてゆくと、その大地の働きは、きっと生きているうちも、死という形へ私達の姿が変わっても大地は、そのままに私たちを受け止め続けてくれているのでしょう。
そんなことを思うと、私が気づかぬうちに「私そのままを受け止めてくれる存在とであっておったのだなぁ…」と不思議な気持ちになるのでありました。そして、それと同時に、じゃぁ、そこを教えてもらった私はどう生きていくのか。ということを問われているようにも思うのであります。きっと大地の働きの様にはいかないかもしれない。でも、それでもそんな生き方にが出来たらなぁ…とせめてつまづきながらも出会いの中の1つ1つに「愛する」を生きていけたらと思う今日この頃であります。
そして最後に「詩」には実は、そんな「愛する」がたくさん込められている気が勝手にするのであります。今のこの私を愛するということ、人を愛するということ、人生を愛するということ、世界を愛するということ…。詩を作られている方々は、今の私という存在、良しも悪しも、美も醜もこの一瞬を全力で受け止めてらっしゃる方々の様に感じております。勿論、これは私の勝手な邪推に他なりませんが、だからこそ、詩に出会わせてもらった時に、なんとも言えない安心感をいただく様に思うのです。そして、そんな皆様の在り方に憧れずにはおれません。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
いつの日か、皆様と直接におであいできる日、楽しみさせていただいております。
合掌
■瓜生智子さんって、どんな人?
浄土真宗本願寺派僧侶。日本ヨガセラピストスクールヨガインストラクター。1987年、福岡生まれ。大学で社会学コミュニティマネジメント、大学院で真宗学を専攻。2013年までグリーフケアに携わる一般社団法人リヴオンに勤務。現在は浄土真宗本願寺派勤務。
週末は、影絵を使った布教団体「ともしえ」で全国のお寺を訪問したり、若手僧侶の集まりである「カンゾー」で死をカジュアルに語り合うDeathカフェを関西の寺院を中心として開催。
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僧侶
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2017年2月号 観野健太郎(かんのけんたろう)さんより、おてがみが届きました
蘭の会の皆様初めまして。
観野健太郎といいます。
きっかけを頂いて皆様に手紙を書くことになり、詩ってなんだろう自分から溢れてくる言葉?なぜ詩を書くのだろう?などと答えがないことを考えたり、子供の頃は授業で詩を書いたり、俳句を詠んだり、大学生の頃はバ...
観野健太郎といいます。
きっかけを頂いて皆様に手紙を書くことになり、詩ってなんだろう自分から溢れてくる言葉?なぜ詩を書くのだろう?などと答えがないことを考えたり、子供の頃は授業で詩を書いたり、俳句を詠んだり、大学生の頃はバンドで曲を作ったりと、意外と創作活動をしていたなと思い出がよみがえってきました。
34歳になり、生活の中で創作することも減ったのかなと思っています。
最近は料理を作ることや本を読むこと、自転車に乗ることなどで生活を楽しんでいます。
新しい料理を作ったり、新しい自転車のルートを開拓したりと、作ることは日々続いていますが、考えが溢れてくることを楽しむというよりかは、おいしかったり、懐かしい味だったり、景色が綺麗だったり、幼少の頃見た景色が思い出されたりと、作ることで、記憶の中の何かを頼りに楽しんでいるような感じがします。
時間軸的には小さい頃に比べて生きることができる時間は減っています。
これから食べることができるご飯の量も減っています。
将来のことを考えることができる時間も減っています。
その分飲んだビールの量が増えて、
いろんな人と話した時間が増えて、
これまでの思い出も増えているはずです。
思い出が増えることで創作する時間は懐古する時間に取り変わっているのかなとふと思いました。
かくいう私も事あるごとに懐かしい気分に浸ってしまうので、思い出と創作は反比例するというのは嘘ではないのかもしれません。
そんなことを考えていたら、小さいころの記憶が思い出され、いい機会なのでここに記したいと思います。
? 料理の記憶
始めて料理を作ったのは3歳位だと思います。
おおぶりにザクザク切られた人参とピーマンが入った焼き飯を作りました。
椅子に乗ってご飯を炒めています。
生まれた時から5歳位までは団地(公団)に住んでいました。 (団地というのは何棟かの同じような建物が一団で建っているのを指すようで、私が住んでいたのは一棟建てで、これは団地ではなく公団住宅というそうです。) そのためか、団地や公団を見るのが今でも好きです。
で、この記憶では台所が玄関側の廊下に面した所にあるので、公団の記憶だと思います。
焼き飯の味は覚えていませんが、台所の窓から光がさしています。
一度、当時住んでいた公団を見に行ったことがあるのですが、玄関側の廊下は東側にあったので、焼き飯を作ったのはお昼前のことかなと思います。
これが私の初めて料理をした時の記憶です。
? 渡し船の記憶 よく市営のプールに連れて行ってもらっていました。
プールに行き、泳いで、カップラーメンを食べます。
プールに行く時は自転車で向かいます。
途中渡し船に乗り、人工島の間にある川を渡ります。
現在の知識で穴埋めすると、公団が大阪市港区にあり、プールが大阪市大正区にありました。
この地域は港に面した地域で、隣同士の地域でも川で分断されていたりします。
そのため市が運営する渡船が運行されています。
? 父親と自転車で祖父の家へ
ある日、どんな成り行きか忘れましたが、祖父の家へ自転車で向かいました。
私は買ってもらった自転車で父の後ろをついてきました。
これについては行った記憶がありますが、到着して、自宅に戻った記憶はありません。
翌日おしりが痛かった記憶はあります。
これについても地理的なところを現在の知識で穴埋めすると自宅が大阪市港区で、祖父の家が大阪市の城東区というところにあります。
ついでにネットの地図で調べると、片道約10キロほどあるようです。
? 父と港へ
先にも述べたとおり、港の近くに住んでいました。
港とは言うものの横浜のような洒落たところではなく、工場地帯で小さい船の工場や材木置き場などがある少し怖いところだったと思います。
父が運転する自転車に乗せられて港に行きました。
港の端っこのところで、自転車が止まります。
ここで父はブレーキを一瞬離して、海に落ちそうになります。
ハンドル部分に取り付けられた子供用シートに座っていた私は大層怖かった記憶があります。
終わりに
まだまだあるのですが際限がないので、この辺で留めておきます。
意外と父との記憶が多いです。父は調理師で、土日祝日が休みという職業ではなく、それが子供心に寂しかったのですが、今考えるとしっかりと遊んでもらっていたようです。
母が弟を出産するときも父親と過ごした記憶があります。
今自転車が好きなのはこの頃の影響でしょうか。
料理が好きなのも父親の影響かもしれません。
気分屋で意外と大雑把なところは母親に似ています。
現在私は税理士として事務所を開業しています。
趣味は料理を作ることと、自転車に乗ること。あとは公団のような大きな建物を見ること。
両親と小さい頃の経験に影響を受けつつ、仕事だけはなんだか影響を受けていなくて、しっくりこないのはそういうことかなと思ったりもしましたが、よくよく考えると祖父は漁師や商店主で、父親も一般的なサラリーマンではないというところで、自営業を選んだ時点で、やはり影響を受けているのかなと少し安心しました。
■観野健太郎さんって、どんな人?
昭和56年11月7日生まれ
大阪市港区で8歳位まで過ごした後に長野県大町市へ父親の転勤で引っ越す。
中学生からは奈良県の生駒市というところで過ごし、大阪府内の大学へ。
就職活動のタイミングが分からずそのまま大学を卒業。
成り行きで税理士資格を取得し、会計事務所やコンサルティング会社でのサラリーマンを経て、税理士事務所を開業。
週一回、毎週水曜日には西成区の「ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム」にてスリランカカレー屋を出店中。
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税理士
2017-02-15T00:00:00+09:00
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2017年1月号 門田表(かどたひょう)さんより、おてがみが届きました
【私たちに似たどっかのだれかさんへ】
毎日ミライについて、
どっかのだれかさんから噂を聞きます。
わたしたちのみらいと違うので
毎日何かがおかしいと思います。
何がおかしいかは、よく分かりません。
どっかの誰かさんのミライがおかしいのかもしれ...
毎日ミライについて、
どっかのだれかさんから噂を聞きます。
わたしたちのみらいと違うので
毎日何かがおかしいと思います。
何がおかしいかは、よく分かりません。
どっかの誰かさんのミライがおかしいのかもしれないし、
私たちのみらいがおかしいのかもしれません。
遠くの国でたくさん人が死にました。
どっかのだれかさんは、このままだとミライは
世界中戦争になると言ったり、もうとっくに戦争中だと言います。
どっかのだれかさんは、地球がもう壊れそうだと言います。
人類が沢山資源を取って地球を汚してしまったからだそうです。
このままではミライの地球には人類が住めないそうです。
戦争したり、資源を取りすぎたりすると、
世界中から愛が減ってしまうらしいです。
どっかのだれかさんが言うミライでは
弱い立場の子どもやお年寄りが死んでいくと言いました。
それは、私たちのみらいとは違うかもしれません。
私たちは忙しいんです。
未来を考えるのに。遠くの国へバカンスの計画をしなければいけません。
なので遠くの国でも戦争なんてしたくないに決まってます。
私たちは忙しいんです。
未来の私たちの食べものや資源を作らねばなりませんから。
なので地球が壊れるようなことは、減らしたいに決まってます。
私たちは忙しいんです。
未来の私たちや子どもたちの為に愛を学ばないといけないんですから。
つまり、私たちの未来のことを考えなきゃいけないので、
どっかのだれかさんの言う未来について考えてる暇は無いんです。
あまり変なうわさを流さないでくださいね。
私たちに似たどっかのだれかさん。
【生活】
命が大切にされることは、
誰にとっても役に立つことです。
みんなで生きていくことは時に難しいでしょう。
誰もが幸せになりたいです。そして、考えることが一緒の人間なんていないから、喧嘩や争いも時には起きてしまいます。
それでも、
なるべく誰かを助けたい。
それができなくても、誰かを傷つけないようにすることだってできるはずです。
みんなずっと幸せが続けばいいと思っています。
だけど、ずっと同じことなんてなくて何もかもが少しづつ、時に大きく、変わっていきます。
世界を変えるなんてことはできなくても、
1日1日を大切に生活していく。
愛や勇気といった口に出すにはちょっぴり恥ずかしいことをみんなで小さいことから、学ばないといけないと思います。
■ 門田 表(かどた ひょう)さんって、どんな人?
1984年生まれ。東淀川の障がい者のグループホームで働きながら、コミュニティハウスはらいふにて、パーマカルチャーをテーマに生きている。好きなことは読書や庭いじり、ギターや料理もちょっとだけ。
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パーマカルチャリスト
2017-01-15T00:00:00+09:00
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2016年11月号 赤井郁夫さんより、おてがみが届きました
皆さま はじめまして。
私の住んでいる尼崎市は昭和30年代以降の高度経済成長期に公害に苦しみ、最近は工場が減って人口も減り阪神淡路大震災の後、人口が阪神間の自治体の中で未だに回復しない唯一の自治体です。
そんなお疲れ気味の尼崎市で「哲学カフェ」を根付...
私の住んでいる尼崎市は昭和30年代以降の高度経済成長期に公害に苦しみ、最近は工場が減って人口も減り阪神淡路大震災の後、人口が阪神間の自治体の中で未だに回復しない唯一の自治体です。
そんなお疲れ気味の尼崎市で「哲学カフェ」を根付かせたいと活動を始めて3年、今日は私が哲学カフェについて考えていることをお話しします。
◆「哲学カフェ」に行ってみませんか。
哲学カフェでゆっくりお茶を飲みながらあなたの思うことを話してみると、みんながちゃんと聞いてくれます。それは快感です。
他の人の意見に耳を澄ませてみます。何を伝えたいのか、しっかりと聞いていると豊かな時間が過ぎて行きます。
全国各地で哲学カフェが行われるようになりました。哲学カフェと言う名前を聞かれたり実際に参加されたりした方もいらっしゃると思います。
でもまだ哲学カフェは敷居が高いなと感じる方が多いのではないかと思います。
「哲学」と言う言葉が固苦しく、もう少し親しみやすい名称がないものかと思ったりしています。
勇気を出して初めて参加した哲学カフェ、緊張されたのではないでしょうか。私も初めて参加した時は何も発言せずに様子を窺うようにして2時間を過ごしました。後から思えばそこまで固くならなくても良かったと思いますが何しろ様子が分からず、黙り込んで様子見をせざるを得なかったのです。
「哲学カフェ」とはどんな場所なのでしょう、何が起こっているのでしょう。
哲学カフェから帰る道、あなたは今しがたあったことを思い出しています。
あなたの言ったことが伝わった満足感か、伝わらなかったモヤモヤ感か。
他の人の意見、あなたには考えられないような意見に出会ってビックリしたか、それともわけがわからない、という混乱でしょうか。
◆哲学カフェはこんなところです。
哲学カフェにはテーマと簡単なルールがいくつかあり、進行役がいます。参加者の自己紹介はしないことが多く、時間を区切って行われ結論を求めません。仕組みはこれだけです。
哲学についての知識などは必要ありません。日常生活とは少し違うこの簡単な仕掛けが、自分一人だけで考えていると陥ってしまいがちな堂々巡りから抜け出す切っ掛けを与えてくれます。
哲学カフェはテーマについての色々な意見が出る場です。同時に人はそれぞれどのようにテーマにアプローチし、何を前提にしてどう考えるのか、「多様な考え方」が披露される場でもあります。
自分には出来そうもない考え方や発想に導かれた意見を聞くと、意見そのものよりもその考え方に感心することがあります。
「あっ、そういうふうに考えてもいいんだ」と自分にはなぜか越えられなかった一線を簡単に越えた考え方をポンと示されると、テーマがあなたの興味に合うか合わないかに関係なく、考えを深める切っ掛けになることがあります。
私は「哲学カフェ」をかつて戦国武将たちが鎧兜を脱ぎ、刀を置き一服の茶の前にだれもが対等であったと言う茶の湯に喩えることがあります。
対等と言う関係は実現が難しいものです。日常生活での親子関係、師弟関係、上下関係などの人間関係は、なにか特別な仕組みがないとなかなか解除できないようです。
日常生活を離れて、時間と場所を限定し名も知らぬ人たちと目の前のテーマに集中する、進行役がいて安全かつ安心して発言できることが確保されている、そのような場にあって対等な関係が実現できるのだと思います。
哲学カフェにはいくつか簡単なルールがあります。そのひとつが、今お話しした対等な対場で参加するというものです。参加者は対等な立場に立ち先生も生徒もありません。
哲学カフェはテーマについて話し合うためだけにその時だけできたコミュニティーです。
参加者が日常をどのように送っているのかなどは関係ありません。
その場に出された意見だけに集中して、みんなでそれらを吟味していきます。
一期一会です。ほら、まるでお茶席のようでしょう。
◆みんなで考える
哲学カフェでは何が行われ、何が起こっているのでしょう。
哲学カフェは哲学的対話の実践の場です。色々な哲学的対話法が工夫されていますが、哲学カフェは対話しながらみんなで考えると言うことを気軽にやってみよう、というものです。
哲学カフェでの対話の様子を少し再現してみましょう。
?.まず参加者にテーマについて思いつくことを出してもらいます。
テーマが「成長」で、例えば「成長と言う字は<長く成る>と書くのはなぜだろう」という問いが参加者から出されたとします。…テーマを字面で捉えると言う発想は面白いですね。参加者が「えっ」と思うような発想、考え方に出会える楽しい始まりです。
?.次に、この問いについて様々な考えを出して行きます。
例えばだれかが「子どもや植物の生長は大きくなったり背が伸びたりはするけど、長くはならないなあ」と言います。話を続けて行くうちに、「<長く成る>のは生まれてからや芽を出してからの時間じゃないかな。」とだれかが言います。
なるほど。成長とは(身体や茎は関係なく)生まれたり始まったりしてからの時間が長くなることなので「成長」と書く…のではないか。これは問いに対する一つの答えになるかもしれません。
?.そこで、みんなで寄ってたかってこれ(命題:成長とは始まりからの時間が長くなること)を検証します。
だれかが新入社員の例を挙げます。2年3年と経験を積み一人前になって行くことを成長と言っても差し支えないでしょう。他の人がスポーツを始めた人の例を挙げます。数年のうちにスキルを身につけることも成長と言うでしょう。
さらに、経済成長はどうでしょう、これもある時点からの経過を元に比較するもので時間が関係しているようです。あるいは別の視点から退化あるいは老化はどうか、この場合も時間の経過が関係しているのでこれも一種の成長と言い得るのではないか、などとみんなで考えて行きます。
このように検討を重ね、成長には「物事が始まってから時間が経つことが間違いなく関係している」という意見に異論がないならば、成長のひとつの特徴として合意ができたことになります。…実際にはこんなに一直線に進む事はないのですが。
みんなでテーマに関するこのような命題をたくさん出して検討して行くと、やがてそれらが参加者それぞれの「成長」についての考えをより鮮明に、詳細に、豊かにして行く事に繋がります。
哲学カフェで活発な検討を重ねていると、なんだか他人の頭を使って考えているような感覚を覚える事があります。他人と一緒に考えていることが実感できると、他人ってなんてありがたい存在なのか、と思わされます。
◆日常の対話
皆さま、いかがでしたか。
哲学カフェで何が起こっているのか、お伝えできたでしょうか。
皆さんの日常生活では対話は身近なものですか。
私は以前に一度、とても楽しい対話を味わった事がありました。その時の楽しさを忘れる事が出来ずにいたところ哲学カフェや哲学的対話に出会い、これこそが私がやりたい事だったと感じました。そして今は次のように考えています。
私を含め多くの人が学校生活や社会生活で対話のスキルを磨くチャンスが少なく、対話の楽しさを味わう事も少ない。みんなで考えると言うことは一般的ではないのではないか。
そして、日常的で気軽に楽しめるカフェ文化として哲学カフェを根付かせることができればかつて私が味わった楽しい対話体験をたくさんの人に知ってもらえるのではないか、ひいては少しづつでも対話の知識や経験がこの社会に蓄積できるのではないか、と考えています。
長々と書いてしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。
拙い文ですが、哲学カフェに感心をお持ちいただき、お近くの哲学カフェに参加していただく切っ掛けとなればければ幸いです。
■赤井郁夫(あかい いくお)さんって、どんな人?
昭和31年11月7日生まれ 兵庫県尼崎市在住
2010年初めて哲学カフェに参加。哲学カフェの普及活動を行う「カフェフィロ」が主催する哲学ファシリテーター入門講座などを受講の後、尼崎市北西部にある阪急電鉄武庫之荘駅周辺で哲学カフェを始める。現在月に5〜6回の哲学カフェを開催、進行役を務める。
武庫之荘哲学カフェ運営委員会代表。
以心伝心心〜むこのそう哲学カフェ〜
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むこ哲カフェマスター
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2016年10月号 勝見幸二さんより、おてがみが届きました
女の人について
こんにちは、初めて蘭の会の詩人の方々に手紙を書きます。勝見幸二と申します。今、私は、ひきこもりの四十四歳です。二十年以上、ひきこもりですが、外には出られるので、映画館で映画を観たり、本屋に行くことはあります。十年以上前に、ある知り合...
こんにちは、初めて蘭の会の詩人の方々に手紙を書きます。勝見幸二と申します。今、私は、ひきこもりの四十四歳です。二十年以上、ひきこもりですが、外には出られるので、映画館で映画を観たり、本屋に行くことはあります。十年以上前に、ある知り合いから、仕事を紹介してもらって、週に二日、土曜と日曜に働いています。店主は、私が、ひきこもりであることを、わかった上で、雇ってくれました。有り難かったです。
ひきこもりで四十四歳なので、きつい状況です。先のことを考えなくてはならないのですが、先のことを考えると、うつ病になってしまい、先のことを考えることを、止めました。私は、どのようなことになっても、行けるところまで行って、死ぬまで生きるつもりです。うつ病にならないため、今を大事に生きています。
女流詩人 蘭の会とあるので、私が思っている女の人について書こうと思いましたが、あまりにも女の人は、千差万別なので、これと言って、一つのイメージで女の人を語ることは、難しいと感じました。私は、あまり言いたくないのですが,恋愛経験が乏しいのですが、ここで、恋愛経験が無いと言う勇気はありませんので、四十四歳の私ですが、二、三回の恋愛経験があったことで、許してください。
ここで、蘭の会のみなさまに書くのは、恋愛の話もありますが、それよりも、どのような女の人と出会ってきたのかを書こうと思います。それで、女の人のことが、わかったとは思っていません。私にとって女の人は、未知との遭遇です。異星人に近いのです。だから、女の人に興味を持ち続けるのです。私にとって女の人は、好奇心そのものです。
先程書きましたが、私はアルバイトで、週に二日、土曜と日曜に働いています。すし食堂です。(そのような店名は、ありません。)その店で十年以上、働いていますが、スタッフは、ほとんど女の人です。大将(男)がいまして、その母親の大女将がいまして八十代後半です。この大女将には、よく叱られ、怒られましたが、仕事が終わって、帰る時にはいつも巻き寿司などをもらいました。
私は、このすし食堂で働いていても、仕事が覚えられなくて、覚えるのに半年以上かかりましたが、誰一人文句を言う女性スタッフはいませんでした。出来ることだけをしていました。テーブルにある食器の後片付けに、集中していました。女性スタッフは、五十代、六十代、七十代といましたが、私に対して、きつい言葉ではなく、優しい言葉ばかりもらいました。
店は、午前十一時半から、午後一時までが、一番忙しい時間になり、客がいっぱいやって来ます。その時、定食の寿司が無くなり、客は、寿司ができるまで、待たなければならなくて、怒る客も出て来て、そのことで、焦っている時に、一人の女性スタッフが、どんとしていて、気構えがあって、客が怒っていても、笑っていました。「定食の寿司ができていないなら待つしかない。客は怒らせておけばいい。客がいくら怒っても、すぐに、寿司はできないのだから。」と言って、また笑っていました。私は、その女性スタッフの言葉で、焦ることを止めて、寿司ができるまで待ちました。結局客は、怒りながら寿司を待っていましたが、私は、その時「もうすぐ、寿司はできますので、すみません」と言いました。客は、その後、寿司とうどんの定食を食べて、帰って行きました。
これは、一つの話しです。色々と、女性スタッフのみなさんには、助けてもらいました。
私は、そのすし食堂では、ウェイターをしています。
七十代の女性スタッフと、少しした、接客のやり方について、喧嘩をしたこともありましたが、後で、私がその女性スタッフに謝ると、その女の人は「私も悪かった」と言って、仲良くなりました。
思ったことは、この職場の女性スタッフの人たちは、年齢は、五十代、六十代、七十代でしたが、悟っているとは言わないまでも、肝が据わっていると言うか、動じない印象があって、そのことは、凄いなと思います。今も、私は、すし食堂で働いていますが、動じないというのは無理で、いつも焦っていますが、それなりに緊張しながらも働いています。
短い話しになると思いましたが、長くなるので、しんどくなったら、無理に読まなくてもいいですが、私は書き続けます。
次に、印象に残った女の人は、十年以上前の人になります。今、私が四十四歳なので、三十歳位の時です。
その頃、私は、ひきこもりの人たちが集まる交流広場に参加していました。そこで、週に一回、ボランティアスタッフとして参加した海子さん(仮名)と知りあいました。当時、海子さんは、五十代後半の団塊の世代の人で、ビートたけしと同い年です。
この海子さんとは、話しが合って、よく居酒屋に行って、酒を飲んで話しました。
海子さんは、文学、映画、音楽も好きで、当時一九六十年代後半から七十年代前半の、安保闘争や学生運動、ヒッピーの話しを聞きましたが、海子さんは、そのどれでもなく、自分の人生を、生きていました。ベトナム戦争もありました。その中で、音楽や、文学、映画なども、盛り上がっていて、私も、その時代の音楽が好きで、よく聴いていました。
この海子さんのことは、色々あるのですが、一つの話しとしては、うまく書けません。
中途半端な、恋愛にもなっていない悩みをを相談したりもしました。私の行く末の悩みも、話しを聞いてくれました。
海子さんは、民間のユング心理学のカウンセリングの資格を取得するために勉強をしていたので、その効果が、私にも、影響していたのかもしれません。
海子さんは茶目っ気がありました。歩道を歩いている時に、急に、ある店にある風鈴を、飛んで鳴らしたりします。その風鈴は、海子さんの背よりも、高い位置にあって、だから海子さんは、風鈴を鳴らしたいので、飛んだのです。
海子さんには、たくさんの元気をもらった気がします。この出会いと付き合いは、一生忘れません。
次に、女の人ではありますが、これは一方的なもので、出会いと言えないかも知れないませんが、私にとって、元気をもらい続けています。それは、観て聴くことなのですが、私にとって、女性アイドルグループの存在が、元気にになったり、癒してくれるのです。特定の女性アイドルグループというのではなく、何人かは好きな女の子もいますが、基本的には、全体としての女性アイドルグループが好きなのです。それは、ライブに行ったり、CDを買ったりまでには至りませんが、基本的には、録画して観る程度ですが、この若い女の子のアイドルグループの言動は、男の私にとって、元気を与えてくれますが、効き目は短いです。実際に会って、話しているわけではないので、ほぼ、虚構を観たり聴いたりしているようなものだからです。しかし、それでも、女性アイドルグループには、魅力があります。それは、若さです。この若さが、私に元気をくれる。テレビ画面で、笑顔で歌って踊っている姿が、元気をくれる。当然、彼女達にも、たくさんの悩みを持った上での笑顔だと思います。それが、私には少しですが、心の支えになっています。それは、街を歩いている女子学生がはしゃいでいる姿に似ています。
私は、高校の時、思春期の影響か自意識過剰でうつ状態でした。その時の女子高生の元気や明るさを、太陽として、今でも感じてしまうのです。
この女性アイドルに対して下心がないかと言われると、ないというのは嘘になります。
私にとって、若い女の人は、光であり、星であります。ピカピカと輝いているのです。
それは、若い女の人だけではありません。世代を超えて、女の人は、輝いています。女性アイドルグループだけでなく、女性ミュージシャン、女性シンガーソングライターにも、同じことが言えるのです。
蘭の会の方々に言いたいのは、若い時があって、その時の青春が人によってはあって、その青春は、若い時に特に、意識するだろうと。ただ、意識しなかった私は、その若い時の青春が、欠けているようで、その時、若い女の子がはしゃいでいるのを見ると、私の十代が、甦る気がするのです。実際は、中年の男でも。
次に、私にとって、大事な思い出を書きます。それは、私が、小学三年生の時です。三年の時にクラス替えがあって、私は、その時森っ子(仮名)という女の子に出会います。森っ子は、母以外の異性、初めて女の人の原形を見たように思います。何か女のひとの、むきだしの姿、本能そのものというか、森っ子は、自分自身に正直すぎる位正直だったのです。子供の時には、よくありますが、森っ子は、それが突出していました。これは、私にとってショックでした。
森っ子は、周囲から女番長と言われる位に、気の強い女の子で、男の子がやって来て、森っ子と喧嘩をしても、男の子が負けて、泣いてしまう程でした。
森っ子は、女番長と言われるのが嫌だと言っていましたが、今思えば、言われても仕方がないと思います。
私は、森っ子に、急に襲われるような感じで、口と口で、キスをされたこともありました。その後、森っ子は、私の顔をみて、してやったりというような顔で、笑っていました。
小学校三年、四年が、私にとって、女の人と一番近づいたような気がします。
森っ子は、知能指数がとても高かった。それは、知能指数のテストで、学年の、一番だったからです。
森っ子は、ませていた。好きな男の子を見付けては、口と口で、キスをしていた。しかし、私は、この森っ子を最初に見た時、可愛いとも美人とも、思わなかった。私にとって森っ子は、好みではなかったのに、次々と、森っ子の魅力が出て来てしまう。歌を唄うのも、文章を書くのも、上手で、この森っ子は私にとって、超人でした。
クラスのお楽しみ会があるので、森っ子は、「眠り姫」を、芝居で見せようと考えた。
台本を作る時、何の本も無いのに、森っ子は、台詞を言い出して、私や、他の友達は、森っ子の言葉をノートに書いて行きました。その頃コピーはありません。本も無いのに、森っ子の言葉が、次々にやって来て、ノートに書くのが大変でしたが、そのノートに書くことが、終わった時、ノートには、「眠り姫」の台本ができていました。森っ子は、本も、何も見ず、言葉だけを発していました。この時、この森っ子のことが、少し恐くなりました。小学校三年、四年で、そのような、口伝えで、台本を作るなど、今でも、驚いてしまいます。
私は、森っ子の顔は、好みではなかったのに、そんなことは、どうでもよくなって、森っ子のことを、好きになっていました。
その後、小学五年のクラス替えで別々になって、森っ子と接することも、少なくなり、中学校も、森っ子と一緒でしたが、クラスは別々で、会うこともありませんでした。
中学校の卒業文集の中の森っ子の文章には、恋愛のことばかり、恋愛の思い出しか、書いていませんでした。森っ子は、恋愛に走って行って、森っ子の存在は、私の中から、風と共に去って行きました。
あまりにも、長文になってしまったのですが、大丈夫なのかわかりません。
まだ、一人私にとって、大事な女の人がいるのです。それを書きますが、独りよがりの独白になっています。手紙なのに、悪いと思っていますが、蘭の会の人のことを考えると、女の人ことを、どうしても、書きたいと思ってしまいました。
その大事な一人とは、私の母です。
母は、私にとって、初めて、出会った女の人である。
私が、子供だった時、母にヒステリックに「勉強しろ」と言われて、私は泣いていた。
母より、父の方が、好きだった。
母は、私に「勉強しろ」と言うのに、母自身には、知性の欠片もない。だから、私に「勉強しろ」と言ったのか?
私は、頭が悪い。それは、母の血が流れているからだと思って、母のことを憎んで、母に対して、当たり散らしたこともあったが、どれだけ、そのことで、暴れても、私は私でしかない。
今でも、何かあると、母とは、よく喧嘩をする。
ただ、最近になって、父が、認知症になった。介護の日々。その時、急に、母の存在が、大きくなってきた。七十歳半ばの母。そこには、知性以上の理屈だけではない、母の強い生命力を感じた。
母は、私の兄と、私を育てた。父も協力はしていた。しかし、子供を育てる大変さは、言葉にできない大変さがあると言う。そこには、小さな命が、あるのである。
母は、兄と私を育てた。命を育てた。その力は、知性や、理屈だけではなく、生命力と知恵が、大事になってくる。
そのことを感じた時、母の存在は、変化した。
父の認知症の介護は、今も続いている。父が、デイサービスに行くことによって、少しは、楽になったが、夜には、父は、家に帰って来て、おしっこを漏らす。母は、父の隣で、寝ているので大変だ。夜中でも、母と兄と私は、起きて、父のおむつを交換する。
母が老いて行く姿が、悲しい。もう昔のように母の知性について言うこともない。母には、心身ともに健康で長生きして欲しい、できるだけ。
母が元気でいると嬉しい。今でも、大喧嘩をするが、心の中では、母が、心身ともに健康で、生き続けることを、願い、祈り続けている。
母は、私にとって、今は、大事な存在になっている。
蘭の会のみなさま、女の人について、出来るだけ、正直に書きました。正直ついでに、また、正直に、書きます。
私にとって、女の人は、私より年下の女の人でも、私と同い年の女の人でも、私より年上の女の人でも、好きになれば、恋愛とセックスの対象です。それは、私にとって、本当に大事な気持ちです。もし、この世の中に、女の人が、いなくなったら、私は、死ぬかも知れない。それ位に、女の人は、大事な存在なのです。
恋愛やセックスの対象でなくても、女の人と接するのと、男の人と接するのでは、全然違います。女の人と接して話しをすることは、いつも、緊張と喜びがあります。
女の人に会うと、心が躍り、胸躍る。
女の人は、男以外。
若い女の子の中に女を見て、大人の女の人には、その中の少女を見出す。
女が集まれば、ヒステリックで、かしましい。
女の人を見ると苛々する。私に問題が。
女の人は、温かさを感じる。それは、母性から来るのか、異性に対しての反応か?
女の人が、子供を産む、産まないは、別として、女の人の体の中にある子宮に、宇宙を感じる。子宮の中に命が宿る可能性が、あるからだろう。
子宮には、あの世を感じる。この世に生まれる可能性のある、生命があるからだろう。
女は神秘。だから男は女に好奇心。
女は、色の色。花の花。それに男は、好奇心。美人、可愛いには、弱い。
性格も合えば、女の人との会話は楽しい。
しかし、私は、女の人に告白すれば、振られるばかり、私の性格に問題が。私の私が答える。「それは、そうだ。その上、お前の容姿にも。」
「はあ、なるほど」と、納得できる程、私はできていない。
気の強い女、気の弱い女。酒に酔って、色々話したい。
老若女(ろうにゃくおんな)と、話したい。
暗い女、明るい女、その心の中を、見てみたい。
私は、男。女の人を知りたい。本質がわかるまで。わからなくても、女の人に対しての好奇心は止まらない。
テレビでも、映画でも、詩でも、小説、絵画、音楽でも、宇宙、地球、生物でも、人生、女、男、人間でも、それらについて、女の人に会って対話をしたい。その思いは、一生続く。
女は、私の原動力そのもの。
男には、女が必要。
私の現在の活動は、上田假奈代さんの「詩の学校」に、通っています。この手紙は、上田さんの紹介で、書くことにしました。後は、週二回のバイトです。
蘭の会のみなさま。私が書いた女の人については、他にもあります。女の人の怖さについてとかです。他にも、女の人に対しての、男から見た、性についてですが、そのことは、書いていません。この手紙になっていない手紙は、基本として、女の人礼賛です。それで、このような、文章になりました。
蘭の会のみなさまに、言いたいことは、まず、女の人にしか、書けない詩があります。それに加えて、個性、センス、趣味、嗜好が、あります。
自分の中の意識下を見詰めれば、火の周囲で踊る類人猿を見るかもしれません。
ミクロとマクロとの合体、それは、矛盾するが、それを、夢見るような。マクロだけでなく、ミクロだけでなく、その中間の灰色の光景、生死の境界線、森羅万象も含めた、夢現の視野の状態から、死ぬまで、続く、詩作を、苦しみ、楽しみ、それらの詩達を、この世に、吐き出して欲しいです。
偉そうななことを、書いて、ごめんなさい。
■勝見幸二(かつみこうじ)さんって、どんな人?
一九七一年生まれ。京都市在住。二十歳前半からひきこもり。現在、週二回のバイト以外は、働いていない。出来れば、何かしらの話しを、表現して、食べて行きたいと思うが、現実は、とても、厳しい。
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人間
2016-10-15T00:00:00+09:00
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2016年9月号 夛田 雄一さんより、おてがみが届きました
「奇跡」
路傍には雨に濡れてグニャリクチャクチャの段ボールが一枚いまにも溶けそう…、酔うて寝転んでる私も…、其のままにこのままに崩れてドロドロになって地中深く滲み込んでいきたい。
心がマイナーになっている時ってさ、酔うのが早い。それでもね、意識が遠のく...
路傍には雨に濡れてグニャリクチャクチャの段ボールが一枚いまにも溶けそう…、酔うて寝転んでる私も…、其のままにこのままに崩れてドロドロになって地中深く滲み込んでいきたい。
心がマイナーになっている時ってさ、酔うのが早い。それでもね、意識が遠のくまで盃を重ねるのさ。身体が震えてる。 雨の音に混じって人の足音が耳の中を通り過ぎていく。吾が魂はノドをはいずり上がり吐瀉物に乗って口からドロドロと出てゆく。紫の唇が さよなら とささやいている。
全部嘘、吾輩はいたって元気。毎日毎日草刈りゴミ拾い、様々のパレード等のボランテイア。ある時は、詩、俳句、書道、美術、合唱、狂言、お芝居のお勉強、感傷にひたっている暇など無い。元来楽天家いくらへこんでも、一、二杯の焼酎でエネルギー回復。通う所は「ひと花センター」「釜ヶ崎芸術大学」ただ一心にワークショップを目指しボロボロのチャリンコで東奔西走。そんな活動をいつも笑顔でエールを送って下さるスタッフの方々に感謝、感謝、感謝。恩返し?…?うーん、私の笑顔と元気がなあ?
当地釜ヶ崎界隈でプラス志向で生きてゆけるのは、まさに奇跡。七、八割のオヂサン達がギャンブル、お酒三昧で終焉を迎える。吾輩も最近迄はそうでした。心の在り方で地獄にも天国にもなる。
♪ここ〜は天国 釜ヶ崎、釜ヶ崎。酔うたのお。
■夛田 雄一さんって、どんな人?
・名前 夛田 雄一
・肩書き 自由人(酔う人)
・プロフィール 釜ヶ崎在住28年 車誘導員歴15年
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酔う人
2016-09-15T00:00:00+09:00
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2016年8月号 天野妙子さんより、おてがみが届きました
恋をした。16 才、はじめての恋。
学校へ行くと彼に会える!それだけの理由で通学していたのに、彼はあまり学校には来なかった。
その代わり沢山の手紙をもらった。
もう手元にないので、どれくらいの量なのか忘れてしまったけれど、多分小さな段ボール箱一つ位の分...
学校へ行くと彼に会える!それだけの理由で通学していたのに、彼はあまり学校には来なかった。
その代わり沢山の手紙をもらった。
もう手元にないので、どれくらいの量なのか忘れてしまったけれど、多分小さな段ボール箱一つ位の分量にはなっていただろう。
ところが、私には彼の手紙の意味がよく分からなかった。一年先輩だっただけなのに、私は全くのネンネで彼は早熟の文学青年だったのかもしれない。
手紙の内容は忘れてしまったけれど「ラブレター」には違いなかった。二年後に彼が卒業してしまったので疎遠になってしまったが、今でも覚えているフレーズがある。「詩人は待つ。何を?詩人を」
もう年寄りになったのに、私はまだ彼の手紙に書いてあったこの言葉を時々つぶやいている。
もしかしたら、誰もが知っている有名な人の一文節なのかもしれない。でも今の私にとって、それが誰の言葉かを知る必要はない。教えてくれたのが恋人だったというだけで十分なのだけれど、彼は何故私にそれを告げたのだろう。
「ゴドーを待ちながら」という戯曲があると知ったのは随分後のことだった。読んだこともないし、その劇を観たこともない。それなのに、いつのまにかそのタイトルに「詩人」を被せてしまった。
待つ。待つ。待つ。待ちながら座っている。
私は詩人ではない。じゃあ何を待っているのだろう。
「…は待つ。何を?…を」
「…」に何を入れればいいのだろう?
多分それは「我」なのだろう。
そう、私はずっと私を待っていたのだ。
私が生まれる。私が死ぬ。そして生まれる。やがて死ぬだろう。
恋をした。68才、二度目の恋。
でも相手はいない。それなのに時めいている。
ただ生きているのが嬉しい。何の意味も何の理由もない。もうラブレターを書いてくれる人もなく、手紙を受け取ることもない。ちょっと寂しいから「蘭の会」に手紙を書いてみた。
■天野妙子さんって、どんな人?
17才で家出、日本各地を放浪。
47才で再家出、世界各地を放浪。
60才で出家、台湾、韓国、日本各地を放浪中。
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臨済宗天竜寺派雲水
2016-08-15T00:00:00+09:00
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2016年7月号 SAWAさんより、おてがみが届きました
お手紙…
さぁ、誰に何を伝えようか。
ずーーーっと闇の中を彷徨い
藻掻いて、足掻いて 苦しい日々から
お陰さまで 今は、
少し明るい場所へ向かえているように感じられています。
実際は 何処に向かっているのかも
分かってはいませんが…
“感じられる”そ...
さぁ、誰に何を伝えようか。
ずーーーっと闇の中を彷徨い
藻掻いて、足掻いて 苦しい日々から
お陰さまで 今は、
少し明るい場所へ向かえているように感じられています。
実際は 何処に向かっているのかも
分かってはいませんが…
“感じられる”それだけで
随分と“生きてる感”が違ってきています。
不安だらけの状況に 変わりはありませんが。。。
大好きな仕事をしながら
父を看ながら
随分進行した癌だと診断されようが
楽しく充実した毎日を過ごしていたんですけどね。。。
抗癌剤の副作用で
髪が抜けても カツラをかぶればOKだし
両手がアカギレ状態で
両足の裏に膿がたまっても
毎日しぼり出しながら
仕事に行くのが楽しかったし。。。
父が逝って
家族の居ない身になっても
大好きな仕事があったし
大好きなショーが観られたし
日々 楽しくいられたんですけどね。。。
鬱になりやすい薬を使っていても
アホほど楽天的で
主治医が呆れて笑ってましたけどね。。。
ショー出演者からの
たった1通の心無いメッセージで
一気に鬱状態になり
入院し…欠勤日数オーバーで
退職するしかなくなり、、、
誰にも、何処にも属す場所が無くなって
一気に心が不安定になって
独りで家に籠って
通院とスーパー以外
出掛ける事が無くなって、、、
1年以上
苦しくて・悲しくて・辛くて
泣いて・呻いて・恨んで、、、
誰にも 何処にも
必要とされてない自分が情けなくて、、、
光が射したかな? って
思った最初は
立て続けの偶然の出会い。
ブログで知り合った方のお誘いで
奈良のイベントに出演させていただいたり☆
私の発した一言から
大勢を巻き込んで
1本の舞台を創っちゃったりした時☆
楽しかったなぁ〜♪
シルク・ド・ソレイユの登録者や
テーマパークのダンサーや
ジャグリングの記録保持者や
プロ歌手やバンドの方々、、、
みんなの練習を見てる時間が
とっても幸せだった。
私は、何ができる訳でもないから
裏方のお手伝いだけ…のハズが
MCと音響をやらせていただいて☆
そんなご縁から
テーマパークのオーディションを受け
ハロウィン期間限定ながら
この私が エンターテイナーとして
大勢のお客様に楽しい時間を提供できて
自分自身も楽しんで♪
オーディション・リハーサルからショーが終わるまで
毎日ワクワク過ごせることが嬉しくて♪
そしたら
そしたら
なんと‼
病気…転移していた3ヶ所の癌が
小さくなった!
本体こそ どんどん大きくなってるけど…
転移していたのが ごく小さいモノになったから
もしかしたら…
もしかして…
無駄と言われてた手術を
主治医から提案され
思いきって受けました。
先のことは 分からないけれど…
“余命”という文字は
とりあえず外せている。。。
“あと2年!?”
いえいえ
もう6年を越えて…
私って、メッチャラッキーやね♪
私って、幸せもんやね☆
生きてるもん!
美味しいご飯食べられるもん!
気持ちよく歌えるもん!
挨拶したら 笑顔を返してくれる人がいる幸せ!
手術後、なかなかお仕事に就けなくて…
今の私の財産は“笑顔”だけ!
だから
この財産をフル活用して
いっぱい いっぱいバラ蒔いて
みんなで“笑顔持ち”になろうか♪
そしたら私も
誰かの役に立てるかな。。。
ん!?
もしかしたら
もう、こうして生きてるだけで
誰かの役に立ってる って思えてきた(笑)
笑顔でいるだけで楽しいよ♪
笑顔でいれば幸せだよ☆
ね♪
あれ!?
不安は何処へ行った?(笑)
とりあえず…
“笑顔屋さん始めました”
■SAWAさんって、どんな人?
Name:SAWA
Profile: 1963年生
過去に東映京都芸能所属。
映画村、時代劇、CM等出演経験あり。
・奈良 平城京天平祭
・舞台 arcano
・USJ 2013年ハロウィーン・ホラー・ナイト エンターテイナー
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笑顔屋さん
2016-07-15T00:00:00+09:00
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2016年6月号 若林朋子さんより、おてがみが届きました
おもしろく、じわじわとこわくなる、その繰り返し
蘭の会のみなさまへ
こんにちは。若林朋子と申します。
今日は、「いつも本当におもしろい。でも、じわじわと恐ろしくなって、隠れたくなる」仕事のことについてお便りします。
私は、15年近く働いた職場を2年...
蘭の会のみなさまへ
こんにちは。若林朋子と申します。
今日は、「いつも本当におもしろい。でも、じわじわと恐ろしくなって、隠れたくなる」仕事のことについてお便りします。
私は、15年近く働いた職場を2年前に辞め、今は個人で仕事をしています。プロジェクト・コーディネーターと名乗ってみていますが、ご相談、ご依頼いただいた件を、先方が望んでいる形にしていく調整役のような働きができたらと考えています。具体的には、編集や執筆、調査、研修会の企画、ウェブサイトの監修、NPOの支援など、範囲や領域を特に決めず、さまざまに働いています。
独立して向き合うようになった仕事のひとつに、冊子等の編集があります。社会貢献団体の機関誌や企業の広報誌の編集を担当しているのですが、全体の編集だけでなく、自分で取材先に赴きインタビューをして、記事に書き起こすこともしています。社会貢献の機関誌では、あらゆる分野の第一線で活躍している方々や企業担当者、NPOの社会的な活動等を記事にします。毎号の特集テーマは千差万別で、ほとんどがそれまでまったく知らなかった世界のこと。取材前には、インタビュー相手の著書を読んだり、関連分野の書籍を図書館で大量に借りてきたり、ネットで調べた情報でにわか知識を詰め込んだり、かなり切羽詰まった状況で準備を重ねます。自分が過去に受けた取材を思い出しては、「新聞記者さんはいつもこんな思いをしていたのか」と、いまさらながらお疲れ様でしたという気持ちになったりもします。
人生も折り返しの齢を過ぎてなお、定期的に「未知の世界を知る」機会を与えられていることには、本当に感謝するばかりです。この1年間を振り返っても、実にいろいろな「未知」に出会いました。お寺の社会活動や経営改革に取り組む若手僧侶のネットワーク、日本に暮らす外国にルーツを持つ子どもたちの言語習得や教育の問題、「銃を楽器にかえて」をスローガンに米国の貧困層の子どもたちに中古楽器を寄付し続け、米国の社会運動につなげた日本人ジャズ演奏家、元受刑者の社会復帰を支援する民間企業・・・などなど。インタビューに応じてくださる方は、皆さん例外なくご多忙なのですが、真摯に話を聞かせてくださり、ありがたいことです。取材後にテレビのニュースやウェブサイトなどを見ていると、それまで気にも留めていなかったような話題が、「あ、これはあの件だ!」などと、視界に、耳に飛び込んでくるようにもなりました。
しかしながら、当初は無邪気にも120%「知る喜び」だった、このインタビュー&記事執筆の仕事は、その後だんだんと、「どうしよう」という恐怖にも変わっていきました。インタビューの難しさ、文字にすることの困難が身に染みてわかってきたのです。初対面の人とスムーズに会話のキャッチボールをするのが得意かと言われれば、苦手です。ましてや、限られた短い時間のなかで“いい話”を聞きだす極めて上級のスキルはまだまだ身についていません。自分の質問がどうも相手に届いていないと見受けられる時の、いい会話ができていないという焦りと冷汗との闘い。インタビュー後も、まだ闘いは続きます。締切りを睨みながら、読者に内容が伝わるように、さらには印象に留めてもらえるように、限られた字数のなかで文字を紡いでいくのは本当に苦しい作業です。
そんな苦しみのさなか、ある時、叔母から1通の封書が届きました。「以前(私が)○○さんをインタビューしたという話を思い出し、これはあなたにぜひ読ませてあげたいと思いました」という手紙とともに、小説家・竹西寛子さんの『「あはれ」から「もののあはれ」へ』という本(岩波書店)のコピーが同封されていました。
「「聞く」から「知らせる」へ―聞書きの良書」というタイトルの文章。竹西さんが文章を書く仕事始めて間もない頃、大先輩の9人の女性にインタビューする機会を女性誌に与えられ、緊張したことと、精一杯つとめたつもりでも反省多々だったという経験が綴られていました。今の自分のことが重なって、冷汗しながら読んでいると、次の瞬間、もっと心にドスンと響く文章に行きあたりました。
「聞書き」は、聞き手が対象についての既知をもとに、既知の領域を確かめながら未知の領域に踏み込み、そこで引き出した対象の言葉の現実を読者に知らせる作業だとすれば、未知への飛翔は既知の量と質次第。そこで必要とされるのは聞き手の直観力と想像力であろう。それらのはたらきによって、弱く、強く引き出されてくる対象の新たな言葉の現実を知らされる読者としては、聞かれる人に劣らず聞く人自身の人間観や世界観、芸術観、直接には言語観をおのずから重ねて知らされることになる。 (『「あはれ」から「もののあはれ」へ』)
これはまったくその通りで、インタビューや執筆の際に毎回流している冷汗の原因は、無意識のうちにこのことが身にしみていたからだと実感したのでした。インタビューや執筆には、自分自身の人間性から何からすべてが如実に、隠そうと思っても出てしまうということに薄々気づき始めていたんですね。これは本当に恐ろしいことです。直観力も想像力も、人間観や世界観、芸術観、言語観も、鍛えようと思ってすぐに鍛えられるものではありません。ひとことで気持ちを表すならば、心から「やばい」と思ったことでした。
でも、少し救われたのは、続く文章でした。
「聞く」という行為から、「知らせる」という行為にわたる人間の経験、すなわち既知のととのえから未知の飛翔にわたって示される人間の機能の行使に、私は人間の魅力を思うようになった。
既知に満足すれば未知への飛翔は不要かもしれないが、この要、不要は、人間の存在をいかに広く、いかに層厚く認識するかしないかの違いでもあろう。仕上がった「聞書き」の弾みの違いとなってそれは現れる。 (同)
そうか、そうだ、社会のさまざまな場面で、たとえ人知れずであってもすばらしい活動をしている方々のこと、なかなか知られにくい社会課題に取り組んでいる団体のことなどを、記事を通じて少しでも多くの人に「知らせたい」。この気持ちが、今現在自分がものを書くことの最大の動機であり、ミッションなのだと気がつくことができて、ちょっぴり励まされ、ホッとしたのでした。
さて、竹西さんは続けて曰く、「だから「聞書き」はおもしろい。だから「聞書き」は恐ろしい」―――いやいやいや、ほんとうにその通り、その通りなんです。おもしろく、じわじわとこわくなる、その繰り返しで、原稿を書き続ける日々が今も続いています。
■若林朋子(わかばやし・ともこ)さんって、どんな人?
プロジェクト・コーディネーター/プランナー。デザイン会社勤務を経て学生に戻り、文化政策とアートマネジメントを勉強後、1999年〜2013年公益社団法人企業メセナ協議会に勤務。企業が行う文化支援活動の推進と環境整備に従事。 現在はさまざまな領域で、編集、執筆、調査研究、NPO支援、各種コーディネート等に取り組む。未知との遭遇に刺激されて働き、ベランダで植物や野菜が育つのを眺める日常が今のお気に入り。
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プロジェクト・コーディネーター
2016-06-15T00:00:00+09:00
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2016年5月号 生田武志さんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさま
こんにちは。生田武志といいます。
ふだん、野宿者ネットワークという団体で大阪の釜ヶ崎などで野宿している人たちへの支援活動などをしています。野宿している人たちの現場を回って相談にのる「夜まわり」とか、テント村のある公園での「交流会」と...
こんにちは。生田武志といいます。
ふだん、野宿者ネットワークという団体で大阪の釜ヶ崎などで野宿している人たちへの支援活動などをしています。野宿している人たちの現場を回って相談にのる「夜まわり」とか、テント村のある公園での「交流会」とか、電話での生活相談などです。なお、野宿者ネットワークはお金がない団体なので、人件費はゼロ、ぼくもそうですが、参加者はみんな無償で活動しています。
ぼくは大学を出たあと、日雇労働者をしながら活動していました。ここ数年は、日雇労働が少なくなったので肉体労働は辞めて、いろんなバイトをしながら活動しています。
釜ヶ崎では、日雇労働者が失業して野宿になる、という問題がずっと続いていました。このため、釜ヶ崎は野宿者が日本で一番多い地域になり、病死、凍死などで路上死が年間何百人もある街になりました。
けれども、1990年代後半から、フリーターで仕事がなくなり、野宿になる人たちが全国で現われ始めました。「不安定就労から野宿へ」という社会問題の主役が、かつての日雇労働者からフリーターなどの非正規労働者へと移っていったわけです。そうした人たちの相談を聞きながら、「日雇労働者がリハーサルし、フリーターが本番を迎えている」と感じるようになりました。
2005年ぐらいに、若年労働や貧困問題をテーマにした雑誌を作ろう、という企画が生まれました。その結果、有限責任事業組合「フリーターズフリー」を4人で作り、雑誌「フリーターズフリー」を発行しました。こうして、自分たちで作った「組合」という企業で雑誌を創刊した結果として、『フリーターズフリー』では、組合員であるぼくたち自身が出資、企画、編集、執筆、テープ起こし、校正、会計、全てを行ないました。一人一人が数十万円の出資をし、編集や企画などの作業をします。メンバー4人は、それぞれ東京、埼玉、神奈川、大阪に住んでいました。何度も会って話をしましたが、ほとんどはMLとスカイプなどで事業を進めてきました。
創刊号以来のフリーターズフリーの内容は、かなり充実したものだったと思います。特に、学者や評論家ではなく、当事者が声を上げる内容が、いろんな方から評価を受けました。池袋ジュンク堂店でトークセッションが開かれたり、NHKで取材されたりとかなり注目されました。フリーターズフリーは2号まで出した後、有限責任事業組合は解散し、「フリーターズフリー3号」を栗田隆子さん(働く女性の全国センター代表)との任意団体で作成しました。
みなさんの中には、自費出版などで本を出している人がいると思います。しかし、本を自力で出すのは大変ですね。ぼくはちくま書房、岩波書店などからも本を出しましたが、それだと「原稿を書くだけ」で印税が入ります。ぼくの場合、「収入÷執筆時間<最低賃金」だと思いますが、とにかく文章を書くだけで収入が入るので、その点は気が楽です。
しかし、雑誌を自分の事業で作ると、全ての作業に関わらなければなりません。執筆時間の10倍くらいの時間が取られ、おまけに、雑誌なので執筆者やデザイナーに自腹で原稿料を支払い、しかも自分の原稿料は一切入りません。さらに、本を売らないと赤字になって生活に支障が出ます。
フリーターズフリー3号は2人で出していますが、1人が50万円ほど出資しています。それで原稿料などと1000冊分の製本代を支払いました。フリーターズフリー1号と2号は出版社の人文書院に流通をお願いしましたが、実のところ、出版社→書店というルートを通すと、本の定価の3〜4割しか「フリーターズフリー」には来ません。本は、流通の中で大半が「中抜き」されてしまうのです。本屋の店頭で売るより、手売りの方が3倍ぐらい収入になります。店頭でいっはい売れる本ならそれも「あり」なんですが、フリーターズフリーは「一部では有名」だと思いますが、街の本屋さんで売れるような本では全くないので、「全部手売りとネット販売でやってもいいんじゃないか」という決断をしました。
計算しましたが、700部売れてようやくトントンです。でも、2014年末に出して、今の売り上げは60万円ちょっと! まだまだ赤字です。3号は新書2〜3冊分以上の内容があって1400円なので、たいへんお安いとは思いますが、雑誌の宿命か創刊号は売れても2号、3号はなかなか厳しいです。
こんな負担をして、なおかつ雑誌を自分たちで出そうとしたのは、既成の出版社や企業では出せない企画は自分たちの手で出さなくては、という思いからでした。そしてそれを、社会的貢献と収益性を両立させようとする「社会的起業」という方向で行なおうとしました。フリーター当事者の起業は多くありますが、「IT企業で六本木ヒルズを目指そう」みたいなものになりがちです。それとは別に、社会的に意味のある事業を社会的起業(ソーシャルベンチャー)として試みようと思ったのです。あくまで「試み」で、特に「収益」はなかなか実現できてませんが。
というわけで、以下、フリーターズフリー3号のお知らせです。
2014年12月、フリーターズフリー3号を発行しました。2008年に02号を発行してから6年ぶり、そして最後の「フリーターズフリー」です。
フリーターズフリーは、不安定就労や若年労働問題について当事者から声を上げるということを目的に、有限責任事業組合「フリーターズフリー」として編集発行しました。
2007年の創刊号は「生を切り崩さない仕事を考える」、2号は非正規雇用と貧困の原点としての「女性の貧困」がテーマです。
3号のテーマは「反貧困運動と自立支援」です。
反貧困運動は2007年から全国で広がりましたが、現在、それは明らかに以前のような明確な方向を示せなくなっています。
そして、この10年、様々な現場で「自立支援」という言葉が流行し、完全に定着していきました。障がい者や野宿の現場では、かつて「自立」の概念や「自立支援法」をめぐって激しい論争が繰り広げられ様々な問題が浮き彫りにされましたが、現在、それが「なかったこと」であるかのように、「自立支援」という言葉が普通に使われています。この「反貧困運動」と「自立支援」の意味をあらためて根底から問い直してみよう、というのが、この3号のテーマとなっています。
詳しくはこちらをどうぞ! Freeter's Free Memorandum
■生田武志さんって、どんな人?
1964年6月生まれ。同志社大学在学中から釜ヶ崎の日雇労働者・野宿者支援活動に関わる。2000年、「つぎ合わせの器は、ナイフで切られた果物となりえるか?」で群像新人文学賞評論部門優秀賞。2001年から各地の小、中、高
校などで「野宿問題の授業」を行なう。野宿者ネットワーク代表。社団法人「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」代表理事。「フリーターズフリー」編集発行人。
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野宿者支援活動家
2016-05-15T00:00:00+09:00
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2016年4月号 なかにしみほさんより、おてがみが届きました
Web女流詩人の会のみなさま
大変ご無沙汰しております。
私は、ここ数年、「アジア」「女性」「表現」をキーワードに個人研究をすすめています。その過程で、1986年に出版された雑誌『アジアと女性解放』に「特集:アジアの女たちの詩(うた)」があることを知りました...
大変ご無沙汰しております。
私は、ここ数年、「アジア」「女性」「表現」をキーワードに個人研究をすすめています。その過程で、1986年に出版された雑誌『アジアと女性解放』に「特集:アジアの女たちの詩(うた)」があることを知りました。それを知った時、アジアの一部である日本を拠点とする“女流詩人”の皆さまに、内容を紹介したいと思いました。
少し長い文章になってしまいましたが、以下にその紹介と私の考えを綴りました。お時間がある時に読んでいただけましたら幸いです。
『アジアと女性解放』は「アジアの女たちの会」が1977年の創刊準備号から1992年のNo.21までの15年間にわたって発行した日本の女性運動雑誌です。この雑誌は会員制で、発行の目的を「女性差別・民族抑圧の解放をめざして!」としています。売春観光や日本企業によるアジアの労働者搾取、環境問題など、日本とそれ以外のアジア諸国間に起こっている“国際”問題を女性の視点から紹介し、草の根の運動を呼び掛ける雑誌となっています。そのNo.17(1986年3月発行)は「特集:アジアの女たちの詩(うた)」です。そこには、韓国、フィリピン、台湾、ベトナム、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ネパール、インド、パキスタン、スリランカ、日本の“女たちの詩”が解説付きで紹介されています。何よりまずアジア諸国との広いネットワークに驚きました。
ところで、そもそも「アジア」とは、なんなのでしょうか?
インターネットには以下のようにありました。
「アジア(亜細亜、Asia)は、アッシリア語で東を意味する「アス」に語源をもつ(中略)現在ではユーラシア大陸のヨーロッパ以外の地域、つまり、アジア大陸(島嶼・海域を含む)であり、六大州の一つ。ユーラシア大陸の面積の約80%をアジアが占め、人口は世界最多で世界人口の約60%がアジアに住んでいる。(中略)アジアとヨーロッパの境界は、地理上の境界とヨーロッパ中心主義的な観点から見た人為的な境界が入り交じっている。(後略)」(wikipediaより)
アジアの語源は、東を意味するとのことですが、極東と呼ばれる日本側から見るとアジアは「西」に広がる国々です。身体的に黄色人種で、目が細く、髪が黒いといった“アジア人特有“の共通項があるように思えますが、南アジア、東南アジアの人々の姿を考えると、実際には肌や髪の色、目の形などの容姿は多様です。また宗教や歴史、文化背景もそれぞれに異なりかつ交流の重なりがあります。被植民地経験からくる欧米の影響も少なくないでしょう。そう考えると、「アジア」とは何なのか、実のところ、よくわかりません。
その、実のところはよくわからない「アジア」という名のもとに、その「女の詩」を日本語で紹介することに、この雑誌の特集は、どのような思いを持っていたのでしょうか。
雑誌は34ページ+表紙裏、裏表紙裏の合計36ページ。その大半の30ページが「特集:アジアの女たちの詩」です。特集の冒頭にあたる表紙裏にはこうあります。
「アジアの女たちが、歌っています。語っています。叫んでいます。」
この特集では「詩」は、「歌」であり、「語り」であり、「叫び」だとしているのです。紹介されているのは13か国、34作品。詩のタイトルを掲載順に紹介すると、ネパール「囚われの女たち」、フィリピン「祖国の女たちの解放に命を捧げたローリー」「基地売春婦のつぶやき」「出稼ぎの女」「ハリナ」「わが息子の鳩」「公園が生まれる」、韓国「お母さん-労働者の母へ」「労働者の生活」「昼休みの春」、台湾「笠を編む」「外資工場の女子労働者のうた」、スリランカ「女の創造主は誰」「新しい女」、インド「いざゆかん、女たちのもとへ-そこに団結が始まる」「読み書きできない女の哀歌」「Rapeされた女-三年のちの話」「二人の女」、パキスタン「自由に向かって」「声なき声」、ベトナム「ベトナムの姉妹に捧ぐ」「クオック・フォンを偲ぶ(T・A夫人に捧ぐ)」「叔母さんと女友達」、インドネシア「スンおばさんスンおばさん可愛いおばさん」「基本的人権」「女性解放」、タイ「タイの二人の女性の身上話」、マレーシア「農村の女」、シンガポール「性的ないやがらせで職場を去った-三人の女性の体験談」、日本「文字を知らないで・・・」「黒い指あとのうた」「光州-そして一年」「コンピューター」「旗」。
その半分の17作品に作者の名前がなく、また11作品の出典が明記されていません。編集後記によると、同雑誌会員でジャーナリストの松井やよりが「アジアの女たちの詩集をつくろう」と提案し、翻訳は同会員13人が手分けしたとあります。誤訳も少なくなく、編集に苦労があったようです。そして解説は詩や詩人についてではなく各国の政治・経済・女性の人権のお国事情が書かれています。つまり詩そのものではなく、詩を介して各国のお国事情を知ってもらおうという意図があるようにも思えます。
そのような意図は、読者にどう働くのでしょうか。私なりに、少し考えてみました。
まず、同誌P.5に掲載されているフィリピンの詩を読んでください。
「わが息子の鳩」 ミラ・アギラ
私のいる荒れた獄の中で、
生まれ 育ったつがいの鳩を
息子にやった。
鳩は羽を縛られていた。
「新しい駕(かご)になれるまで
そのままにしておくのだよ」
息子は
私の考えを嫌い
私に会いに来てもすぐに帰ってしまう。
そう。
おそらく私は“君主”
息子は鳩のテープをとり
自由にしてやった。
あなた方は私が怒り悲しんだと
思うでしょうか
そうではありません
駕の鳩が広く、青い空に飛翔していく理由も
誰がそれを望むのか
皆な同じ気持ちなのです
この詩には出典が明記されておらず、ミラさんが、どのような女性で、いつごろに書いたものかわかりません。ただし、この詩の掲載されているページに付記として「86年2月25日、マルコスはアメリカに亡命。20年にわたるマルコス独裁体制は崩壊し、アキノ大統領が誕生している」とあります。この冊子の出版は1968年3月ですから、その前月の出来事です。そのような時代背景を持って読むと、鳩は自由の象徴であり、テープをとって自由にした息子は、新しい時代への扉をあけた若者たちの比喩したようにも思えてきます。しかし母と息子に表れている関係性はなんだろう?政治的な背景と関係なく、ある家族関係の描写として、この詩を読むこともできます。
この冊子が発行された1986年という年について少し述べておきましょう。前述のとおり、
フィリピンでは1986年2月25日 に100万人の市民参デモを経て、フィリピンでマルコス独裁政権に代わり、アキノ大統領が就任するというエドサ革命、別名ピープルパワー革命がおこります。ちなみにアキノ大統領は女性です。同年4月26日にはウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で大規模場爆発事故がおきます。同年9月6日 には、日本の主要政党ではじめての女性党首として日本社会党委員長に土井たか子が就任します。政治において女性が活躍の場を広げる時と同じくして、現在につづく原子力発電所の問題が、都会ではなく地方で起こった、それが1986年です。
もう一篇、P.24-25に掲載されている地方の女性に目を向けた、散文詩の一部をここに紹介します。マレーシアの詩です。
「農村のおんな」
(前略)
二人の女の家は大きいが荒れている。家具というものは何もないーあるのは唯一、客が来て泊っていくときのために、きちょうめんに掃除された床の上に敷くゴザだけー
「夜は寒いのです」とトク・テが震えながら屋根の穴を指してみせる。
トク・テには全く肉がついていない。そのかぼそい骨格は35kgもないだろう。膝は関節炎で痛むという。彼女の顔はやさしさとあきらめの混じった表情をつくっている。
ロキアにはあきらめなどというものはない。見知らぬ人を前にして、始めのうちははにかんでいたが、自分の話をしたときには戦う意志が閃いていた。三十歳にしてなお彼女は魅力的である。
体重が書かれていることもあり、この詩を読むと痩せて疲れた女性をとてもリアルにイメージすることができます。その痩せた身体の上に「やさしさとあきらめの混じった表情」をもイメージします。そして、もう一人の女性の魅力、ここには書かれていないのに肌の艶をも想像してしまいます。
私の場合、ここにある詩を読むことで得られるのはイメージです。そのイメージは、政治や時代につながると同時に、一人一人の女性の身体につながるものです。
アジアはよくわからないと、いいました。しかし、この詩を読むことで、よくわからないアジアの政治や時代や、一人一人の女性の身体をイメージします。つまり、この「特集:アジアの女たちの詩」は、「アジア」の「女たち」を、日本語を母語とする読者にイメージさせたいという思いがあるのだろうと思います。国一つ一つの説明がありますが、各国ごとにイメージするのではなく、人々のひとつのつながりとしての「アジアの女たち」と、その一人一人の身体イメージが立ち上がる。そのための「詩」であり、ここでは、それを「歌」や「語り」や「叫び」とも言いかえることができると、読者の私は考察します。
詩が本業の女流詩人のみなさまは、この「特集:アジアの女たちの詩」を、どのように読まれるのでしょうか。また「アジアの女たちの詩」という括りを、どのように感じられるのでしょうか。機会がありましたら、感想や意見をいただければと思います。
また、何か、お伝えしたくなるような資料の発見や、考えることが、ありましたらお手紙させていただきます。
■なかにしみほさんって、どんな人?
大阪経済大学非常勤講師。日本アートマネジメント学会関西部会幹事。主な共著に、『大阪力事典』創元社2004年、『アートイニシアティブ リレーする構造』BankART1927,2009年、『日本学叢書4アジアの女性身体はいかに描かれたか 視覚表象と戦争の記憶』青弓社2013年、『アートミーツケア叢書1 病院のアート−医療現場の再生と未来』生活書院2014年。趣味はダルマ集めと旅行。詩人の夫と二人暮らし。昨年末に介護初任者研修を受講し修了しました。
【写真】『アジアと女性解放No.17 特集:アジアの女たちの詩(うた)』表紙
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大学講師
2016-04-15T00:00:00+09:00
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2016年2月号 櫻井篤史さんより、おてがみが届きました
蘭の会 ご担当者様
突然のお便りを差し上げる不躾をお許しください。
私は櫻井篤史と申します。
京都で映像制作のスタジオを運営していますが、運営といっても独りきりの自営業です。
元々8mmフィルムに親しむ機会があって、父親の8mmカメラを触らせてもらう内に...
突然のお便りを差し上げる不躾をお許しください。
私は櫻井篤史と申します。
京都で映像制作のスタジオを運営していますが、運営といっても独りきりの自営業です。
元々8mmフィルムに親しむ機会があって、父親の8mmカメラを触らせてもらう内にその面白さにはまり、中学生の時に「作品のようなもの」を作りました。自分が撮影した映像がまるで「映画」のように動いた時の感動というか驚きは格別で、筆舌に尽くし難いとはこの事かと思うほど有頂天になったものです。
その後、何とかこつこつと貯金して、22歳の頃、当時最高級といわれたZC1000という8mmフィルムカメラを購入します。自前のカメラは大切です。道具にはこだわらない方が多くいらっしゃいますが、自分のカメラにはしっかりと癖がついて私は好きです。文筆家の方の万年筆も同じような事がいえるのではと推察します。
以来ZC1000とのコンビで作品を作り続けて、私はいつの間にか映像作家と呼ばれるようになってしまいました。
「映像作家」という職業は、実はありません。この言葉は、日本の個人映画・実験映画の礎のひとりである松本俊夫氏が、1950〜60年代の「Film Maker」というアメリカのアンダーグラウンドシネマシーンの用語を直訳して日本に紹介したことから生まれた言葉だと言われています。こんな肩書きを名乗る日本人は当時殆ど居ませんでした。純粋に個人の表現としての映像を意識的に作る人のみがそう名乗っていたと思います。今日では、ちょっと変わった、拘りの有りそうな、映画監督以外の映像関係従事者は、CM界から企業ビデオまで誰かれなしに「映像作家」です。とは言え、誰に迷惑のかかる話でもないのでどうでもいいのですが。
動く写真…………、今では動画などと総称する場合も有りますが、映画の作りについて私は3種類しかないと思っています。
ひとつめは、見る人を楽しくさせる目的のものです。映画を作るほとんどの人は、そう思っているのでしょう。街の映画館でかかるような、エンターテインメントという言葉で形容される全ての映画・映像です。作る側で言えば私は全く興味がありませんが見る側で言えば結構好きです。ハリウッド製のサスペンスやアクションも飽きる事なく見る事が出来ますが、いざ作れと言われても全く意欲はありません。まあ、お前のような金のない無名の素人に作れるわけがない、と言われればそれまでですが、そういう事情で諦めているという事ではなくて、作る根拠の問題として意欲がないのです。物語を俳優が演じ、プロットをつむぎ、展開や構成を巧みに構築して観客のカタルシスを誘発する事の全てに関心が有りません。それはそういう作りをしたい作家に任せればいいと思っています。
ふたつめは、メディアとしてのメッセージ性などという言葉で何かに利用され使い捨てされるものです。例えば、企業の制作する様々な映像は、業界ではVPと言いますが、このVP制作の場合、制作する人間の思い入れや思想は殆ど不要です。クライアントの要望を聞きつつも巧みに自分の感性を織り込ませるなどという幻想に振り回されて、今日も無数の映像制作スタジオで、無益な映像が量産され垂れ流されています。そしてさらに滑稽な事に、CMやVPに携わるディレクターやスタッフの多くは、自らの制作した映像を「作品」と呼びますがこれこそ噴飯物です。それらの映像に貫徹されているのは、ただ企業の経済優先意図をオブラートで包んだメッセージだけであって、その映像における全ての「優れた部分」は消費者や視聴者の興味を惹くための手段でしかなく、映像そのものが自律しない、何かのための存在でしかないものです。
そしてみっつめ。
個人が、その内に秘めたどうしようもない衝動を光で具体化させた結果としての映像があります。
前述したように、日本の実験映画は、60年代アメリカのアンダーグラウンドシネマというジャンルから大きな影響を受けました。その背景には60-70年代の反戦思想に代表される政治思想的な要素があり、美術界の大きな変革も影響していました。また、それまでの大企業による映画製作体制へのアンチという側面も見逃せません。この時期の血気盛んな破滅的な反体制的反権威主義的な空気の中で、個人が作る映像作品は成熟して行きました。
今日、その本来的な意味合いは薄れたものの、個人が単独乃至はきわめて少人数で製作する非商業的な映像表現は、日本においても連綿と全国各地で続けられています。個人映画、実験映画、プライベートフィルムなど様々な呼称をまといながら、画家が絵を描くように、文筆家がペンを走らすように、「映像作家」は、自分だけの全ての責任において映像を作り続けているのです。
私は、幸か不幸かこの三つのうち、2と3同時に深く関わっています。その切り替えは想像以上に困難です。
かたや商業的な使い捨て映像とも言うべき(映像にとっては悲しい不幸せな状況の)商品を依頼されて作り売る生業として、かたや自分の内的な動機と身の丈の方法によって作品と成す苦しい生き方の基本として、全く矛盾するこれらの映像をアンビバレンツな状況の中で手がけています。
本来食い扶持としては、映像関係とは全く違うジャンルの仕事が良かったのかも知れませんが、当時の私は「好きな事で飯を食う」という呪文が頭から離れなかったのです。
誰に教わる事なくカメラをいじくり回し、美大・芸大などに映像専攻などが殆ど存在しなかった時期に、私は普通の総合大学に進学して、相変わらず独りで8mmカメラを回していました。数人の理解者とともに、鳥取砂丘などにロケと称してあてのない旅にも出掛けました。
「私の学生時代は映画三昧でした!!」と滑舌よく宣誓してみたいのですが、残念な事に当時の私の身体を席捲したのは、熾火のようにくすぶる学生運動でした。来る日も来る日もキャンパス内で情宣ビラをまき、夜は輪転機の油にまみれながら酒を飲み、翌朝またヘルメットを被って隊列を組む、そんな日々が続きました。再会した小学校の同級生に告白して付き合いかけたものの「そんな事を続けていたら就職できないわよ。」という手紙とともに彼女は去りました。
結局、無為徒食と言っても過言ではないただただ痛いひりひりした5年間、一体何をしていたのか、未だに詳細のひとつひとつに納得するものはありませんが、5年間という塊そのものは現在の人格形成に多大な影響を及ぼしていると自覚しています。つまりそれは、映画を作るしかない、という諦念に似た希望だけが、澱のように残ったという事実です。
この自覚は、しかし生業についての選択眼を曇らせて、私を広告代理店という魔窟に誘ったのです。
たまたま入社したその会社はブラックどころか漆黒の闇そのもので、残業は多い時で200時間を上回りました。しかも悲惨な事に広告製作の面白さに気がついてしまったのです。この時期、私は、超繁忙会社への入社、第一子誕生、妻の癌発覚が重なり、生きた心地がしない数年間でした。ところが驚く事に、この時期が、これまでに最も多くの個人映画作品を制作出来た時期なのです。後にまとめたフィルモグラフィーを眺めるとそれは如実で、逆境に強いのか逃避意識が強いのか、未だに定かではありません。
約10年間のサラリーマン生活に見切りをつけ、私は映像製作プロダクション代表として独立しました。子供は成長し、妻の癌は奇跡的に完治していました。
その後独立して21年。サラリーマン時代よりは遥かに多くの自由になる時間を手に入れたはずが、決してそうではなく、金策に走り、不本意に頭を下げる未経験の雑事はかなり私の心身を蝕み、ストレスだけが生み出されて作品はなかなか生まれなくなりました。それでも何とか自前のカメラだけは手に入れて、次の構想を練っているのですが………。
時々、仕事も映像制作も何もかも辞めたい衝動に駆られる事が有ります。かつてサラリーマンを辞めました。その後、夫も辞めました。でも映像制作については、辞めるとかそういう事ではない気がします。すでに交感神経の担当になってしまったのかも知れません。例えば、私たちが呼吸するように、睡眠をとるように、気がつくとシャッターを押しているという感覚でしょうか。
私のひとつ年上の映像作家、ハンガリーのタル・ベーラは、「もう映画ですべき事はすべてやった。」といって2011年にリタイヤしました。そう言い放った時の彼の歳をもうとっくに越えたのですが、私はそんなに格好良く達観出来ずモタモタグズクズしています。ただ、若い頃の気概、例えば内的世界を屹立させるイメージの具体化・顕在化といった勇ましい衝動は陰を潜め、「作り出す世界」から「見つけ出す世界」へ意識がシフトしているという自覚があります。この兆候は50歳を過ぎてから顕著で、傲慢さを戒め、静かに、ゆっくりと、見つけた部分に対する思考をそっと置きにいくような作品作りが心地良くなりました。畢竟、益々人々のカタルシスには寄与出来ず、更なる難解さを抱え込み、もちろんこれを生業とする事など微塵も考えずに今日まで生き長らえています。
そして2015年。折角ここまで生き長らえているのなら、夢のひとつくらい叶えてみたい、という思いが募り、30年来の構想であった、個人映画・実験映画の専門上映空間を開設しました。
個人が作る映像作品は、非商業的な性格から映画館ではかけられず、美術画廊などでは設備がなく、最近やっと美術館や資料館、図書館などにホールが完備されたものの敷居が高く、これまで殆ど専門の場がないのが実状でした。そのため個人的に映像を手がける作家たちは、喫茶店や会議室を借りて機材を持ち込み、自ら仮設の上映空間を確保しなければなりませんでした。80〜90年代にかけてこのような巡回仮設上映の苦渋を13年間味わった私は、いつか個人映像の専門スペースを作りたいと切に願っていたのです。
自分の作品発表の場としてはもちろん、この世界に無数に眠っている個人が紡ぎ出した様々な映像世界を、この漆黒の空間に解き放ちたいと、様々な企画を目論んでいる今日この頃です。
長い手紙になってしまいました。恐縮です。
10人居れば10通り、100万人居れば100万通りの生き方がある訳で、そんな、人の半生のひとつにおける微細な変化について書き連ねた拙文に最後までおつき合いくださり有り難うございました。
時節柄、お身体ご自愛ください。
■櫻井篤史さんって、どんな人?
1956年京都生まれ。0歳時大阪。以後1〜3歳鎌倉。4〜17歳横浜と巡り18歳の時に京都へ還る。1970年頃から8mmフィルム作品を制作、1990年頃からビデオ作品も手がける。1994年、映像製作事務所Finders Büroを設立し現在に至る。2007年より京都精華大学などで非常勤講師を勤めながら作品制作を続ける。2015年、京都・河原町五条に映像専門ギャラリー“Lumen gallery”を開設。
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映像製作プロダクション代表
2016-02-15T00:00:00+09:00
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2015年11月号 垣井しょうゆさんより、おてがみが届きました
「蘭の会」のみなさま、初めまして! 垣井しょうゆと申します。
まずは、あたしのうたを聴いてください。
♫ 手紙 ♫
遠い所に住んでいる
あなたへ 手紙を書こう
届かなくてもかまわないから
手紙を書こう
遠い所に住んでいる
あなたへ ...
まずは、あたしのうたを聴いてください。
♫ 手紙 ♫
遠い所に住んでいる
あなたへ 手紙を書こう
届かなくてもかまわないから
手紙を書こう
遠い所に住んでいる
あなたへ 手紙を書こう
たとえ 届かなくてもいいから
手紙を書こう
筆不精なもので、本当は手紙は苦手です。だけどこの頃、手紙っていいものだなあと思うんですよね。 年齢のせいかしら・・・・w
今年56才になりました。もう夫と二人暮らし、いつの間にか寂しさも通り越し、好きな音楽のことなど考えながら、毎日なんとかやっております。
息子が一人、孫が二人居りますが、近くにはいないので、年中行事ごとに手紙を添えて駄菓子などを送っています。
孫はまだ4歳と1歳半なので、大したことは書いていませんが、おばあちゃんから手紙が来る、ということが大事だと思っているので。
子ども時分、田舎から届く荷物の中に、いつも手紙が入っていました。その頃は、別段うれしいということもなかったのですが、祖母の手紙は、いつも美しい字で書かれていました。その手紙に込められた祖母の気持ちを、今は感じることができます。あたしのことを、かわいく思っていてくれたことが、よくわかります。
あたしにとって、二人の孫は宝物です。だからあたしも、祖母がしてくれたように、この気持ちを伝え続けていきたいと思っています。今はまだ届かなくてもかまわないから。
「手紙」といううたは、今年の2月に口から出まかせで作りました。1番も2番もほぼ同じw、詩としてはどうかな?という感じですが、どうしてもこううたいたくなるので、このままうたっています。歌詞はうたう為のことばで、乱暴な云い方をするなら、意味なんて無くてもいいと・・・・・ ところが、このうたは、だんだんいろんな意味を持ち始めました。
3月に初めて人前でうたったとき、聴いてくださった方が「いいうたですね。主人のことを想って、涙が出ました。」と、声をかけてくださったのです。その方は、昨年ご主人を、病気で亡くされたのでした。
あたしにとっては、意外な反応でした。なにしろ、口からの出まかせですから。でも、そう云われれば、このうたをうたうとき、あたしにもひとつの想いがあることに気付きました。いつも同じ景色を見ているようなのです。他のうたでもそうです。うたごとに景色があるのですが、それはごくごく個人的な、ないしょの話ということで・・・・・
それから、「あなた」ということばをうたうとき、特定の誰かだけではなく、自分意外のすべての人をも含むことに、今更ながら気付きました。”You” ってすごいことばですね。
ならば、”I”はどうでせう? あたしは本当に一人きりなの? ”You”が複数でもあるならば、”I”もまた複数であり得るのでは?
30年程前のことですが、 子どもを産んだとき、友人に聞かれたことがあります。「しょうゆちゃんの愛情は、ダンナさんと赤ちゃんと半分ずつになったの? それとも2倍になったの?」と。その時は、答えられませんでした。
でも今なら、どちらも違うと答えます。あたしの中には、大切な人の数だけのあたしが居るから、半分でも2倍でもない、1対1だと。
「遠い所」ということばも、いろんな意味を持っているのですね。物理的な距離だけではなく、人との心の距離だったり、時空を超える距離だったり・・・・・「まだ見ぬあなた」だったりね。
この頃思うのですが、あたしのうたは「遠い所に住んでいる あなたへ」の手紙なのかな?と。
その手紙は、元はあたしの個人的な気持ちから書かれてはいるけれど、うたうことは、つまり一般公開している訳で、誰もがシェアして、「あたし」や「あなた」に自分や誰かを当て嵌めて、共有できたらいいね!・・・・・うたは聴く人のものであり、口ずさむ人のものなのだから。
な〜んて、ちょっと調子に乗って、しゃべりすぎました。この辺でおしまいにします。長々お付き合いくださって、ありがとうございました。
この「手紙」をお送りすることで、どこかでお目にかかれたら、うれしいです。
■垣井しょうゆさんって、どんな人?
45才、人生の折り返しに新しい楽器を始めようとしていた折、テルミン、のこぎりと出会う。のこぎりの演奏で訪れた釜ヶ崎・三角公園での「のど自慢大会」に感銘を受け、18才で辞めたうたを50才から再開。51才〜釜凹バンド、52才〜かま哲ちゃん、54才〜猫山慎吾とこいしょうゆ(3バンドで活動中)。 56才、NYのこぎりフェスへ出演。(祝!初海外w)
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歌手
2015-11-15T00:00:00+09:00
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2015年10月号 緒方珠花さんより、おてがみが届きました
名前を失う事にとまどいもなく
違う星の 違う法則の中で生きる事を夢想する
日常を握りしめる力の弱さでしょうか
それを人生への無責任と呼ぶのでしょうか
最終電車というのは どうにもやってられない乗り物で
脚をひろげたまんま眠りこけるおじょうさんも中...
名前を失う事にとまどいもなく
違う星の 違う法則の中で生きる事を夢想する
日常を握りしめる力の弱さでしょうか
それを人生への無責任と呼ぶのでしょうか
最終電車というのは どうにもやってられない乗り物で
脚をひろげたまんま眠りこけるおじょうさんも中々だけど
赤ん坊の瞳の上に
無理矢理 日々の時間と老いが覆い被さったような
中年男性が放つ 軋みというのは強烈で
赤い顔をした彼は 摂り過ぎたアルコールを体内で発酵させて
口からげぽっと臭気を吐いたりする
どうしてこのようなことになったのか
問いは彼の根源へと向かい 時間をさかのぼらせる
一時間前の酒 今朝着た服 自分の子供や 結婚や
勤めて来た仕事 学生時代 初恋
彼の上につもり重なった時間や出来事が
ぽろぽろぽろぽろとはがれ落ちていった その先の
ずうとずううと昔に
彼ににお乳を与えてくれた
彼のおしめを替えてくれた
誰かの手のぬくもりだけが意識の片隅にあるような
そんなところから投げかけられるピカピカと鋭く光る疑問符
一体どうしてぼくはここにいるのか
シートの上で据わりの悪い首を こっくりこっくりと
しまいに ごつん!と窓にぶつけて 薄めをあけた瞬間
彼と私の目がふいに合ってしまったりすると
彼の中にある生まれたてのピカピカの疑問符が光の針となって
彼の瞳の奥から飛んできて 私に突き刺さる
ふと目が合っただけなのに
彼だけじゃなく、ちかごろはどうにもそんな具合で
出会う人 すれ違う人から
あのピカピカがやたらと私の中に飛び込んで来る
それは会社のトイレや、ランチタイムの喫茶店
通過待ちのふみきりの向こう側で
他人と出会わない様にうつむけていた行儀よい目線を
ふと上げたときのような
誰に向けられたわけでもないコミュニケーションの空白地帯
そんな場所で出会ってしまう時に放たれる
かすかに、だけど鋭く
それは つもり重なった日々の奥で 脈々と在り続けている
霊魂から発せられる はじめて世界をみたときの瞳と疑問符
この一週間ほどの間に
光の針は何千本も私の体に飛び込み突き刺さってしまったから
そろそろまた、流れ星にして 夜の空に返してこないといけない
だから今夜は散歩に行こう
丑三つ時を待ち 外に踏み出してみると
黒く、透き通った空気はなめらかで
風がすべすべと肌を撫でていく
地面からはわきたつように
虫達がしきりに互いを呼び合い 鳴く声が聞こえる
これも万有引力の一つの現れだな。と 考えながら歩きはじめる
眠りの時間を単なる空白の時と考える人がいるかもしれないけれど
そんなことはなく
毎夜 あなたが昼間のしめつけから
少し解放されて寝床の中にもぐりこみ、
息をするたび 眠りに近くなって
眠りに近くなるたび あなたの輪郭がやわらかくふやけてくとき
ふやけた輪郭の内側で 意識はぼやぼやとしながらも
今日一日のアレやこれやを
引っ張りだしたり折り畳んだり
ちぎって捨てたりと 半ばデタラメに働き続けているし
霊魂は ふやけた輪郭の隙間から抜け出して
街をうろついて 眠っている他人の霊魂と出会ったり
死者の霊魂とであったりもする
私がよく歩くケヤキ並木は たっぷりと広い二車線道路で
両側には団地 がいくつもたちならんでいる
一階二階三階と平行に伸びる廊下
等間隔に並ぶちいさな扉の上で 白い蛍光灯が
一つ一つの生活の入口に一晩中灯りをともしてじっとしている
その扉の奥では縦に横に積み重ねられた生活が
ほとんどは すうすうと寝息を立てて
すこしは 静かながら活動をつづけている
体に刺さった光の針が出す
チリチリという 小さな音が聞こえるほどの
静かな夜のなか
深海に住む大きな生き物のような その団地達に見守られながら
私は 二車線道路のまんなかを
きっちりと引かれた白線の正しさを乱すみたいに
でたらめに踊りながらすすむ
小さくひとつ飛び跳ねるたび うでが夜の空気を切るたびに
体は軽くなり開放感は増して
もしこのまま違う星へ飛ばされたなら
その星の法則に従って生きていけそうな気さえしてくる
だって いまここでも
私は何のしくみもきちんと理解出来ないままに
こうして息をし続けている
しばらくいくと、私が向かう道の先から
道路の真ん中を奇妙な歩き方で人がやってくる
こんな夜更けにと 自分のことを棚に上げていぶかしがっていると
散歩の最中に 何度か あったことのある兵士だった
彼は先の大戦の頃 この付近で働いていた
びっこのおかげで前線に行けなかったかれは
地域一帯が軍の火薬庫だったここで
火薬庫の番人をしていた
そして二回目の大きな爆発事故の時に死んだ
その事故の日には 50キロ先から空が焼けるのが見えたらしい
彼の顔は つぶれていてよく分らないのだけど
彼の声の若々しさと 彼の手の赤さと
火薬のニオイが 私は好きだ
かれと一緒にたばこをふかしたあと
私はまた歩き出す
ケヤキ並木をまがって 銀杏並木に入りゆるやかな上り坂を行く
山の手の高級住宅街のこのあたりも
静かな夜をたっぷりと抱えていて
家と家の物陰や やこんもりとした植木の間の
闇と闇をつなげた道を 人間じゃない気配が動いている
ほとんどの霊魂は 生身のままの人間をきらうのに
あの兵士が わざわざ私の前に姿を現すのは
ひょっとしたら どこか遠い親戚かなにかなのかもしれないな
などと思う
坂を上りきった丘の上
高級住宅街のてっぺんにある公園に着き
そこのジャングルジムによじ上って空を見上げる
星あかりと呼応するように 私に刺さっている数千本の光達が
元の主人を求めてよりいっそう
ちりちりちりちりと疼いている
遠くで朝刊を配達するバイクのおとが聞こえる
あおうーーーーーー
腹の底から 力いっぱいの遠吠えで
体中に刺さった光の針を流れ星にかえて夜空にむけて放った
数千の流れ星は空に 白い放物線をえがきながら
元の主人をめがけて かけていく
放たれた光が 主人の元へと急ぐ 円弧は
いつだって切実に美しく じっとそれに見とれていると
星の軌道の一つを逆さにたどり
流れ星よりも強く光る閃光が近づいて来る
ぐんぐんぐんぐんぐんぐん
それは ますます加速し 笑い声を上げて近づいて来る
あはははは・・・・・・
あはははは あはははは あはははは あはははは
けたたましく無心に笑う 一人の子供が
白く光を放って駆けて来る
あはははは あはははは あはははは あはははは
あはははは・・・・・と笑い続けながら
そのまま目の前を通り過ぎ みるみるまに遠くなり
通った空間に光の尾を残して 見えなくなってしまった
あっけにとられて呆然とたちつくす
一体なんだったのか
驚きにしびれた指先で
あたりを漂っている白い光の屑にふれると
ソーダの炭酸がわれるように爽やかにぱちぱちとはじける
子供が走り去った 西のそらをながめる
かけた月がまだまだ名残ってかがやいている
虫達もまだ呼び合いないている
けれどもそのうちに じょじょに白い朝がやってきていることを
背中に感じる
ふりかえると
正体のわからない鳥が 奇妙ななきごえをあげて
電信柱の間を飛んでいく
カラスのちいさな群れが東へ向かってとんでいく
私はこれから丘を下りて自分の家にかえる
きっと朝の準備をするとおもう
■緒方珠花さんって、どんな人?
緒方珠花(おがたみか) 絵描き
1989年生まれ
趣味:自転車、散歩、がらくた収集、読書
http://giant-kitchen.tumblr.com/
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絵描き
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2015年9月号 衣笠 収さんより、おてがみが届きました
言葉の葉っぱにあるゆたかさ
言葉について、みなさんはどのように考えていますか?
言うまでもなく、言葉は何かの意思、考え、情報等を伝達する人間考えたツールです。
伝えるという長年の思いと経験を積み重ねて、今の言葉が存在します。
その言葉の使い方という...
言葉について、みなさんはどのように考えていますか?
言うまでもなく、言葉は何かの意思、考え、情報等を伝達する人間考えたツールです。
伝えるという長年の思いと経験を積み重ねて、今の言葉が存在します。
その言葉の使い方という点に着目すると、今はどうしても発信側の視点にウエイトが大きくなっているように感じています。
言葉に力強さ、揺るぎなさなどが備わっていくと、人を動かす説得力を持った言葉になっていきます。マスコミ等で語られる言葉を見ていると、どうも発信側の視点が重視される言葉が「いい言葉」となっているように感じます。
しかし、これらの言葉は本当に「いい言葉」なのでしょうか?
逆に、曖昧な言葉や力強さに欠ける言葉の存在は、人間的なコミュニケーションおいて非常に重要なのではないでしょうか?
これはそもそもコミュニケーションとは一体何かを考えていくことにもつながっていきます。伝えたいことを伝えたいという人間の欲求はたしかにあります。しかし、伝えるという行為は、発信側だけの行為でなく、受信側の行為でもあります。
受信側の相手のことを考える、感じるという意識は、コミュニケーションにおいて難しいことではありますが、最も大切なことではないかと思っています。その行為は相手への思いやりや自分への謙虚さにもつながっていきます。伝わりにくいストレスの解決を、発信側の言葉の力強さだけに頼ってしまうと、もはやコミュニケーションとしての言葉ではなくなってしまうのではと思います。
雄弁に語られる言葉は非常に魅力です。しかし、その雄弁さがゆえにお互いに相手のことを感じとれるチャンスを失っているかもしれません。
今や多くの人が利用するフェイスブックに書かれている言葉についても考えてみたいと思います。ここでの言葉も発信者側にウエイトが置かれたものと言えます。誰にという相手を不明確なまま発せられている言葉が、フェイスブックでは多く見受けられます。この言葉は発信者側だけにある言葉であって、コミュニケーションとしての言葉ではないと言えます。返信のコメントや「いいね」ボタンでコミュニケーションがとれているようにも思えそうですが、発信者と違う意思や反対意見などは見えにくく、同じ考えの人同士だけの共感だけが可視化されやすい仕組みになっていると思います。
人との共感は気持ちのいいものです。しかし、共感ばかりを求めるコミュニケーションは、大きな盲点もつくりがちです。自分の想像力、創造力を高めていく上で、自分とは違う考えの人の存在は非常に重要です。とは言え、そう簡単に受け入れられないのも人間です。そのストレスとどう向き合うかが、コミュニケーションの難しさ、大変さとも言えますが、そこに曖昧な言葉やか弱い言葉がコミュニケーションでの工夫として使われ、相手を察していく気持ちを生み、ストレスを軽減させるのではないかと思っています。
あまりにも曖昧で、弱くてその言葉を見逃してしまうこともあるかと思います。実際に言葉として発していない言葉もあるかもしれません。言葉にできない感覚、あえて言葉にしない感覚。これらが言葉の「葉っぱ」の部分とも言えます。その言葉の「葉っぱ」の部分を感じとる力が発信者側と受信側の双方にあることが、ゆたかなコミュニケーションだと思っています。特に、日本人はその感覚を大切にしてきたと思っています。しかし、それが国際舞台等強い意見やPRを求められる場面では、マイナスに受け取られることも多々あるようです。出てこない、見えない言葉を大切にする、それは相手のことを察するという日本文化の素晴らしさ、優しさではないかと思います。
さて、名乗るのが遅くなりましたが、私は、神戸市役所で働く衣笠と言います。これまで仕事で文化、デザインに関わり、その中で、目に見えないモノをどう感じるかの大切さを実感しました。私たちは、目に見えるモノについて安心感を持ちすぎているように思います。しかし、人間的なゆたかさ、楽しさ、喜びは、そればかりではありません。むしろそこに人だからこそ感じられる幸せがあるのではと思っています。
そこで、私は人事異動で文化関係の仕事を離れたのをきっかけに、「ゆたかな日常とクーナとアートの会」を立ち上げました。
人の生き方、社会のあり方として、「日常をゆたかにさせていくこと」というのはどういうことなのかを考え、実践していく場を創り続けていく会です。
会の名にある「クーナ」はこびとの名前です。目に見える存在ではありません。感じることで認識できる存在です。目に見えることばかりに動かされがちな今の世の中にあって、感じとっていくゆたかさを再認識していければと思っています。
そして、アート。アートの持つ非日常的であったり、不可解であったりする視点は、私たちに新しい気づきを与えてくれます。
この会を通して、明るい未来を実感できるゆたかな日常を実現していく価値観を確かめ合っていきたいと思っています。
今の私は、「人って何だろう?」「生きるって何だろう?」と貪欲に、そして素直に考えていこうとしています。
そのことが、最初の言葉について考えることにもつながっていきます。「ゆたかな日常とクーナとアートの会」でしようとしていることは、言葉の「葉っぱ」を大切にし、感じようとすることでもあります。自分は、コミュニケーションをうまくできる人間でもないですし、他の考えを優しく受け入れる大きな寛容性もありません。しかし、そんな自分でよいのかと問い続けることが、自分を成長させ、人との関係性もゆたかにしていくという気持ちは持ち続けたいと思っています。
言葉の「葉っぱ」をお互いに大切に感じとりあっていける世の中に。
なんかいいと思いません?
今の私の夢ですね。いや、これからもずっと考え続ける夢かな。
■衣笠 収さんって、どんな人?
ゆたかな日常とクーナとアートの会 きっかけ探究家
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きっかけ探求家
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2015年8月号 よこやかずひこさんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさま、はじめまして。
よこやと申します。
実は、生来の悪筆と筆不精が祟り、手紙というものをついぞ書いたことがありません。また、ひとつところに長続きすることがなく常にふらふらしているために、手紙を戴くということも今や皆無になりました。
私...
よこやと申します。
実は、生来の悪筆と筆不精が祟り、手紙というものをついぞ書いたことがありません。また、ひとつところに長続きすることがなく常にふらふらしているために、手紙を戴くということも今や皆無になりました。
私が最後に他人様から手紙を戴いたのは、それこそ前世紀の終わりごろのことになりましょうか。私がある会社を退職するときに部下の一人から戴いたのが、最後の記憶です。
その手紙の主であるHさんは、年若で社歴も浅い私の面倒を嫌な顔一つせず見てくれた、穏やかで忍耐強い方でした。会社の創業メンバーであるにもかかわらず、ワンマン社長の気紛れで貧乏籤を引かされ続けていた彼に一緒に転職しないかと誘ったとき、彼は私に次のような手紙をくれたのです。
「お誘いありがとうございます。ですが、今回はご一緒することはできません。知っての通り、私とM君(社長)とは大学からの付き合いです。なんだかんだ言いながら、M君は私をアテにしているのです。横谷さんのご好意に感謝します。これからは上司部下の関係ではなく、五分と五分でお付き合い出来たらと思います。もっとも横谷さんは私にお金を貸して下さいましたから、私のほうが一分下がりになりますが。これからもよろしくお願いします。」
私は、この手紙に返事を書きませんでした。生来の筆不精に加え、折角誘ったのに!というつまらない腹立ちもあったからです。
それから3年後、偶々出会った元部下にHさんの近況を尋ねたところ、彼は少し黙った後に、私に教えてくれました。Hさんが亡くなったこと。自殺だったこと。遺書はなかったらしいこと。骨は千葉に住む年老いた両親が引き取ったらしいこと。
あれから15年が経ちました。今でも「手紙」というとHさんのことを思い出します。あのとき私が返事を書いていたら、そして彼とのつながりを持ち続けていたら。何も変わらなかったかもしれないし、少しは変わったかもしれない。
もしも次に誰かから手紙を戴いたら、必ず返事を書こう、と決めています。そう決めてはいるのですが、いいことなのか悪いことなのか、手紙を貰わないので私の筆不精は改善されないまま今に至っています。
■よこやかずひこさんって、どんな人?
よこや かずひこ。1971年大阪府生まれ。日雇労働者。飲食店店長、小売店店員、コールセンターオペレーター、不動産仲介業、環境系シンクタンク職員、中間支援団体職員、日雇い土工など、あちこちに不義理を重ねながらの脈絡のない人生。 高校から大学にかけて演劇、とりわけ小劇場第三世代と云われる人々(野田秀樹、如月小春など)の創る芝居に傾倒し、一時は舞台制作を志向するもあっさり挫折、現在は演劇はおろか芸術とは無縁の日々を過ごす。
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日雇い労働者
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2015年7月号 田中保帆(たなかやすほ)さんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさんこんにちは。田中保帆といいます。肩書きは保育士です。
いま、私は大阪の釜ヶ崎という日雇い労働者の街の片隅にある、カフェのふりをしているアートNPOの事務所でこれを書いています。私はここで、お客さんとお話をしたり、コーヒーを淹れたり、チ...
いま、私は大阪の釜ヶ崎という日雇い労働者の街の片隅にある、カフェのふりをしているアートNPOの事務所でこれを書いています。私はここで、お客さんとお話をしたり、コーヒーを淹れたり、チラシのデザインをしたり、ご飯を作ったり、雑用をしたりしています。何を書こうか迷ったのですが、私が出会ったおじさんの話を、ひとつ。
新しい年が明けたころ、1人でこのカフェの片付けをしていたら、知らないおじさんが1人でふらりと入ってきました。「ごめんなさい、今日はもう閉めちゃったんです。」と、帰ってもらおうとしたのですが、「お金はあとで持ってくるから。何でもええから食べさせてくれ。」と頼まれて、とりあえず話をきくことにしました。そのおじさんによると、きのう刑務所を出て手持ちのお金も無く、ご飯も食べていないとのこと。どうすればいいのか分からなくて、とりあえず残り物のご飯を温めながら、先輩スタッフに電話をして対応してくれる機関を教えてもらいました。
ご飯を出したら、おじさんは何度も「おいしい、おいしい」と言いながら食べて、「これで今日の命をつなげた。」と何度も繰り返しお礼を言いました。手にしわしわになった求人情報誌の端切れを持っていて、刑務所で紹介された仕事をしにこれから名古屋へ行くのだそうです。「そこに行くお金もないんやけどな、まぁなんとかするわ。」と言って出て行こうとしたのを慌てて引き止めて、「無事についたら、連絡ください。」と年賀状の余りに私の名前を添えて渡しました。
おじさんがドアのところで立ち止まって振り返って、「この街はオレより変なやついっぱいおんのか?」と聞くので、「変なやつばっかりやわ。全然、おっちゃん大丈夫やで。」と答えると、「そうか、大丈夫か」と笑って店を出て行きました。私は、笑えなかった。
対応としては間違っていなかったとは思うのですが、それから随分経った今も、たまにこのおじさんのことを思い出しては、すこし胸が痛みます。うまく対応ができてしまったことにも、すこし違和感が残っています。おじさんからの連絡はまだありません。名古屋にいけなかったのかもしれないし、どこかで倒れているのかもしれないし、刑務所にもどってしまったのかもしれない。でも、この人の人生に私は何の責任ももてないし、私の善意が正しかったとも言いきれなくて。私が騙されただけならいいのになぁとぼんやり考えています。
私はきっとあしたも、なんの責任ももたずに、カフェのカウンター越しにあした会えるのかも分からない人たちと言葉を交わしています。コーヒーを淹れて、雑談をして、それからパソコンに向かって、「今日はあの人が来る言うてたから、魚焼いとこかなぁ」なんて考えながら、ご飯をつくっていると思います。
いろんなことが毎日起こるけれど、つくったご飯を「おいしい」ってたくさん食べてくれる人がいるのはただ嬉しくて、少なくともそれだけは、忘れないようにしていたいと思っています。
■田中保帆 たなかやすほさんって、どんな人?
1988年大阪生まれ。保育士。京都造形芸術大学こども芸術学科1期生。浜松のNPO法人クリエイティブサポートレッツで障害福祉に3年ほど関わった後、北海道あたりを放浪。フラフラしていたら釜ヶ崎のNPO法人ココルームに拾われて臨時スタッフに。福祉とアートの微妙な界隈をウロウロしています。お酒と料理と旅がすき。
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保育士
2015-07-15T00:00:00+09:00
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2015年6月号 アルミ缶23号さんより、おてがみが届きました
わらしとUFO
缶ビール 天の川へ 乾杯を
あれ?君は誰?
座敷童子だ
男の子だね 可愛いね 僕に用かい?
飲みてえな
えっ 何をだい?
おらも飲みてえ
このビールだね 歳いくつ?
おらは三歳(みっつ)だ
まあいいか ハイ缶ビール
うめえなあ・ウッ...
缶ビール 天の川へ 乾杯を
あれ?君は誰?
座敷童子だ
男の子だね 可愛いね 僕に用かい?
飲みてえな
えっ 何をだい?
おらも飲みてえ
このビールだね 歳いくつ?
おらは三歳(みっつ)だ
まあいいか ハイ缶ビール
うめえなあ・ウップ
そんなに旨い?
ああうめえ
見所あるね
こらおめえ
何か用かい?
このろくでなし
少しは 真面目に 生きてみろ・ウップ
君、大丈夫?
何をっ この野郎・ウップ
酔ってるね
おら おめえの事を心配し
この地球に来たんだべ この馬鹿者め
もう寝たほうがいいよ
うんわかった
二人はテントの中で お休みに
あの子供 座敷童子と言ったけど
UFOに乗り 夜の星空へ帰って行った
サヨウナラ 又来てやあ
■アルミ缶23号さんって、どんな人?
昭和23年、福岡県うまれ
釜ヶ崎29才から もう38年
缶ひろいとトクソウ(特別高齢者清掃事業)のホームレス暮らし
好物はビール
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ホームレス
2015-06-15T00:00:00+09:00
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2015年5月号 細貝玲奈(ほそがいれいな)さんより、おてがみが届きました
1●見出し
性別とわたし
2●本文
こんにちは。
戸籍上、そして染色体検査においては、完全に「女性」なのですが、
じぶんの性別に迷っています。
このように、社会における性別観の問題を、「ジェンダー」といいます。
ジェンダーの話が苦手な方は、ここまで読ま...
性別とわたし
2●本文
こんにちは。
戸籍上、そして染色体検査においては、完全に「女性」なのですが、
じぶんの性別に迷っています。
このように、社会における性別観の問題を、「ジェンダー」といいます。
ジェンダーの話が苦手な方は、ここまで読ませてしまって、すみません。
別に平気さ、という方は、この先もお付き合いくださいね。
ふだんは女性として生活しています。
性転換手術や、男性ホルモン投与には、継続的にお金がかかります。
大学生であり、経済力はありませんし、
通学が忙しく通院をやめてしまい、
戸籍を変えたり体を変えたりは、していません。
性別違和の証明書も、取得していません。
ちょっと話が変わりますが現在、ベリーショートです。
髪の長さは、5センチくらいかな?
髪の毛を伸ばして、ショートヘアになったとき、家族からは、
「性別のことは、妄想だったのね。それが、終わったのね」
と思われてしまったから、うんと短くしています。
ボーイッシュな服装をすると、
「こちら女子トイレですから、男性の方は・・・」と声がかかるから、
服装やアクセサリーで「女性ですよ」と示すようにしています。
はっきり「男か、女か!」白黒つけられない。
この立場を「Xジェンダー」と呼んだりもしますが、
「人は誰しも、いろんな面があるのに、わざわざ、
『男と言うより女と言うよりXジェンダー』なんて、言う必要ある?」と、
聞かれることもあります。これについては、明確な答えを持っていません。
この質問の引力は強い。
「ジェンダーの問題なんて、わたしの妄想なのかな?」
と、思いながら生活していますが、年に何度か、
セクシュアルマイノリティ(ゲイ、レズビアン、性別違和の方など・・・)
と会って話したとき、体がほどけて、「あ、妄想じゃなかった。」と、なります。
そこで充電されて、また、まちへ戻っていく。
最後に。
詩のウェブサイトである、ということで、
ひとつ、言葉遊びをさせていただきます。
これは以前、某ウェブサイトに投稿して、
掲載してもらったこともあるのですが・・・。
「私の本名である、細貝 玲奈(ほそがい れいな)を並べ替えると、
ほな、それがいい
ほれ、いそがない
ほ、それがいいな
と、なります。」
これがあるから、男名へ、戸籍変更をする気には、なれないのです。
3●名前 肩書き
細貝 玲奈(ほそがい れいな)
大学生アーティスト
4●プロフィール
1992年茨城県生まれ。2012年女子美術大学入学、
セクシュアルマイノリティの学生アーティストとして活動を始めるが、
説明がややこしいので、ふだんは、セクシュアリティを言わないようにしている。
相模原市にある、市議会議員事務所でボランティアをしている。
現在、大学4年次。
HPアドレス hosogaireina.jimdo.com
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大学生アーチスト
2015-05-14T23:55:00+09:00
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2015年4月号 福 おかんさんより、おてがみが届きました
『お母さんのちから』
蘭の会の皆さま、はじめまして
ご縁があって、福島の地から、おてがみを書かせていただけること、感謝しております
皆さまの紡ぐ『ことば』が、私の想像力のスイッチをONにして、さまざまな感情、想いを湧き上がらせてくれました
同じ...
蘭の会の皆さま、はじめまして
ご縁があって、福島の地から、おてがみを書かせていただけること、感謝しております
皆さまの紡ぐ『ことば』が、私の想像力のスイッチをONにして、さまざまな感情、想いを湧き上がらせてくれました
同じようにはいきませんが、私の拙い文章から、福島の今を僅かでも想像していただけることを祈りつつ…しばしお付き合いくださいませ
わが家では、母子3人が川の字になって寝る
今夜も、子どもたちの寝相の悪さに苦笑しながら、2人の隙間に滑りこむ
子どもたちの息づかいを感じながら、手を伸ばせば温もりに触れることができる幸せを、噛みしめる
今こうして 生きていること
今こうして 福島で生きていること
私も、子どもたちも 願ってここに居る
私も、子どもたちも 選んでここに居る
私たちのふるさと福島は、美しい山々と清らかな川、緑豊かな自然に囲まれた素晴らしい天地だった
福島出身の洋画家、高村智恵子は『福島には本当の空がある』ということばを 残した
その碧く澄んだ空が、あの日 放射性プルームに広く覆われてしまった
そして、美しい自然とともに 子どもたちの体は汚染されたのだ
目には見えないが、それは確実に この地に降り注いだ
ベクレル グレイ シーベルト 耳慣れないコトバ
ただちに影響はない 繰り返されるコトバ
隠された情報 遅れた避難 初期被ばく 偽りのコトバ
国も、県も、行政も、病院も
現状は危険ではない、安全だと言い切った
子どもたちは4月からマスク姿で通学
屋外活動は制限され、春の運動会や夏のプール授業は中止された
どう考えても安全とは思えなかった
母として本能的にそう感じていた
子どもたちの鼻血 口内炎 目の下のクマ
腹痛 下痢 免疫力低下 何かがオカシイ
私はずっとモヤモヤしていた
御用学者たちの説明会
腕組みし壁に寄りかかり話すコトバに 誠実さは感じられなかった
会場からマスクの有効性を質問されると、花粉症には有効だが、放射性物質には意味がない 現状は危険ではないからマスクも必要ないと笑った
日本人は2人に1人がガンになり、3人に1人がガンで死ぬ、放射能でガンになる確率より喫煙でガンになる確率の方が高い 冒頭から話し始めた学者もいた
原発技術者から聞いたという、炉心溶融しているのでは?との質問には、会場からヤジが飛び、質問は中断させられた
異様な雰囲気が漂った
みんな本当のことを知りたくて集まって来たはずなのに、本当のことを聞くのが怖いのだ
偉い学者に安全だと言ってほしいのだ
安全だと思い込みたいのだ
県立医大から職場に届いたFAX 福島は安全なのだから、避難するなど狂気の沙汰と書かれていた
職場では、避難した者は懲戒免職にするという命令がでた
何かがオカシイ
私のモヤモヤは治まるどころか、怒りと不信感が拍車をかけて、大きく膨れあがっていった
いくら安全だと言われても安心できない
そもそも安心の基準というのは、人それぞれではないのか?
誰かに押し付けられる安心はオカシイ
日が経つにつれ明るみにでる真実
無用な被ばくをさせられたという事実
人災というに相応しい過失
問われることのない責任
3年半が過ぎた今も、このモヤモヤは消えることはない
今、福島は あの日を忘れ去ろうとしている
真実を 事実を 過失を 責任を
大人たちが侵した罪を償うことをせず、子どもたちに、未来に、その代償を負わせようとしている
足尾 沖縄 広島 長崎 水俣 福島
共通点はナニ?
同じコトを繰り返す愚かさ
次々でき上がるハコモノ 造られるニセモノ 子どもたちはミセモノ ?
本当の復興ってナニ?
モヤモヤ モヤモヤ
モヤモヤしながらも、今を生きている
モヤモヤしながらも、福島で生きていきたい
福島に生まれた意味があるから
福島を選んで生まれてきたから
そして子どもたちも、こんな私を選んで生まれてきてくれたから
仏典に『願兼於業』という文がある
あえて願って、宿業深い地に生まれ、その地で世を変えていくという意味だ
福島で生まれ育ち、結婚し、母になり
あの日を福島で迎えたゆえに、気づけたこと、行けた場所、忘れ得ぬ出逢いがあった
福島に心を寄せ、手を差しのべてくれる方たちが、日本中、世界中にいることを知った
そして、同じようにモヤモヤを感じながらも、福島で子どもを育てる決意をした母たちがいる
その母たちと手を携え、さまざまな想いを分かち合いながら、できることを模索しつつ、行動していく会をつくった
より良くハッピーに福島で生きていくために
『みな出発点は若き母たちの正義の声であった、怒りの行動であった、次の世代の安穏と幸福を願う母と母の連帯であった』
アメリカ公民権運動バスボイコット運動の始まりは ローザ・パークス女史
ケニア、グリーンベルト運動の始まりは ワンガリ・マータイ女史
いずれも一人の女性から始まった
私は信じたい 一人の力を 女性の力を
すべてを包み込む 慈悲深いお母さんの力を
無限の可能性を秘めた 子どもたちの力を
そして、すべての人がもつ 内なる光を
まずは福島に暮らす私自身が『自分のちから』を信じて行動することから始めよう
『見たいと思う世界の変化に あなた自身がなりなさい』 マハトマ・ガンジー
『ほとんどいつも、創造的でひたむきな 少数派が世界をより良いものにしてきた』 マーティン・ルーサー・キング
差出人 福 おかん
■福 おかんさんって、どんな人?
福島市在住 子どもは小学生2人 夫は1人
単身赴任中 看護師として総合病院勤務
福島で暮らすお母さんたちに情報交換、交流の場を提供するため、9月に任意団体を立ち上げたばかり
自宅除染の順番は、まだまわってこない
夏休みなど長期の休みを利用して、西日本へ子どもたちを保養に行かせている
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お母さん
2015-04-15T00:00:00+09:00
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2015年3月号 柿塚拓真さんより、おてがみが届きました
「僕がオーケストラのマネージメントをしている理由」
こんにちは。はじめまして。柿塚拓真と申します。大阪は豊中市にある日本センチュリー交響楽団というプロフェッショナルなオーケストラでマネージャーをしています。オーケストラのマネージャーといっても大きなス...
こんにちは。はじめまして。柿塚拓真と申します。大阪は豊中市にある日本センチュリー交響楽団というプロフェッショナルなオーケストラでマネージャーをしています。オーケストラのマネージャーといっても大きなステージでのコンサートの企画をしたり、著名なアーティストと仕事することは僕はあまりありません。むしろ、コミュニティとのプロジェクトや教育に入り込んだ企画を通して、クラシック音楽に馴染みのない一般の人やプロの音楽家を見るのも初めてという様な子供たちと向き合っている時間の方が多かったりします。
このお手紙を読んでいる方に関係者がいないことを祈りながら告白しますが、僕はオーケストラという団体がそんなに好きではありません。なんか偉そうだし、金食い虫だし、60人ぐらいの音楽家がいるので小回りが利かないし、楽器はおろか楽譜がないと演奏もできないし、アーティストの集まりのはずなのに新しいこと生み出しているようには見えず、200年、300年も昔の音楽をひたすら演奏している。理由を挙げるときりがない。
そんな僕が、それでもオーケストラマネージャーをしているのには大きな理由があります。それは祖母との何気ない会話がきっかけでした。僕の母方の祖母は大正11年生まれの92歳。まだまだ元気で、僕が帰省した時には一杯飲みながらいろんな話をするのが恒例になっています。祖母の実家は宮崎市の旭通りという街で「赤井」という印鑑屋を営んでいました。当時の旭通りは宮崎の中心。宮崎では初めて街灯が付いた都会でありました。そんな都会での祖母が若いころの話を毎回聞くのです。
街には劇場があり旅回りの一座が月替わりでやってきます。「赤井さん、来月はこんな芝居が来るけど、どう?」「なら1マス買っといて。」月に一度は家族みんなでお芝居を見るのです。初めはマス席で食べるお弁当やミカンにつられて来ていた子供たちも直ぐに芝居に詳しい目の肥えた客に。
また印鑑屋の2階の座敷では毎週、狂句の会が開かれます。街の旦那衆から奥さん、印鑑屋の若い職人さんから時にはまだ幼かった祖母も。みんな一緒に机を囲み狂句づくりに勤しみます。日向狂句と言って普段話している宮崎の方言を使った狂句。詩をつくるときは地位や肩書もありません。みんな平等で同じ舞台で、同じように「うーん」と唸りながら、頭を捻ります。普段は何をしているか分からないおじさんが、妙に詩が上手く、この時ばかりは尊敬されたりして。そして、その後は世話好きだった曾祖母が漬けたバラ寿司を食べながら反省会。まさに社交場です。ちなみに実家にはこの時の墨で手書きした作品集があり、僕は顔も知らない曽祖父や近所のおじさんの作品を知っています。他にも三味線、長唄、町内会の余興、エトセトラ、エトセトラ。
「なんて豊かで文化的な日常なんだ」とこの話を聞いて思いました。普段、我々オーケストラマネージャーは声高に主張しているのです。「欧米ではコンサートやオペラは生活に密着した日常の楽しみ。音を聞くだけではない社交場。日も本早くそうならなければ。」と。でもそんなことをしなくても、少なくとも戦前の日本の地方都市にはこんなに豊かな文化が日常にあったのです。戦後の偏った(ここはいろいろな意見があると思いますが、僕はそう思います。)歴史教育しか受けたことがなく、戦前の日本は常に軍靴の音が響き、灰色の時代だったと思っていた僕には青天の霹靂でした。そして、いかに今の日本の日常が文化的に貧しいかとも思いました。
決して、我々は過去に戻ることはできませんし、大正の宮崎の街に憧れても、それはただのノスタルジーです。ただ僕は少しでも自分が生きている日常を文化的に豊かにしたい。僕は西洋音楽の勉強しかしたことがないので、その手段としてはオーケストラしかない。だったら、今たまたま働いているオーケストラを使ってみよう。これが僕がオーケストラを嫌いなのにも関わらずオーケストラマネージメントを続けている理由です。そして、日々の暮らしを文化的にするオーケストラになれた時に、少しだけオーケストラを好きになってもいいかなと思っています。
皆さんは詩を創っていると聞いています。日常で多くの人が無意識に使っている言葉で何かを表現しようとする詩は、日常と非日常を結ぶ最高の芸術だと思います。僕がそうであったように皆さんの作品を見て、創作活動を知った未来の人々が「平成の日本はなんて豊かな時代だったんだ」と思う時代がいつかやってきます。僕はその時にオーケストラが、詩のように身近で、でも少し特別な存在になれるように頑張ってみます。
■ 柿塚拓真さんって、どんな人?
1983年宮崎県宮崎市生まれ。福岡第一高校音楽科、相愛大学音楽学部卒業。専攻はテューバ(ラッパのおおきなやつ)。
楽器が下手で音楽では飯が食えないので、大好きなワインも飲めないし、旅行にも行けないのは嫌だと思い、試験を受け、社会保険庁に就職。
福岡県内の社会保険事務所に配属されるが、いろいろと思うことがあり1年9か月で退職。
現在、公益財団法人日本センチュリー交響楽団 コミュニテ/教育プログラム 担当マネージャー
趣味は飛行機に乗ること、ワイン、日本酒を飲むこと。
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楽団マネージャー
2015-03-15T00:00:00+09:00
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2015年2月号 江頭一晃さんより、おてがみが届きました
近頃妙にそのバートン通りの匂いや空気がなつかしくなって、
お手紙をしたためるにあたって、このころの思い出話を書いてみようかと思います。
もういまはあまり書かなくなってしまったのですが、当時つけていた日記帳を見つつ。
まぁしばし、おつきあいください。
...
お手紙をしたためるにあたって、このころの思い出話を書いてみようかと思います。
もういまはあまり書かなくなってしまったのですが、当時つけていた日記帳を見つつ。
まぁしばし、おつきあいください。
・・・・・・・・・・
カナダ、と聞いて一般的にはどんなイメージが日本人の脳裏に浮かぶのでしょう。
メイプルシロップ、アイスホッケー、果てしなく広がる樹林、積雪、そんなところでしょうか。ワーキングホリデーの手段を活かしてバンクーバーやトロントなどへ「海外」を経験しにやって来る日本出身の若者も近年はゆるやかにも増える一方と聞きます。
大都会トロントからフリーウェイに乗って南に一時間ほど車を走らせると、ハミルトンという地名を綴った青の標識が目に入る。
都会トロントの真新しいなめらかなアスファルトに慣れている人間なら、もしかしたら気が付くかもしれません。観光地ナイアガラへと続くフリーウェイのランプを降りた辺りから、表面に亀裂が入っていたり、でこぼこも増えたりして路面が少し荒くなったことに。
ここハミルトンにも栄光の時代はあったらしい。五大湖のひとつ、オンタリオ湖に面したこの港街は鉄鋼業の街としてたいした栄え様だったといいます。しかし1990年代、鉄鋼自体が下火になり工場がひとつまたひとつと閉鎖を続け、それに伴って街の明かりも徐々に消えていったそうです。今なお街の一方ではお城のような豪邸宅がきれいに整えられた庭を前にして立ち並んでいるけれどもそんな光景はもちろん限られていて、鉄工所に近い側の街のもう片方に行くと別の風景が広がっています。
また、市街の中心部を通り抜ければ、たとえば10数階建てくらいのがっしりした造りのビルの古式な建築様式に感心しつつも、建物全体が封鎖されて立っていることに驚かれるかもしれない。人通りだってときたま心細くなるほどに少なくなる。
街の中心部から湖に面した港の方角(北)へしばらく進むとバートン通りが東西に平たくのびている。この通りの廃れ様は、ここが北アメリカであることを一瞬疑わせるほどだったりします。
土曜の夕暮れ時になると、バートン通りの角に建つ店の駐車場では、どこからともなく近所の少年少女からおっちゃんたちまでが橙色に染まり始めた空を漂う音楽を耳にして集まってくる。寄せ集めの機材、そして様々な形や色をした打楽器。散歩途中の人がしばらくボンゴを叩いていったり、自転車を停めて一曲唄っていったり。
そしてこの街角でのお決まりのお祭り囃子はトリニダードを発祥の地とし、カリブ海を中心に広く聴かれるポピュラーな民謡、SOCAというスタイル。その他にもダンスホールレゲエのジャムが続いたり、静かなナイヤビンギでちょっと場が落ち着いたり。かと思えばスワヒリ語のライムが飛び交う、そんななかなか味のある場所だったんです。
仲間と手打ちの太鼓を叩いていて、しかしふと通りの向かいに目をやれば、頭のてっぺんから上半身血みどろのアニキがなぜか笑みまで浮かべて玄関先にぬっと立ちつくしている。隣に建つ古い煉瓦造りの教会のおばさんが救急ダイヤルを廻して警察が瞬く間に通りの半分を封鎖します。どうしたのかと訊けば、たかが兄弟喧嘩が流血沙汰に発展したらしい。
それでも救急車やパトカーが慌ただしく動き回る、およそ10メートルほどの通りを隔てたこちら側ではあらゆる太鼓の途切れることないリズムが模様を織りなすように奏でられ、ジャマイカ出身の「長老」みたいな風貌のラスがベースアンプ(それしかなかった)につないだマイクに「おまわりさん、こっち側は平和に楽しくやってるから気にしないように」と唄い、音頭をとります。
この一角のコミュニティーのかなめにはコンゴ出身のSix Pacと名乗る人間がいる。
画家でもミュージシャンでもDJでもある彼は土曜日になると家の隣の店に許可を貰って駐車場の隅の方を画廊・兼、祭りに模様替えしたものでした。コンゴ紛争の際に地雷を踏んで片脚を失くしてしまったにもかかわらず、アフリカ中を難民として転々とし、各地のクラブなどでDJやパーカッショニストとして活動したという経歴をもつ彼は、いまから二年ほど前に家族の将来を考えてカナダに移民としてやってきたといいます。
5月のある日。笑えるぐらいにぼろぼろの風貌をしたバートン通りにも春が来て、ずっと北風に揺られていた楓の裸の幹が、電柱と電線に邪魔されながらも青い葉を陽に翻しました。住んでいた録音スタジオの建つ176番地のバルコニーの下からはヨモギのような草が生え、あたたかいそよ風がおだやかに流れました。
この辺りの家はみな20世紀初頭に建てられた煤けた煉瓦造りで、絶妙に歪んで並んでいます。アスファルトに亀裂の入ったこの通りは、見栄えのしない、疲れ果てた車両しか走りません。
バートン通りと聞くと、人によっては映画監督のティム・バートンを連想して、おとぎ話のような情景を思い描きがちかもしれないですが、このバートン通りはひと味違った意味合いで夢のようでした。
生まれつきなのか、シャブのやりすぎで気が違ったのか、いつも同じ灰色のジャンパーを着込んで背の高い缶ビールを必ず手にしたまだ若い30代半ばくらいの男が、スタジオ向かいの家のバルコニーに通りに面して、いつもひとりでよくわからない笑い声をあげて腰掛けています。
一本足の、精霊か妖精のような存在感を持つSix Packが住む角の酒屋の隣の家屋はこの近辺の元クラックハウス兼売春斡旋屋で、一階の窓が木板で塞がった家の玄関からはやたらと色々な人間が出入りしていました。その中にはどういうわけか小さな子供たちも。
こんなのんびりした風の吹く午後にバートン通りを散歩してみたならば、赤ん坊を抱えた疲れきった夫婦が小銭に変換出来そうなゴミを拾っては歩いて行きます。店の外の駐車場では乳母車をゆする母親がスワヒリ語で子守唄を口ずさむ。イタリア系の家族が経営するストリップ小屋の前ではヒールを穿いた半裸のダンサーが男に中指を立てて口論する。ハングル文字が並ぶ教会の掲示板には太字の油性マーカーが描くグラフィティのブロック文字で落書きがされ、通りの向かいの寂びれたバーでは昼から酒にあぶれるうつろな目が、スピーカーから流れる陽気なクンビアのラテンビートと対照をなす。 角の酒屋の前では太陽が出てきたのをいいことにフィリピン人のマフィアみたいな形相の輩が脱いだシャツを肩にかけて乱雑な入れ墨を陽にさらす。並んだ家の裏側に抜ける草の生えた砂利道では声を上げながら鬼ごっこをする子供たちが靴が脱げても走り続けます。
「父さんが昔言ってたんだ。誰も近寄ろうとしない、街の最も危ない場所をみつけて、そこに住むがいい。実はそこが一番安全だから、って」
Six Packがそんなふうに言ったことがありました。
バートン通りを脚で行き来する人間ならば、誰もがこの男の表情と声と手の温もりを知っている。
バートン通りを車両に乗って通り過ぎる人間は、知らない。
彼が音楽の精霊と深い交流のある人間だということを知ったのも、そんなのんびりとした空の下でした。
スタジオで録音した音楽の編集作業をしていた自分はふと手を停めました。まだ午後もはじまったばかりだというのに、目が少し疲れていました。21.5インチのディスプレイに表示される音の波形を一日中眺めていると、ロールシャッハ試験のインクのにじみのような、さまざまに意味をもった形状に思えてきます。日記によるとこの日はどうやらペリカンが多かったようです。
玄関を開けてスリッパを履いたまま小さな前庭に降りると、決して大きくない前庭の向こう側ではジンベを打つ者がふたり。ひとりは同じスタジオに住む詩人のマイカル、しかしもう一人は誰なんだろう。
太鼓を打ってリズムを刻む二人に近づいた。
ベンチになった花壇の端に腰掛けて、にこやかに演奏する二人の傍には中ぐらいの背丈のジンベが置いてあります。玄関のドアに内側から鍵をかけておいたことを頭の中で確認してから、空いていたジンベを拾い上げてマイカルの隣に座りました。
場を満たしていたのは、なかなか聴かないような、とても愉快な独特の弾け方をするビート。
アフリカ、だろうか。
アフリカ、だろうな。
複雑なビートの組み合わせであるにもかかわらず、フックは常にビートのない所に落ちる。音と音の間の静寂を楽しんでいるのです。芭蕉をアフリカの細道へ迷い込ませたならば、どんな俳句が出来ていただろう。字余りのリズムの美学、そんな文句が頭に浮かびます。
マイカルが大きめのジンベでベースとリズムを打ち出していて、隣の一本足の男がリズムにくねるような踊りを与えています。
膝に据えたジンベの皮をさすった。太陽が照っていた。わくわくした。
ゆっくりとやさしくなにかを思い出すようにリズムを揺り起こしました。
太鼓の音。
それは人間同士を結ぶもの。
ことばにならない大切なものを思い出させてくれるもの。
世界中どこを探しても太鼓を打ち鳴らさなかった文化は存在しない。
人間がひとつの大きな家族である証でもある。
そんなこともうっすらと考えながら、和太鼓っぽいリズムを乗せてみました。
あうことは体が知っていたけれど、一応耳でも確認してから徐々に音量を上げて、徐々に調和。
かちっ。
複雑かつ爽快。
一体感がしばらく続きました。
男は不意に顔を上に持ち上げたかと思うと、既にフルスピードで走るリズムに合わせて空に向かって唄いました。
「ヒーローになりたいからって、死にたいってワケじゃないんだよ
でも近頃は、死ななきゃヒーローにはなれないんだってさ」
彼の風貌が、歌が、声が、精霊が、音楽であり、歴史であり、映画だった。
アスファルトの地面にまとめて置かれた二本のアルミの松葉杖の傍で、彼の一本脚がリズムと一緒に跳ねました。
Six Pacという名前は、96年に銃弾に倒れたカリフォルニアの伝説のヒップホップMC、Tupacをもちろん意識していて、これが彼の通称でした。きれいに剃った頭に色鮮やかな衣服。彼の握手はぎゅっと温かい。
走れば景色がランナーの体を通り抜けるように、リズムさえあれば音楽が彼の体を通ってこの世界にたどり着く。そういった技能というか性質というか、そんな「才能」をもつ人間にはそれまでにも出会ってきましたが、彼はその中でも別格でした。次から次へと音楽が彼のもとへとやってきては歌やメロディーとなって彼の体から溢れて流れました。
マイカルと僕のリズムにあわせて自然発生するそれらにはしかし、しっかりと2・3ヴァースとサビがあって、しかも歌詞は対話形式だったりソロを挟んだりした。
目を閉じればそのインスピレーションがやってきている方角が判るかと思って、じっと音楽に耳を傾けたけれど、方角はやはり曖昧にアフリカでした。
唄い終えた彼はほとばしる太鼓の熱をゆっくりと冷ましていく。
目の前の道路を窓を下ろしてゆっくりと走っていたタクシーの運転手が
「おい、なぁモントリオールに行きなよ。その演奏の腕前、あっちじゃしっかりカネになるぜ」
と、感想と意見を投げてよこしました。
楓に留まった鳥のさえずりが聞こえるほどに音量が下がった頃、いい走りを見せたリズムが笑い声と共に終焉を迎えました。
再びSix Pacの声を聞いたのは、その次の日のこと。
煙草の巻き紙を切らしてしまったようで、角の店まで買いに行くと、バルコニーの階段に腰掛けたSix Pack。
「おいでよ。散歩?」
彼は僕が座れるように松葉杖をよけながら言います。
「いや、ちょうど巻き紙をきらしちゃってさ」
夕暮れ前のまだ明るい中、笑顔で握手を交わしました。
「そうだ、友達が置いていったギターがあるよ、ちょっと寄っていかないか?」
僕の答えを待つ間もなく、Mr. Six Pacは立ち上がります。こっちだってもちろん断る理由などありません。
「どうぞどうぞ、いらっしゃい」
彼は松葉杖に腕を通したまま器用にドアを開けました。
彼の10畳ほどの広さの部屋には片方の壁にベッドが横たわり、分厚いカーテンと板と釘で封がされた窓のあたりにはカンヴァスや絵筆、描きかけの作品などがあらゆる家具に立てかけられて林立していました。アクリル塗料を使ってはいるものの、一見油絵の具のような濃さがある。
「絵も描くんですか」
正直少し驚いて訪ねた。まだ彼のことはほとんど何も知りませんでした。
「そうそう、つくることは生きることだからさ、いろんなものをつくるよ」
林立する絵の中央で際立った存在感を持つ一枚の絵がありました。
抽象的な寸法の体を持った者が、琴のような弦楽器を片手に持ち、絵の左半分でこちらに背を向けて立つ人間に半ばのめり込んでいます。
「それがさ、音楽の精霊なんだ」
彼が注釈を加えました。
存在感という目には見えない額縁に身をまとった絵の中の音楽の精霊は、あらゆる感情を混ぜ合わせたおおきな目を持っていました。
なんだかふつふつとわきあがってきた愉しさと、なぜだかうっすらとさみしさにも似た刹那といったような感情とが胸のなかで交差して、ことばにできないなにかが自分のなかでうごきだしました。
精霊としばし目を合わせたあとに、他の絵も一通り目にしながら部屋を見渡すと、おもちゃのようなアコースティックギターが、箪笥のような引き出しの上に裸で横たわっています。
「そのギター。こないだ友達が置いていってさ、いい重さだろう?」
両手を差し伸ばしてギターを手に取った僕に、彼は言いました。
見た目は安物のほぼおもちゃ感覚で造られた紺色のギター。MサイズとLサイズの中間ぐらいの大きさで、たしかに、なにか気になる重さをしています。13歳ぐらいの頃からギターを弾いているけれど、楽器の重さと音の関係性を考えたことなんてあっただろうか。
そこにあった椅子に腰をかけて楽器を膝にのせ、チューニングがあっているかどうか確かめました。
もの凄く狂っている。
正確に表現するならば、もの凄く狂っている、と思った。
しかしなにかが耳に残る。
何だろう。もう一度右の親指で6つの弦を撫で下ろす。
もちろん6弦ギター通常のチューニングを物差しにして言うならば、確実に狂っている。三角定規で空気の湿度を測ろうとしているようなぐらいにズレている。
でも、ふとその中に音楽が聴こえたような気がした。
気になったので五本目のフレットに左手の人差し指を平たく置いて、右手で弦を撫で下ろしました。不思議なことに乱れて並んでいた音程が、5フレット分高いところに整列しています。3フレット目を押さえて爪で弾くと、予期しなかった色の音が現れて今度はリズムが動き出した。脊髄をなにかの電気が通り抜けていった。突然現れたリズムに僕は逆らわおうとせずに、ただ右手を動かし続けた。反復が心地よい快感を産み出します。
Six Pacは唄い出しました。
今度はディージェイのフリースタイルでした。煙草を巻いていた手を止めて、ベッドに腰掛けたままの彼のリリック制裁が始まりました。
あるときは
「生きるのは呼吸するぐらい簡単なこと。でも生き延びるのはまた別のしんどい話」
といった内容で、そのあとは
「俺のこの唇は真実しか外に逃がさない。だからウソの言葉を俺の所に持ってきて、俺が放ったなんて言うのはよせ」
というのが続き、またあるときはブラグラップ調のバッドなトースティング。
「雨が降れば畑の種は芽を伸ばす。Six Pacの詩が降れば踊りが目を覚ます」
自分が何色で、どんな形をしていたか忘れるまで、僕は虚無僧のようにしてギターを奏でました。音楽の精霊は自由自在に僕たちを操って、次から次へと音楽が産まれていきました。
「いただきます」
「藹藹」
二日後の夜、晩ご飯の始まりの合図。
録音スタジオ二階のリビングの大部屋には暖かい色の照明。
壁につけられた正方形の食卓を三方から囲むような形でマイカルとSix Pacと僕とが塩魚と煮芋の料理をつついている。壁には虎の目の絵が黒い額縁に収まっている。
このとき、僕は音楽の妖精に触れた衝撃といつもの書き癖に駆られて、もともと英語で書いていた長めの物語のアイデアの一部にSix Pacをすでに書き込んで登場させていました。日本との縁をすべて断ち切ってアフリカへ渡った東京の青年が、電気技師として援助の仕事をする傍ら、音楽を奏でて、家族を育む、少し長めのおはなし。
しばらくして自分が日本のことを話すと、
「あぁ、もともとカナダ出身じゃないことはもちろん解ってたけど、どこだろう、わからないけどフィリピンあたりかな、ってなんとなく思ってたよ」
とSix Pacは笑顔で言った。
「日本の人たち大好きだよ。あと日本の電気製品は本当にすごいよな。なんでも他の国より上手につくる。たぶん日本の言語が脳に特殊な機能をもたらせているんじゃないかな」
喜ばれることはもちろんよろこばしい。
そのあとでした。
「コンゴにも親しい日本人が一人いたな。すごいヤツだったよ。彼は電気の専門家で援助の仕事をしにきてた。でも仕事の傍ら音楽をずっとやっててさ、サウンドシステムもやってたのさ。彼が東京かどこかへちょこっと電話を入れたら、次の次の週ぐらいにはでっかいスピーカーが何箱も届くんだ。それをまた色んな自作のアンプにつないで、そこらじゅうの観客を狂ったように踊らせてた」
物語の中に書き表した観客が、太陽の下で汗を流し、目を光らせて踊っていた。
僕は、唖然となりました。
僕が書いた物語の中身が現実世界へと流出している。
架空のはずの物語が、現実世界へと流れ込んでいる。
あれ、どういうことだろう。夢を見ているのだろうか。
物語と、現実とが、僕の知らないところで勝手に結びついている。
動揺を隠そうともせずにいると、どうやらSix Pacは、僕が「コンゴの奥地に日本人がいるなんて信じられない」という反応を示していると勘違いをして話を続けました。
「ほんとうさ。美しい歌声のアフリカ人の女と結婚して、子供もいたさ。本当にかわいらしい赤ん坊だった。彼のサウンドシステムのステージで太鼓を叩いたことがあって、彼のスピーカーボックスを通るとどんなリズムも色を帯びるんだ。鋭くトレブルの効いたジンベは本気で人を狂わせる。音楽の精霊がくっついて離れなくなるのさ」
僕が前の晩に夜更かしをしてSix Pacを物語に書き込んだまさしくそのシーン。
まさにそのまんま。
「あぁ、いい物語だ。」
先に食べ終わり、煙草を巻いて火を付けたマイカルがそう言ってゆっくりと鼻から煙を吹く。 煙草の先から伸びる煙が天へ昇ります。
僕はことばを失って水を飲みました。
カタチを超えたどこかで、音楽の精霊がそのおおきな目で、うなずきました。
その音楽の精霊には名前があったのだろうか、と近頃おもいます。
Six Packにそういえば一度も訊ねたことがなかったな、と。
大阪へやってきて半年ほどが経ったいま、
勤めていた神戸の会社を辞めて世界各地を渡り歩いていた二年あまりの間にした、数々の不思議な体験をやっともう一度じっくりと反芻するようになり、Six Packの笑顔やぎゅっとあたたかい手、僕をスワヒリ語名で呼ぶ「カズ、カザディ!」という彼の声などが、ありありとよみがえってきました。
人生とは本当にどれほど摩訶不思議で神秘性にみちあふれていることでしょうか。
できることならこの事実をあらゆる瞬間にだって、思い出し続けながら生きてゆきたいものです。
音楽の精霊はこの先、はたしてどんな冒険を僕に届けてくれるのでしょう。
たのしみで、しかたがありません。
詩人でいらっしゃるみなさんの、ことばの精霊には名前がありますか?
またどこかで、みなさんのおはなしを聴かせてください。
たのしみにしております。
■江頭一晃さんって、どんな人?
こんにちは、
大阪の新世界という場所に住む、翻訳や音楽をしている26歳です。
いくつか名前をもっていますが、日本語の名は江頭一晃といいます。
人生、いろいろあるもので、昨年はバートン通りと呼ばれるカナダはハミルトンという街のびっくりするぐらい荒れ果てた「ゲットー」といったような街の一角に、なんの所以かしばらく住みついていました。
ジャマイカ出身の詩人が建てた音楽や朗読詩の録音スタジオに住み込みで働いていたのですが、そうなった経緯などはまた別のおはなし。
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翻訳家・音楽家
2015-02-15T00:00:00+09:00
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2015年1月号 今滝憲雄さんより、おてがみが届きました
はじめまして。大阪の堺に住む、今滝憲雄と申します。
兵庫県のある女子大学の図書館で今、この手紙を書きはじめています。
両隣には自習中の学生さんが、静かにペンを走らせて勉強しています。
僕は今、大学の非常勤講師をしています。担当するのは、教員養成の授...
兵庫県のある女子大学の図書館で今、この手紙を書きはじめています。
両隣には自習中の学生さんが、静かにペンを走らせて勉強しています。
僕は今、大学の非常勤講師をしています。担当するのは、教員養成の授業です.一回生を対象とした教育総論や、人権教育関連の講義を受け持っています。といっても、週に三日のみの出講で、その他、週末には研究会や読書会も入りますが、とにかく自由な身分で日々、過ごしています。
僕がこのような手紙を記すきっかけについて、少し触れさせてもらいます.昨年六月、受講生対象の街歩きを企画するため、大阪西成の釜ヶ崎をたずねました.そこで偶然、上田假奈代さんたち、アートNPOココルームのスタッフさんたちと出会った事がきっかけです。その後、ココルーム主催の釜ヶ崎芸術大学に出席させてもらいながら、上田さんが毎月自主運営で開いている「詩の学校」にも顔出しするようになりました。そんな中、お声掛けいただいた事で、この手紙を書かせてもらう事になりました。
ちなみに上田さんと出会うまで、詩とは無縁の世界に生きてきました(そうは見えませんが、いわゆる体育会系出身で中高大と野球部に所属し、十年前まで地域の草野球も続けました)。ですから、「詩の学校」で共同作業により形づくられる詩に、毎回大きな喜びと充実感を覚えています.そしてその事が調子乗りの自身の変な自信にもなり、この間、個人的にいくつか詩を作る機会がありました。
例えば、昨年十一月、淀の京都競馬場で開催されたマイルチャンピオンシップ。お気に入りの競走馬を見に行った際につくった長編詩(ちなみにその馬は十八頭の出走馬中、十八着でその悲哀を綴りました)。また昨年十二月、母の一周忌に書き記した詩(今も自宅の冷蔵庫にその詩をはりつけています)。またある女性アクセサリー作家の創作活動を見せてもらった後、その様子を綴った詩(彼女には思いも寄らぬプレゼントだったようで、超びっくりされてしまいました)。
これまで想像も出来なかった自分の生活世界、ライフステージに詩という素敵な芸術が、ある位置を占めるようになりました。そんな僕にとって、忘れられない出来事が、この前の「詩の授業」でありました。
それは上田假奈代さんとペアになって、ある思い出の地名について聴き取り合い、それを形にした詩の創作においてです。もう十五年程前の事なのですが、ハンセン病療養所がある屋我地島を訪れるに際して、沖縄出身で僕の授業を受けていた、ある女子学生さん(僕を励ましてくれていた)に会いに行った話を、上田さんに聴いてもらった時の事です。実はその行為に対して僕は、ずっとある種のよこしま感、大げさですが、罪の意識のようなものを抱いてきました。が、出来上がった上田さんによる「聴き取り」詩の朗読を側で聞かせてもらい、とても心が晴れました。つまり、自分の罪意識を無化してもらえたように思えたのです(また静かな島の月夜の情景も、心に想起されました)。詳細は論じられませんが、とにかく詩には、その人が抱えて来た負の人生体験を浄化して、美的な出来事へと転換してくれる力があるんだなあとその時、感じたのです.
他者の語り(表現)を誠実に聴き、それを受容して再構成しながら、自己表現する「再現」のプロセスに、自他の個性が普遍的な価値の実現として自ずと輝き出る事、そんな不思議な力が詩作には秘められているんだ、と気づかされました。
芸術全般の基礎的な事柄かも知れませんが、創作の場においてこそ、日常の中に埋もれかけている豊かな実在(価値)が浮かび上がるという事実、そんな詩作との出遇いで、僕の世界は広がりと深まりを見せています。そういった素敵な体験を、より多くの人々に導いていただけますよう、みなさまには心より希望し願っています。
■今滝憲雄さんって、どんな人?
1969年生。大阪府立大学大学院修了後、現在まで大学非常勤講師
直らない面倒くさがりの性格につきあい続ける日々を過ごしています。
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大学講師
2014-12-07T22:54:00+09:00
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2014年11月号 池田万由未さんより、おてがみが届きました
「手紙の手紙」
はじめまして。池田万由未と申します。特に何者と言えるものでもないのですが、人が好きで、こんなふうに手紙を書くのがすごく好きです。今日はちょっと「手紙の手紙」を書いてみようと思います。
さて、私の個人的な事情なのですが、最近引っ越しを...
はじめまして。池田万由未と申します。特に何者と言えるものでもないのですが、人が好きで、こんなふうに手紙を書くのがすごく好きです。今日はちょっと「手紙の手紙」を書いてみようと思います。
さて、私の個人的な事情なのですが、最近引っ越しをしました。
まぁ単身の住むような小さなアパートだから特にお隣に挨拶することもなく、引越しの片付けなどをしつつ、新生活を楽しんでいたのですが、郵便受けをみるのを忘れており、引っ越して2日目くらいにみてみると、そこにはピザ屋のちらしとコピー用紙を二つ折りにした手紙が1通、入っていました。
「 私は一階の住人のFと申す者です。普通なら二階に上がって池田様にご挨拶をしたいと思っておりますが、現在86歳になりますと、足が弱って支えがないと歩けなくなりました。それで階段は上れませんので失礼致します。
用件 ゴミ出しの日・場所の説明(省略)
その他、質問したいことがあります時は郵便受けの101の中へ入れて下さい。大変ご面倒をおかけしますが、お許しの程を。 」
挨拶しないといけないのは私の方なのに!という申し訳ない気持ちとこんな親切にお手紙をくれるまだ見ぬ86歳へのやわらかく愛おしい気持ちが湧いてきました。
仕事の都合などで翌々日くらいになったのですが、栗饅頭を持って挨拶に伺うと、そこにはまさに86歳の可愛らしくでもどこか品のあるご婦人が顔を出しました。
手紙のお礼と挨拶が遅れた謝罪などの挨拶をまぁそこそこにし、お別れをしたのですが、その翌々日に、また郵便受けにコピー用紙を二つ折りにした手紙が入っていました。
「 先日は美味しい栗まんじゅうを頂きありがとうございました。私はヘルパーさんが週2回来て部屋を掃除してくれます。それで、掃除がすんでヘルパーさんとコーヒーを飲みながら栗まんじゅうを頂きました。久しぶりでしたので、美味しく頂きました。ありがとうございました。 」
まるで恋人から手紙が来たような嬉しさで、すぐにお返事を書きました。奥様に似合うような和柄の便箋に、私もヘルパーであることといつでも困ったことがあれば呼んでほしいことと連絡先を書いて(文面は忘れてしまいました。でも手紙の良さって自分が書いた内容は読めないことでもあると思うのです。)二つ折りにして101の郵便受けに、ストン。
それから少し経って、郵便受けに今度はコピー用紙を二つ折りにした手紙とハート柄のタオルの入ったビニール袋が入っていました。
「 お仕事でヘルパーさんをしていらっしゃるそうですね。若い時には考えてもみなかった事が、年をとると出来なくなる事を手助けして頂くヘルパーさんに感謝しております。(個人的なことが書いてあったので省略)
生協にタオルを注文しましたら、4枚も入ってましたので、1枚お使い下さい。お若い人には向いているハートもようですが、年寄りにはちょっと気はずかしいと思います。 」
なんだかもう1日ずっとにこにこしてしまいそうな嬉しさで、色んな人に自慢をしてしまいました。何かお返しを、と思ったのですが、そうするとまた気を使わせてしまうような気もして、御礼のお手紙だけにしました。やっぱり和柄の便箋を二つ折りにして。
このやりとりで、今のところは止まっていますし、なかなか会う機会もないものですから、朝の窓を開ける音くらいしか下の86歳の住人の存在を確認することはありません。でも、いつか重いものが持てなくて困った、くらいの用事で、電話がはいったりしたら嬉しいなと密かに思っています。
こんな誰かとのやりとりがあるから生きていけるとしみじみと思います。
言葉は、言葉では、“本当”は伝わらないと思っています。どうやってもどこかに歪みが生じると思います。それでも、そこに“本当”がなかったとしても、言葉を通して自分の感覚に置き換えられ“感じ”がわかったとき、どうしようもない嬉しさに満たされます。たぶんそれは言葉でなくてもいいのですが、なにかを介して伝えられたものが「なんだかわかる」とはっとする瞬間や、または染み込むような切なさが“感じ”なのだと思います。
私にとって言葉というものが大切になってきたのは、3,4年くらい前からです。“感じ”を受け取ることはできても、伝えることはまだとても難しいです。言葉の初心者の私としては、“感じ”を伝えることができる人にとても、とても憧れます。
しかしまぁ、本当のところ“感じ”を伝えられたかどうかなんて、もしかしたら誰にもわからないことなのかもしれません。
そんなどうしようもない世界で、私は86歳になることが、今はあまり怖くはありません。
■池田万由未さんって、どんな人?
1985年福岡生まれ。大学で美術を学んだあと社会を知るため、建築会社に就職。まさかのweb系から介護系に部署異動。認知症のじじばばにきれいもきたないもまるっと見せてもらって、禿げ頭にキスしたいと思ったことから、福祉にはまる。美術と福祉の共通項を見出し、繋ぐ術を探るべく、障がい福祉に転職を決意。色々みてまわって思ってもみなかった重度心身障がい児・者と関わるNPO法人ニコちゃんの会に就職。衝撃の毎日であっというまに1年半。
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福祉人
2014-11-14T23:59:00+09:00
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2014年10月号 猫まみれさんより、おてがみが届きました
礼状書き(富山弁編)
数日前、9年勤続の職場を派遣切りにおうた。
元同僚女子18名からお花もろた。
男子はゼロ。
別にいいがやけど。
今、そのお礼の手紙を書いとる。
ひとりに便せん1枚づつ書いとる。
書くことたくさんあり過ぎて、文字小さなってしもた。
...
数日前、9年勤続の職場を派遣切りにおうた。
元同僚女子18名からお花もろた。
男子はゼロ。
別にいいがやけど。
今、そのお礼の手紙を書いとる。
ひとりに便せん1枚づつ書いとる。
書くことたくさんあり過ぎて、文字小さなってしもた。
私より字汚い人、日本語書ける人のうち0.3%未満かもしれん。
読みにく過ぎやわ。
時々、自分の書いた字ながに、なあん読めんわ。
読めんだら、気合いで解読してくれんけ。
悪いがやけど。
で、7名分書き終えたがやけど、はや手首ちょっこし痛なった。
それぞれへの書き出しちゃ、まず相手の名前。
続けて、お花のお礼やね。
全員分微妙に言葉が違ってった。
続いてそれぞれの人たちへの言葉、それぞれ。
それぞれの人たちと私との間に紡がれてきてった物語。
書き始めてみたら、物語の方からこっち寄ってきた。
自分がコスモスの花の、えらそやけど真ん中の花粉密集地。
放射状の花びら一枚一枚がそれぞれとの物語。
花びらの先のどっかが、その人たち。
花びらの先のどっかは、どこやろか?
地球の外側かもしれん。
今吸おうとしとる酸素の塊かもしれん。
18名女子は、なに者やったがやろ?
それはようわからんけど、思いだけは込める。
花びら18枚の珍種のコスモス。
普通は8枚らしいけど。
その花びらを一枚一枚指でなぞる。
過去の物語を指でふたたび感じとる。
触感がことばを運んできとる。
運ばれてきたことばが、便せんに転写されてく。
イタコ状態。
書いた、18名分。
なんかほんま幸せやね。
手首はもっと痛くなっとるはずながやけど。
幸せ気分に痛み止め効果あるがかも。
いいがいね、イタコ気分。
18名分の手紙は、私書いたがじゃない。
書いたけど書いとらん。
ペンが勝手に動いてった。
こっくりさんが10円玉走らせるみたいに。
私はただペン先を便せんにのせとっただけ。
女子18名それぞれとの思い出を浮かべとっただけ。
私がしたがはそれだけ。
飲まず、食わず、息だけはしとったと思うけど。
思いは私ながじゃない。
私の一部ながでもない。
どこから私に突然やってきたかもわからん。
ただ、なんやろね。
手紙書いとる間、私そこに、おった記憶無いが。
でも、何かが自分を通過しとるな、と思た。
自分でないもんが私を動かしとるみたいな。
私、その間、とんでもなく幸せやった。
18名のこと考えながらの、そのための手紙やったがに、
手紙書いとるときの私は不在で、
でも気いついたら、伝えたかったこと、確かに書いてあったがやぜ。
実は詩人さんたちって、万年イタコ時間の住人かもしれんね。
人よりずうっと長いがかもしれん、
幸せ感じられる時間が。
心込めて書いとってやがやもん。
あんたらっちゃ、いいがいね。
ほんま、いいがいね。
■猫まみれさんって、どんな人?
猫まみれ
短大家政科卒。女子寮生活。新卒就活し損ない25歳まで富山県内でバイト点々&地元大学のミニコミ誌製作参加&簡単な資格取得オタク。25歳で家出を兼ねてアジア5カ国半年放浪。帰国し東京で1年バイト掛け持ち後、英国系通信社の雑用事務係として派遣から正社員。外国人多いシェアハウス在住。30歳で渡米しユダヤ系アメリカンと結婚。学生&販売職。音楽&映画&猫&鬱三昧の日々。40歳で離婚し富山へUターン。9年間電話予約事務の派遣職。放送大学人間と文化コース卒。派遣切りの現在。
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無職
2014-10-15T00:00:00+09:00
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2014年9月号 坂下範征さんより、おてがみが届きました
自己紹介とは何か。
坂下範征
自己紹介とは何か。広辞苑によれば、「初めて会う人に、自分で自分の姓名や職業・身分などを告げること」とある。姓名は坂下範行と申します。宮之城駅前(鹿児島の宮之城線)の近くの家で生まれたので、遠く戦野に行く送り人の声がきこ...
坂下範征
自己紹介とは何か。広辞苑によれば、「初めて会う人に、自分で自分の姓名や職業・身分などを告げること」とある。姓名は坂下範行と申します。宮之城駅前(鹿児島の宮之城線)の近くの家で生まれたので、遠く戦野に行く送り人の声がきこえたという。模範として出征する。おふくろがつけたという時代の産物のような名前・範征は、70年たってもなかなかなじめない。昭和18年11月8日出生。一と八が多く、まあ一か八かの人生といって目標などほとんどもったことがなく、いいかげんな男です。1973年、ぼくが愛して女房になってくれた女性の名前がいくよさん。いっしょに住んだのは一千夜も満たなかっただろう。ガンである。大阪でのデートのおもいでは法善寺の水掛不動尊と夫婦善哉。
もう40年近くたつだろうから、ドキュメンタリー(十分位)もので、ゼンザイをのんでみたい。蝶子役はイタキソ神社でみつかるように三百円の木札「早く蝶子役がみつかるようお祈りします」とお札をおさめたところ、一週間でおねがいがかなったので、そこの神社の巫女さんと記念写真をとってもらった。今は幸せいっぱいです。雪駄とボーシはある。ゆかた500円位で古着買おうとココルーム前の古着店でみつけようとしている。
職業はモト新聞配達店25年 土工10年 アルミ回収3年 塾教師(小中生)3年、大学総務(ケイビ、水まき、プールセイソウ<営繕)2年、紀伊国屋書店半年、写植屋半年。 現在の身分は生活保護者。年金生活者といいたいが、日雇いなどで省エネ省エネで生活してきたので、年金はほぼなく、これ又仕方ない。本来どうあるべきか、乞食の修行にでて、ノタレ死にが一番ピッタリなのかもしれない。
今は米のめしとみそ汁を毎日たべて、市内のバス代、地下鉄が無料で、動物園などが無料。今度はオスのカバとメスのカバの水しぶきをあげながらのラブシーンを又みてみたい。11月に71才になったら、コラージュの紙絵10枚個展したいので、よかったらみにきてください。
毎日メルヘンに生きて、70年たっても自己をよく知ることもなく、これからも省エネでしぶとく生きて、もし100才になったら織田作之助の「競馬」「六白金星」みたいな小説らしきものを書きあげてみたい。
最後に全国の老人諸氏へ。
“命短し 恋せよおじん”“命短し おじん、おばはん、大志をいだけ”
現在、釜ヶ崎芸術大学に通うのが楽しみ。狂言やエッセイや詩や音楽や彫刻、書道、微分・積分の話“天文学”“物理学”などもはいった釜ヶ崎芸術大学三期をつくってください。何かよくはわかりませんが、お金集めをしているそうです。
https://motion-gallery.net/projects/cocoroom/
釜ヶ崎芸術大学のレポートはここにありますよ。
http://www.kama-media.org/japanese/geidai2013/
みなさん、ごきげんよう。
■坂下範征さんって、どんな人?
坂下範征 さかした のりゆき
70歳 159cm 72kg
これまでの職:土工(解体工 手元)
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解体工
2014-09-15T00:00:00+09:00
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2014年8月号 渡辺トウフさんより、おてがみが届きました
書物も妻も一切合財捨てて来た。
四月十五日、夜行バスで天王寺に着き、その日のうちに西成に敷金礼金保証人なし風呂無し共同便所家賃二万円即日入居可の部屋を借りることが出来、様々な知遇を得て十日間ほど職探しに駆け回り、どうにかクリーニング工場パートの仕...
四月十五日、夜行バスで天王寺に着き、その日のうちに西成に敷金礼金保証人なし風呂無し共同便所家賃二万円即日入居可の部屋を借りることが出来、様々な知遇を得て十日間ほど職探しに駆け回り、どうにかクリーニング工場パートの仕事に就けた。
もうなにも要らないと思っていたが、釜ヶ崎路上の段ボール函をつい漁っていたら見つけた、表紙の取れた薄汚れた文庫本一冊五十円を二冊買ってしまった。カフカ『審判』と、中上健次『岬|化粧 他』。それから、四月分の半端な、でも嬉しい給料が入った今日(五月十五日、こちらに来て丁度一ヶ月)は、鶴見橋商店街のリサイクル店で千八百円の炊飯器も買った。
俳句をやっている。俳人は俳人になったときから、もはや俳人でも何でもない人になってしまうことを夢見る。「俳」と云う字は、人に非ずと書く。つまり、俳人とは、人に非ぬ人。〈明日はやっては来ない〉という道理を真に受け、〈ならば、せめて一句残して今日死なむ〉という酔狂に生きる者。
俳句の国に生まれ、釜ヶ崎へとたどり着いた。わたしは、いつの日か、俳人として生きた日々も遠く忘れ、ただ、釜ヶ崎のおっちゃんたちの一人になれたら、それでよい。
昨晩遅く、萩ノ茶屋駅の前で、雨に濡れたクシャクシャの千円札を拾った。おかげで、今日、花園北にある〈鶴亀温泉〉に行ってさっぱりして来たのである。
鍋釜八十八句 〈光ノ竹藪〉より
渡辺トウフ
2014年4月15日〜5月15日
そやなあ 明日も春やけふも春
ゆで卵・三角公園・俺無職
座蒲団に釜を座らせ、朧ノ話
手鏡を握る俺ノ手、ドヤの春
ネクタイで首を吊るには、日ガ永くク
履歴書に蛙一匹、貼り付ける
春満月に噛み締めてゐる、親知ラズ
コラツ!外道 早ヨ死ネ!(飛花
ナ? 此処デ、踊ラントイテナ(落花
春雨や、昼ノ味噌汁甘くなり
春暁に鎌首もたげる、犬ノ糞
花曇、コインランドリイヰに犬眠ル
花散り了へたれば皆被るハンチング
花びらよ、路上に突いた判子の如く
葉桜ノ無口な男、冷しあめ
春ノ朝、闇ヲより分け白御飯
犬ノ如、哭いてゐる猫と眼が合ふ
春夕べ 赤い輪ゴムは取つて置く
春時雨して釜ノ底にも、肘枕
白藤よ 金を貸しては呉レルナヨ
ゆで卵、おまへの様な仕事はないか
アア 俺は無能ノ箒や、春暑シ
塵取リに、掃き集めたる春ノ季語
鳥交る 二冊デ百円ノ文庫本
はるかぜと云ふ名に乗るや渡し船
春風は、王から王へと渡し船
屋根ニ猫/ネクタイが、遍路道めく
春ノ灯の紐垂れてをり、喉ノ奥
愛、トイレツトペヱパーの白の重み
皆、壁越シに添ひ遂げよふかし芋
僧が来て僧が去るなり 紙袋
紙袋、立つて居るなり 春の宵
大阪ノ雀に見へてもくる也
ゆで卵・三角公園・俺、人民
タイガース負けているポピー揺れている
釜ヶ崎 春ノ唐揚ゲ落ちてゐる
春ノ灯の傘ノ埃を、受け継ぎぬ
春雨も便所に流してしまひけり
雑巾を洗つて干して 弥生尽
惜シム春、釜ノ底へと立小便
石ふたつ タオルを畳み思ふこと
白い雲 バナナを一本を秘めてをり
ふらここに何処へ帰レと、言えようか
フルイケや此処でしなけりゃ漏れてまう
十字架よ、月は東だ日は西だ
夏兆ス南海電車鉄火面
釜ノ尻洗つて干して、さてメーデー
メーデーの幾何学・神ノ子 車椅子
こともなくをとこ倒れてをり、立夏
いよいよ夏のバスローブ抱き締める
魂に残業のある、子供ノ日
絶叫の後ノ沈黙、鯉のぼり
ランボーよ砂漠に幻視せよ、鯉のぼり
所持金に五月ノ光、西成区民
木陰からケンカ始まる釜ヶ崎
風光りますコーヒーの香りのお線香
光ル風のなかからドアホ!と浴びせらる
光り了えた風がお好み焼福ちゃんへ
おっちゃんら五月ノ朝から呑んでをり
夏が来て犬を洗ふや、釜ヶ崎
蠅よ来てたかるがいいさ、この夢に
立ち小便禁じる世界、夏ノ朝
初夏の一句ノ引き金、絞る君
日傘カラ、観念去りし浪花カナ
西成ノ林家パー子に、緑夜来る
西成デ、愛のメダカを探ス日々
西成デ薔薇を植ゑても、看板看板
おっちゃんも五月のアディダス三本線
釜ヶ崎 ヒカル風もて髭を、剃ル
虹ノ如キおっちゃんチャリパクる
カラオケや 季節をハズレたいい女
西成のパチンコ台に、夕陽墜ツ
風と光る風とは団結できるだらうか
炊き出しの粥に未来ノ西日射す
西成ノ西日のなかへと帰りゆけり
ベニスに死すか/行き倒れるか、西成に
缶詰に緑夜が詰めてありぬ、食す
バナナ剥く、烏が首を吊るよう
風に光らぬ事も書いてしまひけり
割り箸を西と東に割りにけり
朝焼の鏡に罅の入るまで
蛍火は、成光鐵工所に注文す
爪先の届く幸せ電気温泉
脱衣場で爪切る音に、夏の雨
銭湯に、汗と虹と彫物師
白壁や胸に拡げるバスタオル
西成ノ路地ノ奥カラ西日産む
鍋釜ノ鍋の方には、夏ノ月
階段の上で早速、二人はKの腕を取ろうとしたが、Kは言った。
「通りに出てからにしてください。私は病気じゃないんだから」
『審判』Franz Kafka
「恐ろしんよ。一人でおるのが恐ろしんよ」
猛は女の髪をなぜた。
床の間に紫の小花を軸にした生花があった。水の音が、風呂場の方でしていた。
『藁の家』中上健次
■渡辺トウフさんって、どんな人?
俳人
西成オルタナティブ俳句センター(現代釜ヶ崎俳句シーンを試行する)
パフォーマー
1970年生まれ
西成オルタナティブ俳句センター(NOHC) Twitter
https://twitter.com/nishinarihaiku
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俳人
2014-08-14T20:42:00+09:00
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2014年7月号 鳥居(とりい)さんより、おてがみが届きました
はじめまして。
私の名前は 鳥居と 云います。
私は 小学校中退で ホームレスで 孤児。
とても とても 貧乏です。
だけど
小説や 美術や 短歌を つくって
時々 賞をもらったり 新聞に載ったり しています。
ーーー
今は 孤児です...
私の名前は 鳥居と 云います。
私は 小学校中退で ホームレスで 孤児。
とても とても 貧乏です。
だけど
小説や 美術や 短歌を つくって
時々 賞をもらったり 新聞に載ったり しています。
ーーー
今は 孤児ですが
昔は 私にも 立派な 家族がいました。
私の一家は 代々 お医者さんか 学校の先生の仕事に 就きました。
みんな 国立の大学を 入学して 卒業しました。
そんな優秀な わが家にも
みんなには 言えないことが ありました。
ーーー
あなたは
「虐待の連鎖」
という言葉 を 聞いたことが ありますか?
よんで字のごとく。
虐待が 連鎖していく ( 病気・呪い ) のことです。
ーーー
私の おじいさんも おばあさんも おかあさんも (おとうさんはいない)
それぞれ とても すばらしい
尊敬する 立派な 人生を 歩んでこられました。
そんな 立派な人格を 以てしてでも
それでも
虐待の連鎖 を 断ち切ることは
困難でした。
ーーー
とても かなしいことですが
おばあさん と おじいさんは、 おかあさんを 虐待して
おかあさんは、 私を 虐待しました。
ーーー
おかあさんは、トラウマに苦しみ
私が 小学生のときに 灰色になって 自殺してしまいました。
ーーー
私は
「だいすきな おかあさんが 死んでしまったのは
おじいさんと おばあさんの せいだ。
あなたたちが 過去に 虐待なんか するから
おかあさんは 死んでしまったじゃないか。」と 言って
おじいさんと おばあさんの家には帰らず
孤児院で 暮らすことにしました。
ーーー
孤児院は
今までの生活とは
すべてが ちがっていました。
ーーー
爪を剥がされたり
熱湯を掛けられたり
殴られたりすること は 日常茶飯事で
ついには
倉庫に監禁されて 学校にも 通えなくなりました。
ーーー
おばあさんは 孤児院に よく手紙を送ってくださいました。
「学校は楽しいですか? お友達はできましたか?」
ーーー
私の一家は 代々 みんな 国立の大学を 入学して 卒業し
お医者さんか 学校の先生の仕事に 就きました。
それなのに 私は
大学どころか 小学校すら 通えなくなっていたのでした。
学校へ通えない間に
授業は どんどん 進み
ついには
乗り遅れた 最終のバスのように
まるで「もう手遅れだ」と 言わんばかりに
どんどん 年相応の学力から 私は 取り残されていきました。
ーーー
そうして
学力は 小学校の 途中のままなのに
私は 中学生の 年になりました。
ーーー
若いころに 教師をしていた おばあさんは よく手紙を送ってくださいました。
「学校は楽しいですか? お友達はできましたか?」
「そろそろ 中学校で〇〇を習う頃ですね。」
「〇〇は つまづき易いところですが、 あなたは昔から 賢い子でしから きっと大丈夫だと思います。」
「そろそろ 行きたい高校は 決まりましたか?」
ーーー
全身 痣だらけで
食事を貰えないために 痩せこけ
洋服もないから 雪の日でも 唯一持っている 半袖の体操服を着て
寒さで震え 蒼い顔をして
爪のない血まみれの指で
私は 手紙を 読んでいました。
私は けっして おばあさんに 返事を 書くことは、ありませんでした。
ーーー
そのうち おじいさんは死に
次に おばあさんも 死んでしまいました。
遺産は ぜんぶ 他の親族が もっていきました。
ーーー
おばあさんが 亡くなる数年前に
1度だけ おばあさんに 会ったことがあります。
おばあさんは 私に会うなり 嬉しそうに言いました。
「元気でしたか。ところで 勉強の方は どうですか?」
私は なんとなく ずっと下を向いていました。
それを 不思議に思ったのか
「学校で〇〇の公式を習ったでしょう? 〇〇の時 〇〇は、どうなるんだったかな?」
「〇〇は知っているよね。習ったはずだね?」
次々と 次々と
おばあさんは 私に 勉強についての 質問をされました。
だけど 私は ずっと下を向いていて
たった 1つも、答えることが出来ませんでした。
ーーー
おばあさんは 亡くなるとき
かつての教え子の中で一番 勉強ができなかった生徒の名前を 挙げながら
「あの出来の悪かった生徒よりは、うちの孫の方が まだ勉強ができるはずだ、まだマシなはずだ」
と 繰り返していたそうです。
やがて 死期が近づき おばあさんは 意識が混濁しながら
あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシ
あの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシ あの子よりマシ あの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシ
あの子よりマシあの子よりマシあの子よりマシ あの子よりマシあの子よりマシ
繰り返し 繰り返し
口走っていた といいます。
ーーー
かつて名家と呼ばれた我が家は
何の教養もないまま育ってしまった孤児の私1人を遺して
崩れ落ちてしまいました。
この お話は
そんな哀れな家族の物語です。
お読みいただき ありがとうございました。
慰めに「勉強など」と人は言ふ その勉強がしたかつたのです
ーーー
■鳥居さんって、どんな人?
【略歴】
作家(短歌・小説・美術)
小学校中退・孤児・ホームレス等を経験
いつも、セーラー服を着ている
【受賞歴】
現代歌人協会主催 全国短歌大会 佳作 (穂村弘選)
路上文学賞 大賞 (星野智幸選)
中城ふみ子賞 候補作
【セーラー服の理由】
いじめ・虐待など、何らかの事情で
義務教育を学びたくても学べず、教育の権利を奪われた人がいます。
社会への問題提議を込めて、表現活動としてセーラー服を着ています。
【活動】
・生きづら短歌会‥不登校・ひきこもり・ニートなどの生きづらさを抱えた人を対象にした短歌会を発足
・虹色短歌会‥セクシャルマイノリティ・セックスワーカー当事者を対象にした短歌会を発足
それぞれで、歌会等のイベントを開催している
【関連サイト】
ブログ http://toriitorii.exblog.jp/i2/
不登校新聞 http://www.futoko.org/news/page0201-3239.html
吉川宏志氏と鳥居 http://aosemi.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/12/post_d82b.html
藪内亮輔氏・鳥居を語る http://www.youtube.com/watch?v=GXMsIjzHynY
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作家
2014-07-14T20:50:00+09:00
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2014年6月号 臨夏(りんか)さんより、おてがみが届きました
「日本と台湾の言葉事情」
詩人の方々は、ことばをうまく使うことができます。それで、お願いがあるのです。以下、まずは、いろいろ書きます。
台湾という国には、言語/方言の上でのいろいろな問題があります。
それは、多分、世界のどこにでもある、普遍...
詩人の方々は、ことばをうまく使うことができます。それで、お願いがあるのです。以下、まずは、いろいろ書きます。
台湾という国には、言語/方言の上でのいろいろな問題があります。
それは、多分、世界のどこにでもある、普遍的な問題と思います。以下、時系列で「台湾人」の歴史を記していきます。
10万〜8万年くらいまえ、アフリカ大陸から、新人(ホモサピエンス)の一部が、アラビアに渡り、その小さな集団の人たちが、以降、アフリカ以外の全世界に広がっていきました。
その人々は、4〜3万年くらいまえには、台湾にたどり着いていました。自然人類学ではニグリト、と呼ばれ、いまも世界各地に分布し、アフリカから出た、初期の新人に一番近いと言われています。
現在、台湾人の2%くらいは、原住民 で、オーストロネシア語族に属します。彼らは、6000年前中国から来ました。5200年前頃、外洋に「遠征」を始め、いまは北はハワイ、東はイースター島、南はニュージーランド、西はアフリカ沖のマダガスカルという、近代より前の言語拡大としては、最大に広がって住んではります。
時代は跳んで、400年前。中国では明清の交代期、台湾島は、倭冦の巣窟やった思います。台湾の最初の漢人政権、鄭氏政権を立てた鄭成功は、父は漢人倭冦の鄭芝竜、母は日本人倭冦の平戸松浦一族の田川まつ。二人とも、中日国籍というよりは、東シナ海の「世界市民」ともいえる、「海民」であった、と考えた方がよさそうです。
このころ、中国から「ホーロー人」がどんどん台湾島に移住してきました。中国語の方言の一つ、福建南部のことば、閩南(びんなん)語を話します。このことばが、いま台湾で台湾語、と呼ばれているものです。いまの台湾人口の6~7割を占めます。
少し遅れて「客家人」が入ってきました。客家は、これも中国語の方言のひとつ、客家語を話します。中世に華北から、南下してきた人々で、中国南部のあちこちに点在しています。いまの台湾人口の15%以上が客家です。以上、原住民とホーロー人と客家人を併せて、「本省人」と呼びます。
1876年(明治9年)に、日本は軍隊を台湾に派兵し、原住民相手に戦争をします。これが、台湾地方が近代化運動を始めるきっかけの一つにもなりました。その後1895年に日清戦争に勝った日本は、戦後台湾に侵入、戦争の上、征服します。人口でいえばわずかな日本人が、主に台北市を拠点に、台湾支配を始め、その差別統治によって、台湾人に日本語を強制していきます。
やがて1945年、第二次世界大戦に負けた日本人は、台湾島を追われ、その代わりに、中国人がやってきます。「中華民国」国民の人々です。彼らは「外省人」と呼ばれ、第二次大戦の終結時点で、台湾に住んでおらず、その後、多くは国民党と共に台湾に移住してきた人々を元とします。台湾人のなかで「本省人」以外が「外省人」です。やはり台北市を根拠地とし、主にマンダリン =官話 =国語(グォユィ) を話します。この言葉は、「中華人民共和国」の共通語、「普通話(プートンホヮ) 」とほぼ同じで、これを台湾人に強制します。
以上の背景のなか、各言語集団のあいだには、いつも対立や闘争、迫害がありました。いまでも目立つものは、 外省人と本省人の対立です。外省人は「国語(グォユィ)」を本省人に押しつけ、そこで言葉にランク付けが現れ、国語が高級、台湾語その他の言語が低級とされます。学校では国語しか話してはならず、教室で他の言葉をしゃべれば、胸に「方言札」が付けられ、罰則の対象となりました。これは日本帝国時代の沖縄県でもあったものですね。
これは、少し前まで「省籍矛盾」と呼ばれたもので「もう解消したで」という楽観的な見方はあるものの、慎重にして悲観的な見方をすれば、まだまだある、と言えます。国語は、戦後台湾で確実に広がって行きましたが、民進党が政権を取ってからは、台湾語も学習対象となりました。台湾語の歌や映画にも大きな力があります。しかし、皮肉な事としか言いようがありませんが、今でも取り分け台北市では、国語の力がいよいよ大きくなり、台北の少年層より幼い間では、台湾語をようせんけど、国語ができる、というような人が多くなっていってます。
日本の国の言語問題も挙げてみましょう。まず列島でよく目につく言語集団としては、アイヌ人や日本人(アイヌ人から見れば和人、沖縄人から見ればやまとぅんちゅー)、琉球人(沖縄人、うちなーんちゅ)、朝鮮(韓国、コリア)人という4種のグループがあります。ほかにも、北海道には、戦後日本帝国領樺太からやってきた、ウイルタ人やギリヤーク人がいます。
「日本語」は、大きく分けて、「首里方言」と「京都方言」に分かれます。前者は「琉球語」・「うちなーぐち」とも呼ばれ、日本語の方言と見なされれば、「首里方言(あるいは「うちなーぐち」)」となります。わたしは「方言か、言語か」が大切なのではなく、ことばは、ひとつひとつが大事なもの、と考えます 。
さて、日本語の京都方言ですが、これをまた大きく分けると、東日本方言と八丈方言と西日本方言と九州方言とになるようです。どの方言もひとつひとつ大事ですが、今の日本で大きな問題で、わたしが(わたしのエゴイズムのせいもあり)もっとも心配しているのは、「大坂弁(広く近畿、京阪神に分布することばで、最近は関西弁、という言い方がありますが、わたしはこの言い方は嫌いです。まるで、関東と対等のようやからです)」と「東京弁(江戸東京の方言、あるいは共通語、標準語)」の問題です。
多くの京阪神の人々の、ほぼ共通の体験と言えると思いますが、われわれ大坂人は、東京の日本支配と、東京弁の横行に苦しんで来ました。ことばは、衣服でなく、身体そのものであり、それが圧迫されたり、傷つけられたりしたら、甚だしい苦痛を受けます。いまでこそ、大坂弁は、広く日本各地や東京でも、暖かく受け入れられ、流通もすることばになってきましたが、わたしに大坂人としての自覚が出来始めてきた小学生のころは、大坂弁の立ち位置は、いまよりはだいぶ貧相なものでしたよ。あのころは、東京弁に苦しめられ、大坂弁に憧れていましたが、さまざまな「社会的なタブー」があって、素直にそれを表現できませんでした。
いまは、かなり良くなりました。大坂人の地位がよくなり、力が付いて来たからでしょうか。でも、それで安心してしまい、東京弁を、安易に受け入れる傾向も出てきたりはしていないでしょうか、それが心配です。ある意味、われわれ大坂人は、東京に苦しめられていたときの方が、大坂弁が今よりもっと好きやったし、そういう意味で「恵まれていた」のではないか、との皮肉も言いとうなります。
取り分け、非難するつもりはありません(というのも、歴史的に複雑で難儀な問題ですから)が、女性や、小さな子供たちが、東京弁をしゃべっているのが目につきます。
そこで、最初に書いた「詩人の皆さんへのお願い」ですが、皆さんの詩作や、日常生活で、もっと方言(皆さんは、大坂以外の方々が多く、各地のことばをしゃべりはりますやろう)を、ばんばん使て欲しいのです。その際、各地ネイティヴには、固有の仕事がありますが、今や日本人の大きな部分を占める。関東、東京の人にも、遊びやお洒落感覚でええので、携帯やネットとかにおいて、方言を使てくれたら、わたしもおもしろいです(笑)
大坂弁が、他の言語・方言にくらべ、比較的よく保たれているのには、漫才や落語が古い大坂弁を保存しつつ、大坂人に訴えかけるものがあったことや、まんがやアニメなんかで、新しい大坂弁が多用され、はじけて来た、という事があります。そこで、漫才師さんや、まんが家さん、そして詩人さんの方々が、方言に目を向けて、うまいこと使いはることにより、日本人の、いや地球人の文化的身体を治療していくことを期待したい、と、毎日台北市の街角で思ております。
わたしも、北京語ばっかり勉強してますけど、ほんまは台湾語も客家語も勉強せんとおかしいんですけどね(^^;
■臨夏さんって、どんな人?
ハンドル:臨夏(りんか)
神戸市東灘区の灘校入学、
中一の二学期で勉強を止め、
中三の終わり頃、共産主義に目覚め、
高二の終わり頃、統合失調症を発病。
このころ革命家の表三郎に師事、灘校卒業。
種智院大学に入学、退学。
佛教大学入学、
途中一年足らず、
中国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市延辺大学に語学留学、
佛教大学卒業後、京都でフリーター。
2000年に台湾の台北移住。
政治大学台湾史研究所(大学院)で修士取る。
以降、引き続き台北暮らし、
いろいろ困りながらも、楽しく過ごして おります(笑
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留学生
2014-06-15T09:28:00+09:00
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2014年5月号 橋口博幸さんより、おてがみが届きました
竹とことば
みなさまへ
はじめまして、橋口博幸と申します。自分のことを「愛竹家」とでも名乗ろうと思いはじめた鹿児島生まれの31歳です。
突然のお便り失礼します。そして僕の愛する「竹」について話することお許しください。
僕は縁あって関わった大学のプロ...
みなさまへ
はじめまして、橋口博幸と申します。自分のことを「愛竹家」とでも名乗ろうと思いはじめた鹿児島生まれの31歳です。
突然のお便り失礼します。そして僕の愛する「竹」について話することお許しください。
僕は縁あって関わった大学のプロジェクトで、竹との関係がうまれました。6年前のことです。ところでみなさんは竹とふれ合ったことってありますか?たけのこ掘りで竹林を歩いたり、必要に応じて竹を伐ったりとか。僕は竹ヒゴや竹馬なんかを使ったことはありましたけど、実際に竹林を歩き、竹にふれ、伐ったことは、それまで人生で一度もありませんでした。
そんな僕が竹に魅かれていったのは沖浦和光氏の『竹の民俗誌―日本文化の深層を探る』(岩波新書)を読んでからでした。5年前の夏、インドネシアに向かう機内で読んでいた時のことです。ここで描かれているのは、東南アジアから日本へといにしえより連綿と続く竹の民俗・文化。そして僕の生まれた鹿児島はまさに「日本」と東南アジアの接点とも言える場所であり、本書によれば日本の竹文化の起点とも言える場所でした。この時の興奮は今でも鮮明に覚えています。それからというもの隼人の人々に、自身の遠い祖先を思い浮かべ、そして以降、数多見つかる自分の人生と竹との接点に興奮し、今に至ります。
不思議なもので一度、チャンネルが「竹」にピントがあってしまうと、至るところで感知するんですね。これは他のことでも言えますが、情報がよってくる感覚です。おかげで日々、退屈することなく、竹とふれ合うようになりました。きづいたら子供にも「竹虎」なんて命名していたり。子供にとっちゃ良い迷惑ですよね。
少し話しは変わりますが、僕は武蔵野美術大学の基礎デザイン学科というところを卒業しました。向井周太郎先生という方が創設者なのですが、向井先生はデザイナーであると同時に詩人でもあります。そのため著書はどれも、ことばの響きに満ちているように感じます。
僕が竹民具の中でも「箕」(穀物をふるって選り分ける道具)について調べていたときです。「み」という言葉の響きについて考えていました。もちろん生活に密着した民具ですから、各地方によって呼び名を違うんですが、総じて「み」と呼ぶところが多いんです。そんな時、向井先生が『かたちの詩学』(美術出版社)で「身振り」に関する考察において語られていた、次の文章に行き当たりました。
- - - - -
そこで思い出されるのは、「身」という漢字の原義である。これは「人」の字形に大きく腹部をそえた形で、身ごもっている人の側身形を表し、「身(はら)む」とよむのが原義で、妊娠の意であるという。そして妊娠の「娠」は「身」に対する形声字で、胎内に振動する意を表し、「振」や「震」も同形の字で、みな動く意があるという(白川静『字統』『字通』『文字講話1』平凡社、参照)。
(中略)
身振りの「ふり」とは、原初的に「生まれる、生まれかわる」という生成と再生の揺動、振動、リズムであると述べたが、興味深いことに、その意味は「ふり」の振動の中だけでなく、「身」自身の意(こころ)のうちにもすでに包摂されていたのだ。
- - - - -
箕は両手でふるって使用します。そして場所によっては神聖性を孕むものとして、使用されてきたようなのです。僕の生まれた鹿児島では幼児を箕の上に載せ、祝ったといいます。そこではまさに「身」にみられる、生まれ、生まれかわる、生成と再生のリズムにおける「箕」のありかたがみてとれます。その始原的な動機を立証することはできませんが、ふと、箕をつかうときの動きを見ていると、「あぁ、ここから、生まれるのだな」と感じられることがありました。昨年夏に訪れたインドネシアのフローレス島という島の、ワエレボという集落で、なんとなく人々の様子を眺めていた時でした。上下に揺すって穀物を選り分ける様は、その一定のリズムとともに生成の調べを奏でているように見えなくもありません。僕はこの感覚をえられた際に、なんとなく箕の本質に迫れた気がしました。もちろん道具ですし、また、僕自身ものづくりに多少なりとも関わる人間ですから、その手触りやつくりかたといった「かたち」への考察もとても大事です。でもこういった感覚というのは、手を通じてからだけでなく、どこからか、ふっとわいてくるようなものの気がしています。
僕はものごとを考える際に、まずことばに立ち返って考えようとする人が好きです。言い換えれば、ことばを大切にする人が好きです。今回、皆さんにお手紙をしようと思ったのは、ふと僕自身の経験として竹について調べていく中で、ことばの考察が大きな転機になったことを思い起こしたからでした。みなさんのように詩作を傍らにいきていらっしゃる方々というのは、とてもクリエイティブな世界にいらっしゃるのだな、と感じます。同時に、その分、せかいの様々なことがらに、大きな影響をお受けになることも多いでしょう。でもどうか詩をつくりだすというポイエーシスをお続けになってください。そしてせかいの様々なことがらに、あらたな、いのちを吹きかけてください。僕は竹を通してせかいと繋がりたいと思っていますが、そんな時、何か一緒にできたら幸いです。そういう思いがふつふつと湧いてきたので筆をとった次第です。
■橋口博幸さんって、どんな人?
鹿児島生まれの31歳。武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒業後、ブラジル、サンパウロのファベーラ(貧民街)で半年間ボランティア。帰国後、武蔵野美術大学とインドネシアのバンドン工科大学とのあいだで始まった竹のプロジェクトに参加。以降、竹と炭をテーマに活動を続ける。2014年より活動の拠点を故郷の鹿児島へとうつす予定。
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愛竹家
2014-05-15T00:00:00+09:00
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2014年4月号 なかがきみゆきさんより、おてがみが届きました
みなさま、はじめまして、こんにちは。
先日の大雨で、大阪は随分と涼しくなり、夏の終わりと秋のはじまり、季節の移り変わりを感じています。
今日は気のおけない友だちと話した言葉と時間についてのお便りを綴ります。
毎日、スマートフォンからツイッターやフェ...
先日の大雨で、大阪は随分と涼しくなり、夏の終わりと秋のはじまり、季節の移り変わりを感じています。
今日は気のおけない友だちと話した言葉と時間についてのお便りを綴ります。
毎日、スマートフォンからツイッターやフェイスブックを覗いては、溢れ出すたくさんの言葉や情報を見ては、自分自身も言葉を送っています。
時おり、私は、この小さい画面に映る無限に広がる世界で、たくさんの言葉を本当に必要としているのか、何を確認し、知りたいのか、自分をどう知ってほしいのか、それはほんとうのことかな?とふと立ち止まることがあります。
会話とは違って、言葉の繊細なニュアンス、手触りのような感覚が抜け落ちていないか、惑わされていないか。一番話したいことがうまく言えず、こぼれた言葉のその部分が伝えたいことかもしれない…ともどかしい気分になったり。
言葉が消費されていくような気がして嫌だ、多くの情報を受け取れないから、とやめていく知人もいました。
それでも、やっぱり言葉によって励まされたり、自分にとって必要な情報も取り入れたいから、やめられないし、大事なことは、言葉に対する身体感覚や時間の流れを自分たちの中で、ちゃんと持っていたら大丈夫なんじゃないと話し合いました。
身体感覚は、身体が周囲の環境や刺激に対してどう反応するかに敏感であることや時間は自分たちの時間の流れを感じておくこと。
言葉と対峙した時の自分の気持ちに敏感であろうとすると言っても、すべての言葉に対してなんてとても出来ない気もしており、なるべくそうありたいという心持ちです。時間の感覚は、人それぞれですが、家へ遊びに来る友達に何が食べたいって聞いたら、二週間後ぐらいに、ずっと考えてたんだけど、グラタン食べたいっと返事がきました。
わりかしすぐに答えや返事を求めてしまう質なのですが、ずっとのずっとは、そのことばかりを考えていたのではないにせよ、自分の府に落ちるまで答えをすぐに出さない、ぽんとひらめいた時に返事を返す友だちの時間感覚が、とてもいいなぁと思いました。
言葉も時間も、自分のペースで、トトトッと歩けばいいし、言葉にたいする接し方が以前と比べて変わっても、言葉はちゃんと存在していて、言葉の持つ力は変わらず、自分たちがどう向き合うかなんだと語り合いました。
こぼれた言葉の一番伝えたいところ、そのありかが知りたくて、今日もまた言葉を探し、言葉を見つめています。
■なかがきみゆきさんって、どんな人?
なかがきみゆき
1980年大阪生まれ。2003年より、ラスとガキ女性二人によるほぼアカペラの唄うたいユニット「ばきりノす」で関西を中心に活動中。2012年に野外録音を中心に制作した1stアルバム「まほろば山の唄うたい」を発表。本作では環境音をあえて取り入れ、その場でしか作用しない偶然の重なり、声と場の混ざりあいのおもしろさを表現。唄うたいの他にイベントの企画などもしています。
http://www.bakirinosu.net/
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歌手
2014-04-15T06:36:00+09:00
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2014年3月号 木室陽一さんより、おてがみが届きました
前略
いま、島にいます。
特別な土地ではなく、
普通に道があり、家があり、
目の前は海で浜があり、
陸はすぐに森になっていて、
切り拓かれた斜面の畑には、みかんの樹がずらりと並んでいます。
「中島」という島です。
はじめはリゾート気分で、...
いま、島にいます。
特別な土地ではなく、
普通に道があり、家があり、
目の前は海で浜があり、
陸はすぐに森になっていて、
切り拓かれた斜面の畑には、みかんの樹がずらりと並んでいます。
「中島」という島です。
はじめはリゾート気分で、のんびりを味わいに立ち寄りました。
海で泳ぎ、お隣さんからいただいたお野菜を食べ。
夜には、別のお隣さんからいただいた、太刀魚と鯛のお刺身で乾杯。
お茶にお呼ばれしたり。
島の暮らしのお話しをうかがったり。
そうして、
なんでも、過疎と高齢化で、みかん畑を継ぐ人が年々減っているそうで。
「なんなら、みかん畑貸してやるぞ、好きにやってみぃ」
て話になりました。
「えー、そんなに簡単な話しのやりとりで決まってしまうなんてっ? やります!」
そんなんで、冬は収穫を手伝い、
今年から畑をお借りして、みかん作り始めました。
そこに、畑があるから、使っていいよ。
家も空いてるから、住みなさい。
お野菜、いっぱい出来たから、持ってっていいよ。
お魚とれたから、あげるよ。
そんな普通のやりとりで、毎日が進んでゆきます。
そんなに特別ではない、ごく当たり前の感覚。
いっぱいあるから、あげるね、っていう。
島で買うものは、お米とお酒だけでも、なんとか生きてゆける。
テーブル2つ分の野菜畑があれば、人は自分の食事はまかなえるそうです。
土地のもつ豊かさなのだなぁ。
ただし、移動には、お金がかかります。
島を松山市とつなぐフェリー「中島汽船」は一日5往復くらい。
片道870円。
松山市の港(高浜港もしくは三津浜港)に着いても、そこから市内への電車に乗ると400円くらい。
松山市駅前から、最短1時間半くらいで島に着ける距離なのに。
だから、かえって、島の豊かさは守られていたのか。
自由に使わせてもらっている畑から眺めると、
山肌に続くみかん畑の一部が、広くツタに絡まれているのが見えます。
使われなくなり、朽ちてゆく畑。
不思議と哀しい感慨は、ない。
山一面を覆っているみかんの樹を見ると、
僕はそら恐ろしさをおぼえたものです。
こんなに単一の作物が、山全体で生育するなんて。
見た目には見事だけれど、
作物の在り方として、共存を無視してるというか、何かを排除してるというか。
なので、
朽ちてゆく畑は、やり過ぎた事をもとに戻している様に見えて。
なんとなく、
それで、いいのだ。と思えてしまう。
でも、
そうして消えてゆく畑と共に、
その畑を造りあげてきた人々の営みも消えてしまう。
これには、僕は危機を感じます。
敗戦のショックから、すべてをかなぐり捨てて生きてきた、僕の両親そして祖父母の世代。
そこで作られてきたもの、失われてきたもの、
それらを僕らは、まだキチンと受け継いでいない。
断絶があり、無関心があり、そうせざるを得ないショックが、まだ戦争の時代から続いていて、
そのせいで、
アホな原発なんかを止める事が出来てない。
僕の使っているみかん畑は、
お隣のおじいちゃんが、まだ、結婚をする前から、
自分で石垣を組んで、
苗木を育てて、
モノラックを走らせ、
結婚してからは二人で、
台風の折には防風林を植えて、
肩が上がらなくなったので、収穫しやすいように、低く樹を剪定し、
そうして、数年前、伴侶を亡くされて、
おひとりでは、斜面の作業も厳しいから、ということで、
「なんなら、みかん畑やらんか?」
という話しになったのです。
このおじいちゃんから、
この畑から、
生まれてきたもの、失ってきたもの、
まだまだ学びたいと思ってます。
みかん畑は潰してでも、
ひとの営みは受け継いでゆきたい。
あ、うそやな。
みかん。美味しく作りたいです。
実は、おじいちゃんにはまだ内緒で、農薬とか肥料とか減らしたりしてます。
ズボラで怠惰なフリして、畑の草とかを出来るだけ排除しないようにしてます。
見た目は悪いかもだけど、樹のチカラを信じて、美味しい実がなるもんやと、信じてます。
それで、
この話しを、きちんとおじいちゃんに伝えられるように、
これから、
もっともっと、話しを聴きにいけたらな。
そこ、頑張らな、やな。
て思いながら、畑の様子見てきました。
ずっと8月は日照り続きだったのが、ほぼ一ヶ月ぶりの雨で、一安心。
その数日前、おじいちゃんと「雨欲しいですね〜」と声をかけたままで。今日はお休みのご様子。
まずは、一安心。
秋と夏の雲が一緒になったみたいなのが、海いっぱいに広がり、陽が斜めに差し込んで、波が輝いて、涼しい、
ほんとに気持ちのよい風が吹いてきて、
そんな普通の夕暮れ。
みなさまも、日々時々が豊かでありますように。
あ、みかん出来たら、ぜひ食べてみて下さいね〜!
お届けしたいです、送れるといいな。
まずは、近況のご報告まで。
ではでは。
草々
■木室陽一さんって、どんな人?
福岡県出身。邦正美、雑賀淑子、ケイタケイ等に創作、バレエ、即興を学ぶ。現在、ケイタケイ'sムービングアースオリエントスフィアの主要メンバーとして国内外で活躍中。バレエ、現代舞踊などへの客演も多数。 2012年より、愛媛の離島・中島にてみかん作りを開始する。土と共に生まれる舞踊を探求しながら、劇場にとらわれない、のびのびした表現を展開している。
ブログ「きむろよういち おどるおどる 」
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舞踊家
2014-03-15T00:00:00+09:00
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2014年2月号 フェード・ハシルックさんより、おてがみが届きました
外から見た日本
蘭の会の皆様、初めまして。自分はただの学生です、というと普通に聞こえるのですが、実は普通ではないところは留学生というところだけだったりしてます。
手紙を書くとなったときに、「え?!」っていう気持ちでした。大学院で勉強している割には本...
蘭の会の皆様、初めまして。自分はただの学生です、というと普通に聞こえるのですが、実は普通ではないところは留学生というところだけだったりしてます。
手紙を書くとなったときに、「え?!」っていう気持ちでした。大学院で勉強している割には本をあんまり読んでなく、文章も秀逸とはいえない。ましてや、外国語の日本語で手紙を書くなんて。それでも、書くと決めた以上、この手紙ならぬ手紙を読んでいただけたら嬉しいです。
日本に来たのがおおよそ四年前のことでした。夢と希望あふれて、初めての海外ということもあって、わくわくしてたまらなかった気分はいまでも覚えてます。来る前から関西が好きで、何よりも関西弁を好きでした。
何気に道端で集まって世間話しているおばちゃんグループが好き。喋ってる内容は時に聞きに堪えないものでもあるが、けどあの雰囲気が外国人の僕からするとすごく日本っぽくて、平和な気持ちになれます。
道で歩いてるときはいつも耳を傾けるようにしてます、通りすがりの喋ってることや、商店街の商売音や街中のビラ配りの挨拶、徐々に外国人の不慣れな日本語、もしくは異郷でも関係なしに使う母国語なども頭の中で風景として構築していきます。
すばらしい、先進国って感じですね。何もかもが調和してて、問題があってもすぐ解決に向けるよう、この国の人たちががんばっていると、最初はそう思っていました。四年もいれば、いろいろと見れたりする。見たくないものとかも。
最初驚いたのが大阪の新世界だった。昼賑やかで活気あふれているが、夜の通天閣を撮影して帰るとき、また別の姿の新世界も目撃した。昼に親と子供たちが動物を見に来ている楽しいところが、夜になるとホームレスのたまり場となって、あっちこっちで寝転んでる姿をみて、初めて思いました。「この国の人であっても、必ず幸せになれるとは限らないと」。
恥かしいながら、出身の国は多民族で貧富の差が激しい国です。少数民族で比較的に裕福な地域ではないところで育った自分はいままで多く見てきました、老人は路頭に迷い、仕事ができなくて他人の恩恵で生活していく姿を。そこの部分は日本とあんまりかわりがありませんでした。
その次、さらに次、生活の中で直面した日本社会の問題点、具体的にもう覚えていません。夜の堺筋を通ると、外国人労働者の声がいろいろと耳に入る。そのなか合法労働者は幾らいるかはわかりませんが、不法滞在だとしても、時々、その者たちにとっては、日本という国はどんなものなのか気になります。いろんな思いをした自分の母国を離れ、憧れの日本に来て、なにを見えたか、なにが変わったとか。
もちろん、人間がいれば、日本のみならず問題はどこにでも存在する。嬉しいことに、問題に向けて解決しようとしている人たちがいます。政府の力だけを頼りにするのではなく、自分たちでなにか活動をしてる人たち。
大学院に入ったから、そんな人たちに沢山であった。みんな真剣に何かを解決するために、大学院にて理論知識積む人ばっかりでした。さすがだなと思いながら、じぶんとの差を思い知らされた。
「苦しんでる人はあなただけではない、問題を解決しようと悩んでる人も君だけではない」
いまは微力かもしれません、いまはまだ現状変えられないかもしれません、我々に課せられた仕事は「流れ」を作ることです。「流れ」が絶えることはなければ、いつか必ず、後の人たちのためにもそうするべきだと思いました。
周りから「日本の政治が終わってる」との声がしばしば、実は政治にたいした関心もなければ、政治で日本が変えるとも思いません。日本は変えるのは、自分たちでしかありません。
同じように、日本の「流れ」を世界に蔓延させることができれば、世界はもっといいものとなるのであろう。
堅苦しくてごめんなさい。面白く書きたかったけど、そこどうやらまだ関西に染まってないみたいです。
■Hoeiid hashilkhuuフェード・ハシルックさんって、どんな人?
1989生まれ、中国内モンゴル族
大阪経済法科大学経済学部卒業
現在大阪市立大学アジア都市文化学博士前期課程専攻
モンゴル語、中国語など五ヶ国語堪能で、積極的に国際交流やイベントに参加している
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留学生
2014-02-15T00:00:00+09:00
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2014年1月号 松本典子さんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさまはじめまして。
大阪でヨガのインストラクターをやっております松本典子と申します。
でも、ワタシのコトを少しだけ知っている人はワタシが「ヨガのインストラクターをやっている。」
というと、びっくりされます。
「まつこのへや」というトークシ...
大阪でヨガのインストラクターをやっております松本典子と申します。
でも、ワタシのコトを少しだけ知っている人はワタシが「ヨガのインストラクターをやっている。」
というと、びっくりされます。
「まつこのへや」というトークショーを主催したり、タロット占いをしたり、やたらアート系の集まりにカオを出したり、ヨガ以外の活動をたくさんしているからかもしれません。
今では、ヨガ以外の活動でヨガかかすんでいるワタシなのですが、30歳から33歳くらいの間は、「ヨガに殺されるんちゃうか?」と思うくらいヨガにまみれておりました。
30歳で突如ヨガのインストラクターを目指してからは、1日に5レッスンをうけ、帰りの電車で鼻血をだすこともあるくらい。
はれてヨガのインストラクターになってからは、そのお話力(ヨガ力ではないのがミソです。)をかわれてヨガの先生のための指導を任せていただき、11時から21時までレッスンをし、600円の高級栄養ドリンクを飲みながらヨガの指導をしていたこともあります。
そんなヨガばっかりしていた生活でふと、、、
「ふざけたい!」というヨクボーがわいてきました。
その頃のワタシはヨガを神聖化していて、
「ヨガ=聖なるもの」に偏りすぎていたので、
「ふざける=俗なるもの」でバランスをとりたかったのだと思います。
で、
ついつい友人と漫才コンビを結成し「M−1ぐらんぷり」という漫才コンテストに応募するのですが、、、
アナタはなぜ詩をつくりますか?
理由なんてありませんか?
ただただ、詩をつくりたいですか?
ついついコトバがあふれてきますか?
自分と向かい合うための作業ですか?
まわりの人に伝えたいコトがあるからですか?
ソレは詩作でお答えします!でしょうか?
ワタシはなんだかよくわからないまま漫才にひかれ、「M−1」に出場し、1回戦で落ちたのですが、そのことでいろんな出会いがあり今にいたります。
そのどれが欠けていても今のワタシにたどり着かないと思うので、
「なんだかわからないけど、やっときたいコト」はあなどれないな〜
と思います。
「気のせい」の中にはたくさんの宝物がつまってますよね〜!
■松本典子さんって、どんな人?
1976年大阪府堺市生まれ
いろいろやってるヨガの先生です。
「笑劇団ショートカッツ」という劇団のプロデューサーでもあります。
「ヨガ」の本来の意味である「結ぶ」を体得するべく、
「ココロとカラダ」「ヒトとヒト」「ヒトと場所」を「結ぶ」コトをライフワークにしている。
職業はコロコロかわれど、ココロはいつもヨギーニ
ブログ
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ヨガ・インストラクター
2014-01-15T00:00:00+09:00
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2013年12月号 にゃき(山村礼子)さんより、おてがみが届きました
こんにちはー。にゃきです^^
初めましてですね。女流詩人の会へのお手紙を。素敵な依頼です。
幼い頃から言葉が好きで、褒められるのが嬉しくってたくさんの詩を書いていたことを思い出しました。
ごく自然な形でそれを思い出すために私に用意された流れかしら?って...
初めましてですね。女流詩人の会へのお手紙を。素敵な依頼です。
幼い頃から言葉が好きで、褒められるのが嬉しくってたくさんの詩を書いていたことを思い出しました。
ごく自然な形でそれを思い出すために私に用意された流れかしら?って勝手に感動しています。
にゃきって変な名前なので、よく言われを聞かれます。
解説するとこう。漢字は「猫鬼」。猫=にゃんこを苛める話を聞いて鬼のように怒ったから、にゃんこ鬼=にゃき。
小さい可愛い動物が昔から大好きで、今はウサギのはねこちゃんと暮らしています。
はねこちゃんは漢字をつけると「跳ね子ちゃん」。ウサギは跳ねるでしょう?
ところがはねこちゃんはコロコロどすどすしていて全く名前負けです。
でも彼女の存在は、あたしに限りないメルヘンをくれます。世界で1番素晴らしい白とグレイ!!
そして無条件に捧げたい愛の象徴でもあります。
見ているだけで笑いが湧いてくる。感情が波打つ。その仕草の一つひとつが価値を持つ。
あたしはこれらを、母性だと感じます。
あたしは母になったことがないの。3月5日で42才ですが。
優しいパートナーがいるので、周りはまだ遅くないなんて無責任なことを言います。
でもきっともう生まないでしょう。ウサギくらいでいい。はねこちゃんでいい。
関わるすべての方がいるからいい。
家族や家庭ってもんが満足いく関わりであった経験がないのですが、我ながら溢れんばかりの愛を持っていると思います。
あたしはお母さんみたいでいたい。関わる人たちをお母さんみたく愛したい。
生まない者にも母性はあるのですね。あたしはそれを体現しています。
そして愛していると言いたい。表現したい。世界は美しく存在には価値がある。
あたしは昔のロックスターみたいに愛と平和を掲げます。
照れずに愛を表現すること。それそのものが詩ではないかしら?
あたしは人生を詩の彩りを感じながら生きています。皆様はどうかしら?
女流詩人の集う会へのエール。百も承知と存じますが、愛を表現なさってくださいませ。
すべての存在が自己の持ち合わせている愛を表現して生きていけるように祈っています。
愛を表現する仕事で食っていきたい、まだ惑うにゃきより。
読んでくださってありがとうございます。感謝!!
山村(にゃき)礼子っ★
■にゃきさんって、どんな人?
にゃきプロフィール
貧困と暴力、挫折感。絶望と孤独に肩を付き合わせて生きてきた。だけど親友の名は変わらず「希望」だった。
そうか、だからまだ生きてんだ。
15で両親が死に、釜ヶ崎で自立。生計は夜の街で。
6年をともにした男は一度たりとも働かなかった。別れてからは薬物依存に。そして拘置所行き。
執行猶予がついてから、精神病院、援護寮。少し人を信じはじめ、思い直して定時制高校に。
愚痴の多い人生だったから、人のためになる仕事をと開いた福祉の雑誌の一文に撃ち抜かれる!!
憲法第25条「すべての国民は健全かつ文化的な生活を営む権利を有する」
すべての存在に食って寝る以上の楽しみをと模索中。まだ惑う42才。
NPO法人SEAN(サポート部門「とんがらし」教育部門G-Free)/NPO法人スローワーク協会/ニュースタート関西(引きこもり支援)/社会福祉法人つながり(知的障がい者ガイドヘルパー
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2013-12-15T00:00:00+09:00
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2013年11月号 冠 那菜奈(かんむり ななな)さんより、おてがみが届きました
「現代の冠職人になる」
蘭の会の皆様、初めましてこんにちは。
東京で主に活動しております、メディエーターの冠 那菜奈と申します。
メディエーターってなんぞや?と思われる方も多いかと思います。私もまさか自分がそんな肩書きを名乗って仕事をするようになるな...
蘭の会の皆様、初めましてこんにちは。
東京で主に活動しております、メディエーターの冠 那菜奈と申します。
メディエーターってなんぞや?と思われる方も多いかと思います。私もまさか自分がそんな肩書きを名乗って仕事をするようになるなんて、数年前までこれっぽっちも思っていなかったんです。不思議なものですよね。
まず、「メディエーター」という言葉自体の意味ですが、madiate=仲介する、媒介するという意味からきており、直訳では仲介者、媒介者ということになります。簡単に言えば、AさんとBさんをより良い状態で引き合わせる、つなぎ合わせる人でしょうか。
なぜ、自分がこの言葉を考え出したかというと、自分の中にあったいくつかの問題意識や興味が偶然重なり合って、身をもって必死になって考えたのがきっかけです。SNSなどの個人メディアが出始め、メディアという言葉がより身近になったことも関係しているでしょう。少し前までは、メディアという言葉だけ聞くとテレビや新聞などのマスメディアを思い浮かべることがほとんどでした。もちろん、テレビや新聞の情報は受け取っていましたが、その業界に進みたい!と思うことは特にありませんでした。
小さい頃からずっと思っていたのは、「人の感情を動かすことができる(幅広い意味での)アートという分野はなんだかわからないけどすごい。それがあると人は生きているっていうことをちゃんと感じられるらしい。それで笑顔になれる人が増えるのであれば、自分はそこに携わっていたい。」ということでした。バブル崩壊後に物心がついた私にとっては、元気がない社会を元気にしていたのはアートだと特に根拠があったわけではないのですが、本能でそう思っていました。
一つでも多くそういう場に立ち会ってみたくて、もともとの雑食気質も相まって、面白い人がいると聞けばイベントのテーマは関係なしに、色んなところに顔を出すのが好きで、そこで見てきたものや感じたことを人に話すのも好きでした。
今思えば、その昔まだ文明が発達していなかった頃は、そうやってどこかに行って面白いヒトモノコトを見てきた人が仲間にそれを話し伝えて情報が行き来していたのだなぁと改めて思うわけです。その人自体がメディアであり、メディエーターである。
現代は技術の発展と共に、個人メディアを使って誰でも好きな情報を簡単に発信できるようになりました。そこに、色んな分野や現場をウロウロしていた自分の言わばライフワークが相乗効果となり、自分自身が媒介者となって情報を発信・つなげることができるようになったのです。
でもそれは、自分の中ではあくまでも
「人の心が動く瞬間を見たい、想像しなかったことが起きていくのを見たい」といった欲求に素直になった結果です。
ですから、「アウトプットの形はどんな形でもいい、むしろその人その人によってカスタマイズしていけるようになりたい」そう思っています。
ここで自分の名前の話を最後にしたいと思うのですが、私の「冠(かんむり)」という苗字は起源を辿ると、その昔大陸から渡ってきた冠職人に端を発します。大陸から冠が持ち込まれた時は、まだ日本にはその様な概念はなかったのでしょう。そこから高貴な人、偉い人にその称号を表すものとして冠がつくられたそうです。そこから先祖代々偉い人のお膝元で職人として冠をつくり続けていました。もちろん、明治以降多くの冠を作る必要がなくなってしまったのと、子孫を多く残そうとしなくなってしまったので、その技術や子孫は引き継がれていないのが現状です。小さい頃はあまりにも珍しすぎる自分の名前があまり好きではなかったのですが、大人になってその心意気は受け継いでいるかもしれないと、ふと思ったのです。
冠は帽子の様に何か便利な機能があるわけではありません。人にかぶってもらって初めて冠は意味を成す、その人をより美しく、かっこ良く見せるのが冠です。
私が現代の冠職人だったとしたら、ただ物としての冠を作るのではなく、その人がより良くなるために色んな手を尽くすだろうと思ったのです。だから、様々なメディアを駆使してヒトモノコトをつなぎ合わせ、その人の笑顔や違った一面を創るというのが私の使命なのです。
まだまだ、メディエーターという存在でいるためにはたくさんの修行が必要なのですが、自分らしくこの肩書きを育てて行きたいと思っています。
最後まで読んで頂きましてありがとうございました。
■冠 那菜奈さんって、どんな人?
プロフィール
冠 那菜奈(かんむり ななな)メディエーター
1987年東京都生まれ。武蔵野美術大学芸術文化学科2011年卒業。アートマネジメント専攻。卒業後、フリーランスで多様な活動を展開。現在、としまアートステーション構想事務局長、アートバラエティ番組「アーホ!」制作、住み開きシェアハウス「ぐるっこのいえ」をやってます。
様々なメディアを駆使し、ヒト・モノ・コトをつないでいくメディエーターになることを目指し、奮闘中。
距離や時間、分野を越えてリアルでクリエイティブな繋がりを創っていきます。
得意技はしゃべる、食べる、笑う、歌う、踊る!
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メディエーター
2013-11-15T00:00:00+09:00
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2013年10月号 遠藤智昭さんより、おてがみが届きました
みなさまへ
はじめまして、写真家の遠藤と申します。
今日は簡単な自己紹介といま私がしていることについてお話ししたいと思います。
私が写真を始めたのは30代半ばで、写真家としてはかなり遅いスタートでした。それまでは大学のまわりをうろうろしていまして、大...
はじめまして、写真家の遠藤と申します。
今日は簡単な自己紹介といま私がしていることについてお話ししたいと思います。
私が写真を始めたのは30代半ばで、写真家としてはかなり遅いスタートでした。それまでは大学のまわりをうろうろしていまして、大学院だけで11年間。学部を合わせると15年。これに博士論文提出有資格者指導という3年間も合わせると18年間も大学に通っていました。ですからてっきりそのまま大学の先生か予備校の講師にでもなるだろうと思っていたら、うっかり写真家になってしまいました。
「大学でなにを専門にしていたの?」とよく聞かれるのですがこれが一番答えに困る質問です。所属していたところは言語機能論講座といいます。ここは言語の働きについてのあらゆることを超領域的に研究するということになっていました。いわゆる学際領域というやつです。私自身はそこで言語論と社会思想や政治思想の接点をポストモダンという観点から研究していました。たとえば民主主義における合意の問題とか、人間がこの世界に現れる方法などが含まれます。と言っても実際に私が未完の博士論文でとりくんでいたのは政治的判断力という問題で、これはまた違ったアプローチで美学論の方に隣接しているのですが、まぁ、そんな感じです。
うっかりといいましたが、一般論として言えば40歳近くになって職業として写真の世界に飛び込むのはかなり勇気がいります。でも私の場合は初めて写真の世界を知った時自分の中でカチッと音がして小さな閃光が走りました。もう少し違った言い方をすればそれまでに得てきた知識や関心、自分の特性などいろいろなものが写真と違和感なくつながってしっくりくる感じだったのです。選んだというより出会ったということですね。大抵の人生の転換点はそういうものだと思います。もちろんそんなことは人生で何度もあることではないので残りの人生は写真と共に生きて行くつもりです。
学問と写真はかなり隔たりがあります。ある意味では対極的と言ってもいいと思います。でもそこにこそ私は惹かれました。私が学問に辟易していたのはそれが常に対立を生むからです。それも端からみるとほとんど無意味と言ってよいほど些細な違いで対立しています。それは論理というものが持つ内在的な性質で、論理的な言語を扱う以上こうした対立は避けがたいことかもしれません。しかしそうは言っても目先の細かな差異に目を奪われ、その議論の出発点となった共通の問題意識を見失うことがあまりに多すぎるように思いました。だから私は写真家になってからは出来事の出発点となるイメージを記録することを心がけています。
たとえばフクシマ。2011年3月11日、巨大な地震と津波が引き金となって東京電力福島第一原子力発電所が爆発し、膨大な数の被災者を生み出しました。これが出発点です。あれから2年以上経ち、原発に反対する人たちの間にも放射能汚染からの避難者を支援する人たちの間にも様々な軋轢が生まれ、一部は対立関係に陥っていると聞きます。でもこうした人たちはもともと同じ方向を向いていた人たちです。それにも関わらず我々はなかなかこうした目先の対立を逃れることが出来ません。そうした時みんなが戻れる端的なイメージ、共有できる感覚を提供することが写真の役割だと思っています。
いま私は野宿者襲撃問題のプロジェクトに取り組んでいます。昨年(2012年)10月、大阪梅田で一人の野宿生活者(ホームレス)が5人に襲われ死亡するという事件がありました。このように殺人事件にまで至るケースはさすがにそれほど多くはありませんが、野宿者に対して物を投げつけたり、蹴っ飛ばしたり、傘で刺したり、火のついたタバコを投げ込んだりする事例は日常的に発生しています。そしてその背景には根深い偏見と差別意識があります。野宿生活者にはなにをしても構わないという漠然とした合意がこの社会にはあるのです。でも、あたりまえのことですが、野宿している方々にはそれぞれ事情があり、それまでの人生があります。そうした個々人の生きてきた道のりと現在置かれている状況が具体的にイメージできた時、野宿生活者は不気味で迷惑な黒い固まりではなくひとりの人間として立ち現れると私は思っています。ここが出発点です。これを記録し、そしてこれを出来るだけ多くの人がイメージとして共有できるようにし、そしてそこからこの社会を覆っている空気あるいは世論を少しだけ動かすこと、このプロジェクトはそういうことを目標としています。
写真にできることはまだある、と私は信じているのです。
■遠藤智昭さんって、どんな人?
1970年、愛知県生まれ。神奈川県在住。写真家
東北大学大学院国際文化研究科博士課程満期退学(修士/国際文化)
写美フォトドキュメンタリー・ワークショップ(三期生)修了
東京ドキュメンタリーフォトグラフィーワークショップ(一期生)修了
2008年、森山大道展公募論文(東京都写真美術館主催)入選
2012年の年末から翌年始めにかけて、いわゆる「中国残留孤児」の現在を記録した写真展「帰国者〜中国に残された子どもたちの今」を大阪の3会場で開催
2013年5月現在、大阪市西成区のココルームに長期滞在して野宿者襲撃問題をテーマにした撮影をすすめている。
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写真家
2013-10-14T22:35:00+09:00
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2013年9月号 小手川瑚春さんより、おてがみが届きました
猫世界からの手紙
こんにちは!猫世界でのガイドをしています、猫野みいこです。とはいっても人猫ですけどね。私が猫世界について、みなさんに教えます。
まず、最初に猫世界の私たちの名前について、説明します。
名字は皆、「猫野」です。名前は村の長老様につけて...
こんにちは!猫世界でのガイドをしています、猫野みいこです。とはいっても人猫ですけどね。私が猫世界について、みなさんに教えます。
まず、最初に猫世界の私たちの名前について、説明します。
名字は皆、「猫野」です。名前は村の長老様につけてもらうのです。長老様の事を私たちは、「ねこじいさま」とよんでいます。ねこじいさまは猫魔法使いなのです。こんど、100歳になるので、こっそり盛大なパーティーを計画中です。
次は、猫世界の素敵な名産品を紹介します。
1つ目はニャーウィンと、メンニェルが、考えた「にゃんにゃん激ウマ!かつおぶし」です。2つ目は、日本でも売っている、缶詰です。[猫世界の独特風味のある、にゃん缶]です。3つ目は、にゅりーがいろいろなものを配合してつくった、「不思議な味!?配合ミルク」です。
次は、素敵な場所を紹介します。
一つ目の場所は、「みんなでいこう!ランランピクニック場」です。そこには、公園もあります。もちろんあそべますよ〜。
二つ目は、「ドッキドキ海の旅、海の中を見てみよう潜水艦乗り場はこちらです」ここでは、潜水艦に乗る事が出来ます。海の中も楽しいですよ!!!!!
3つ目は、「猫魔法使いになってみない?魔法区への入り口」です。あなたも魔法使いになってみませんか?
次は私の作ったお話を聞いてください
アリの冒険
あるところに冒険家のアリさんがいました。今は人間界にいます。今日も元気に、どこかに行こうとしています。「さあ、今日も冒険をしよう。」といって歩き始めました。
・終わり・
(アリってちっさいからアリの冒険は私たちだと大した事ないと思う。だからこうしました。)
えっと、次はなんだっけ?えーっとえーっとそうだ!次は夢猫世界について、です。夢猫世界というのは、夢から行ける猫世界の事です。私はフツーの猫世界の担当なので、ワープで猫世界まで来てください。よろしくお願いします。
(ペコリ)
最後は職業の話です。
1つ目は、私のような、ガイドです。ガイドにも二種類あって、猫世界がわと、夢猫世界がわがあります。
二つ目は、お店の仕事です。お店は空いている場所ならどこにでも建てられます。
三つ目は、簡単にいえば、スパイです。人間界にいる猫は、勉強するためか、観光か、スパイです。あ、けどスパイといっても人間界の事を参考にするためです。大体職業はこんな感じです。
これで終わりです。では、猫世界で会いましょう。
ではさよーならー。またね。
■小手川瑚春さんって、どんな人?
わたしは本名は瑚春です。ま、いくつかあだながあるんだけどね。
1つめのあだなは猫野みいこ。
2つ目、小川春子
3つ目、にゃんこ。4つ目、にゃにゃ。
あとはこちら↓
わたしの仕事は、ねこつうしんとねこまんがをつくること。
すきなことははい句を作ることと、かいとうルパンの本をよむこと。
小学4年生。
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自由人
2013-09-15T00:00:00+09:00
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2013年8月号 松本恵実さんより、おてがみが届きました
蘭の会の皆様、はじめまして
西成で、「まちづくりコーディネーター」と称して、「地域活動」に勤しんでいる松本恵実と申します。
「まちづくりコーディネーター」とか「地域活動」とか、あまり聞きなじみのない言葉が並んだことと思います。
この言葉は、...
西成で、「まちづくりコーディネーター」と称して、「地域活動」に勤しんでいる松本恵実と申します。
「まちづくりコーディネーター」とか「地域活動」とか、あまり聞きなじみのない言葉が並んだことと思います。
この言葉は、私の手作り?なのです。「太陽の下に新しい事はない」、、といいますので、もしかしたら、もうあるのかもしれないですけれど、私は私流にこの言葉を使っております。
< 私は、なにをしているのか、、、>
「みんな仲よく」、「地域を家族のように」というのが最終目標です。
、、といっても、 急に、「家族のように」、、なんて、うまく行くわけがないので、いまは、地域で顔見知りの人が増えるようにと、イベントを開いたり、地域のブログを書いたり、商店街の掲示板に町のニュースを掲示させてもらったりしているわけです。
長期戦です。
で、いまのところ、手弁当でしている活動です。
なぜこんな事をしているのか、、については、私の人生を少しお話しさせていただいたほうがいいかと思いますので、書いてみます。
、、ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、、
早いもので、生まれて50年、西成に来てからでも、4年が経ちました。
西成に来る前は、ロサンジェルスに24年暮らしていて、最後の十数年は鍼灸師をしていたのです。鍼灸の仕事はとても面白かったし、ロサンジェルスも大好きでした。患者さんも周囲の人にも恵まれておりました。
けれども、どういうわけか心の健康を崩しまして、2009年に日本に戻って参りました。
最初は実家においてもらったのですけれども、元気になってきたので、実家近くの天下茶屋のアパートに移り住むことになりました。
天下茶屋というのは、去年あたりから全国的に有名になった、西成区にあります。
実家は西成区に隣接する阿倍野区にあり、私が住む天下茶屋のアパートとは、自転車で数分の距離なのですが、それでも西成区と阿倍野区では違いがあるように思いました。
というのも、
引っ越しした翌日、朝のゴミだしに外に出ると、通りがかりの二人組のおばちゃんが、「面白い服着てるねぇ、、!」と、私のエスニック風のパンツを見て笑顔で語りかけて来はる(きはる)のです。(きはる とは、大阪弁の敬語で、「来る」と「いらっしゃる」の間くらいの言葉です)
とてもフレンドリーなのです。
実をいうと、ロサンジェルスでは、知らない人同士であっても、タイミングが合えば、気さくに話をするのが普通でしたので、日本に帰ってから両親以外の人とあまり喋る機会がなかった私は、この一件で、忽ちこの町が大好きになりました。
「西成フレンドリー体験」は、この後も途切れることなく続きました。
それで、私は、日本に帰ってから感じていた、「無縁社会にまつわる問題」が、この町から解いていけるのではないか?という希望を抱いたのです。
(記憶力のいい方は、このへんで、(あれ?この人、鍼灸師でなかったっけ?)と思い出されたのではないでしょうか?)
そうです、私はカリフォルニア州の免許を持つ鍼灸師でした。
日本の鍼灸院では、カーテンで仕切られただけの診療室も多いようですが、カリフォルニアでは鍼灸治療は概ね個室で行われます。
それで、患者さんとの会話もプライバシーを気にすることなく、いろいろなお話をすることになります。
そんな中で気づいたのが、アメリカ社会の「暮らしの脆弱さ」でした。
家族のために一所懸命に働いてきた人が、年老いて車の運転が難しくなると、ホームと呼ばれる老人施設に入ることになり、家族との面会も年に数回、、
夫婦ふたりで子どもを育てているために、子どもが人間関係の諸々を教わることなく成長してしまい、ちょっとした諍いでも、すぐに弁護士や代理人が必要になってくる、、
シングルペアレントで子育てをしている人も大変で、親だけが子どもに注意する形になり、こどもが親に反論できるような年齢になると、親対子どもの対決になる、、
(本来は子どもは社会のルールを回りの大人全体(社会)から教わるべきなのだと思います)、、
そんなことを見聞きしているうちに、鍼灸師ではありますが、世の中の家族のありようや社会のありようについて考えるようになっていたのです。
鍼灸師として日本で開業するためには日本の国家免許が必要で、そのためには鍼灸学校に行き直さねばならず、費用も5,6百万円はかかるという現実も、鍼灸師に戻るという選択肢から私を遠ざけました。
「無縁社会」という言葉が流行語になった日本の中で、このままいけば、自分の番が来たときに、高齢者がいまよりも もっと生きにくい世の中になっているのではないかしら?
そんな不安もありました。
自分になにかできることはないかと思い、
まずは地域社会のことを知ろう、
知ったなかから、なにかできることがあるはず、、
そんな気持ちで「地域活動」を始めたわけです。
当初の計画では、地域のニーズを知っていくなかでビジネスの種が見つかり起業、
生活できるくらいのお金が回ればいいな〜ということでしたが、
まだそこにも全然至っておらなくて、「本業家事手伝い」とアルバイトに勤しみながら、
小学校の評議委員や
いきいき放課後事業(小学校で放課後に児童を預かる)の指導員、
『人情マガジンにしなり』編集スタッフ、
西成区政会議の公募委員、
地域のまちづくり協議会の発起人、
などなど、、をさせてもらって地域の事を学んでおります。
それでも、今月とうとう、「地域の家」計画を少し前にすすめ、
西成区玉出に物件(長屋)を借りる事になりました。
地域の人誰もが寄り集まることができ、お茶を飲める場所、情報発信をして、イベントなんかもできる場所、、、
そう! 「ココルーム(*1)の玉出版」、、みたいなことができないか、と思っております。
みなさまも、ぜひ、ご近所のことに関心を向けてみてくださいね。
まずは、笑顔で話をしてみてください。
普通の人が普通に暮らしているだけ、、と思っている近所の人や場所からでも、
案外、面白いことが見つかるかもしれませんよ、、!!
松本恵実
*1 ココルーム http://www.cocoroom.org/
■松本恵実さんって、どんな人?
大阪生まれ。1985年日本大学芸術学部文芸学科卒業の年に渡米 。
Samra University of Oriental Mediceine 卒業後、加州鍼灸師免許取得。
2009年帰国、西成に居住。銭湯文化サポーター's 会員。今年50歳になりました。
ブログ「満々舎流 」、「玉出なうす 」
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地域活動家
2013-08-15T00:00:00+09:00
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2013年7月号 増田伸夫さんより、おてがみが届きました
前略.
先日は白玉あんみつ御馳走様でした。
桜を見ながら歩きづめだったせいもあるかもですが、とても美味しかったです。昔ながらの甘味処、といった雰囲気のある素敵なお店を教えてくださって感謝しています。
ただ…ゆっくり話が出来なくて申し訳ありませんでした...
先日は白玉あんみつ御馳走様でした。
桜を見ながら歩きづめだったせいもあるかもですが、とても美味しかったです。昔ながらの甘味処、といった雰囲気のある素敵なお店を教えてくださって感謝しています。
ただ…ゆっくり話が出来なくて申し訳ありませんでした。
私達が席に着いて話をし始めてから席を立つまで、両隣のおばちゃん達から、全力で興味津々!的オーラをずぅっと浴びまくっていたのに気付きました?
彼女達に茶飲み話のネタを提供する義理は無いので、早々に切り上げたのですが、ホントのとこは、もう少し私もゆっくりしていたかったんですよ。
「私達はあなた達に対して一体何をすればいい?」
即座に返事が出来なかったのは、そんな問いがあなたの口から出たこと、そのことがちょっと切なく感じてしまったから。
考えすぎかもしれないですが、お互いの間に見えない仕切が出来てしまったのかなあ? なんて思ってしまいました。
「特別なことは何もしなくてもいい。たまに気にかけてくれれば。
それだけでいい」
気を遣ったわけでもなんでもなくて、これが私の本音です。お互いが会えた時に、普通に食事をしたり、街歩きをしたり、酒を呑んでくだらない話で盛り上がったり。。。そんな当たり前のことを当たり前にできる、それが私が望むことです。
福島に遊びに来てくれるのは大歓迎ですよ〜。パタパタの軽自動車で良ければあちこち案内します(笑)けれど、、、ためらいや迷いがあるのなら頑張って来ようとしなくていい。なんていうと観光業に関わる人達がイヤな顔をしてしまうかもしれないね。でもそのときはこちらから出向けばいいだけだから。
あくまで私個人の考えですが、立場や環境の違いはあれど、都会にいても被災地にいても、日常生活そのものは変わらないはず。
長々と乱文を連ねてしまい申し訳ありません。
紅葉の季節にでも
またお会いしましょう。
お元気で!
■増田伸夫さんって、どんな人?
昭和43年福島県生まれ。
高校卒業後職を転々とし、現在は看板店に勤務。
2009年に「いわきぼうけん映画祭」の企画・立案をする。
震災後、地元紙に能天気な随想を定期連載し、
〆切に追われるという貴重な体験をする。
妻とその両親と長男・次男の6人家族だが
いまだ放浪癖が抜けずにいる。
http://ibff.jp
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自由人
2013-07-15T00:00:00+09:00
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2013年6月号 杉本恭子さんより、おてがみが届きました
みなさまへ
「今度、ウェブで手紙を書くことになったよ」と言うと、となりにいた彼は「紙に書かないのに手紙と呼ぶのはおかしい」と異議をとなえました。そこで、「今日、二通の手紙を出したよ」と返事をしたら、彼はそれ以上何も言わないでいつもの静寂に帰って...
「今度、ウェブで手紙を書くことになったよ」と言うと、となりにいた彼は「紙に書かないのに手紙と呼ぶのはおかしい」と異議をとなえました。そこで、「今日、二通の手紙を出したよ」と返事をしたら、彼はそれ以上何も言わないでいつもの静寂に帰っていきました。
そう、その日は二通の手紙を出したのです。
一通は、八重桜のトンネルを見上げながら娘を抱いて歩いた友だちがくれたはがきへの返事。わたしは、そのはがきをハナミズキが咲きはじめた坂道を下りながら読みました。手のひらの上に、ひかりに包まれる家族の風景が立ちあがってくるのを感じながら。
もう一通は、もうこの世にいない先生に宛てた手紙でした。大学時代に出会って、たくさんのことを教わった先生。年賀状の返事が来ないので心配していたのです。すると、桜が満開のころに奥さまから「先生はお返事を書けなくなってしまいました」と代筆のようなはがきが届いたのでした。
年賀状の返事がこないことに胸騒ぎがしたのに、どうして会いにいかなかったんだろう?机に置いたはがきを前に自責の念にじりじりするばかり。奥さまへの返事も書けず、葉桜の季節を迎えていました。
「先生に書くつもりで、奥さまへの返事を書こう」
ふっとそんな気持ちが動いたのは、先の友だちへの返事を書いているときでした。紙に書く手紙は手に触れられるけれど、手ではことばに触れられません。ことばは、こころで触れるもの。こころは、かたちを持たないもの。ことばでは、この世でのかたちを失った先生に触れられるような気がしたのです。
ふたつの手紙の最後は、どちらも「会いたい」という気持ちを綴りました。たぶん、手紙を書くことは「あなたに会いたい」ということを、いろんなことばで色をつけたり、音を鳴らしたり、においやぬくもりを添えて伝えるいとなみではないでしょうか。
いつか、あなたに会いたいです。
■杉本恭子さんって、どんな人?
京都在住のフリーライター。「新しい動きを生む場」を作る人へのインタビューを多数手がける。greenz.jp ライター、ネット寺院「彼岸寺」にてお坊さんインタビュー「坊主めくり」を連載。
http://writin-room.tumblr.com/
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フリーライター
2013-06-15T00:00:00+09:00
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2013年5月号 本宮氷さんより、おてがみが届きました
世界を知る
欄の会の皆さん、はじめまして。本宮氷(ひょう)と申します。
私の友人に耳に障害をもった絵描きがいます。絵描きと言っても普段は私と一緒で働きながら絵を公募展に出品している。その出品した日洋展で知り合った具合である。
出会ったころは雪景色をナ...
欄の会の皆さん、はじめまして。本宮氷(ひょう)と申します。
私の友人に耳に障害をもった絵描きがいます。絵描きと言っても普段は私と一緒で働きながら絵を公募展に出品している。その出品した日洋展で知り合った具合である。
出会ったころは雪景色をナイフなどで使って、厚く描いていた。興味がわいてきたので、懇親会のときに声をかけた。もちろん、手話なんてできるわけがない。適当に筆談しながら話をした。仕事場がうるさいので、私も難聴気味である。聞こえにくいもの同士の会話だ。それをきっかけに仲良くなっていった。
絵を描くものにはデッサン力が必要なので、裸婦デッサン会にできるだけ参加している。何度か彼も誘って一緒に描いた。来るまではどきどきなのである。本当に来るかどうか確認の取りようがない。遅れてきても、電話で確認できないからだ。耳が聞こえないせいか、人とのコミュニケーションがわからないことがある。約束していた会場に時間通りに来ていないのでメールで確認すると、「家の掃除していたから行けなくなった。」目が点になってしまう。もちろん、罪悪感はない。そんな彼がよくする言葉がある。
「プロになりたい」「たくさんの絵を見て世界を知りたい」
「プロになることはいいけど、そんな絵を売ることばかり考えていないで、今の現実と向き合って絵を描けば、それだけで(ハンディキャップがあるから)すごい絵になるんちゃう?」と言っても馬の耳に念仏。
世界中飛び回って、名画という名画をみて勉強してみたいようである。彼が言う世界を知るとは世界基準を知るということであるみたいだ。
私は世界基準、グローバルスタンダードという考え方には拒否反応が出てしまう。拒否というよりも拒絶に近いかもしれない。私の仕事場は小さな町工場なので、大手の力技の圧力に日々耐えているからだ。製品の単価を下げるためにわざと発注数を半分以下に減らし、飲まざるをえない状況に持ってくる。減らされたほうはそのために2工場あったものが、1工場になった。出向者を強要され、泣く泣く受け入れたら、一年後、客先で内製化があり、倒産しかけたとか。出向者を受け入れた後、乗っ取られたとか。では出向者を受け入れなければいいのではないかという論理があるが、受け入れなければ仕事をストップされて、即倒産する会社はいくらでもあるのである。
それを自己責任と言ってひとくくりにする連中に反感を持つことは当然の結果であろう。だから、世界基準にというものの中にきな臭いものを感じるのでできるだけその土俵に上がらないことにしている。生活できる程度ではあるが。
反して、私にとって世界を知るとはイコール世間を知る、人間社会を知るということである。するとわざわざ世界の果てまで遠く行く必要がない。今いる場所にいればいいことになるからだ。その場所に立ってじっと顔の角度も変えないで見続ければいいのである。
自分はどこで誰から生まれ、今何で飯を食っているか、それだけを見つめ続けることで世界を知ることができるのではないかという気がしている。確証はないが。そこに世間で言う未来志向はない。殺伐としている。
でもそれでも尚、今の自分でできることはないか、役に立てることはないか、そんなことを考えたいと思っている。日銭を稼ぐことに邪魔にならない程度に。
日々の生活に追われているものにとってゆっくりと考える時間と能力は与えてくれない。いろんな人と会って、すでに活動されている先輩方を見て、真似をしようと考えている。
そして、アドバイスをしてほしいと思います。
河原で石を探すように真実を見つけたいです。
それもみんな一緒で、楽しく。
泣きながら、笑いながら。
本宮氷
■本宮氷(ひょう)さんって、どんな人?
2003年 小灘一紀先生の画塾の門をたたく(洋画家)
2004年 田中良明先生と出会う(自他合一の人、元宮司、神道、陰陽道など)
2010年に本宮氷の雅号を命名
2008年 宗安洋先生と交流(奈良・飛鳥の歴史学、クラシック音楽)
2010年 美術モデルHIRO氏と出会う(美術解剖学、美術モデル、翻訳家)
2012年 幼少の頃から知り合いだった流さん(仮名)と交流
2013年 上田假奈代先生と出会う(詩人)
学歴や画歴などを書いてもおわったことですし、
出会った人を紹介させていただきました。
まだ、現在進行形で影響を受けており、まだ他にもたくさんいますが、
魂の大きな人だなと感じた人を絞って紹介しました。
http://blog.goo.ne.jp/icetheworld
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画家
2013-05-15T00:00:00+09:00
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2013年4月号 椎奈アキさんより、おてがみが届きました
蘭の会の皆様、初めまして。
cocorotteの椎奈アキと申します。
cocorotteは「こころって」と読みます。
「心ってなぁに?」という素朴な疑問からできた言葉です。
ここまででお気づきかも知れませんが、私は心理関係の職業、「心理カウンセラー」です。
は...
cocorotteの椎奈アキと申します。
cocorotteは「こころって」と読みます。
「心ってなぁに?」という素朴な疑問からできた言葉です。
ここまででお気づきかも知れませんが、私は心理関係の職業、「心理カウンセラー」です。
はい、ではここで、どうか私の職業を忘れてください。
今この瞬間、このパソコン前に座っている私は、「心理カウンセラー」を脱いだ私です。
こんなことを書いているぐらいですから、今までは24時間365日心理カウンセラーでした。
寝ても覚めても心理・心理・心理でした。
私の人生は、それはそれで、全く、完全に、よかったのです。
でも、私は行き詰まりを感じてしまいました。
人を助ける。人をサポートする。社会貢献する。社会を変える。
やっていることはその通りかも知れなくても、私自身にはどの言葉もピンと来ません。
私は、私の表現に行き詰ってしまったのです。
自分で自分にピンと来ない人生なんて、何て不幸なんでしょう。
おーいおいおいおいおい・・・(号泣)
「私は、一体、何を表現したい人間なんだろう」
悲壮感を漂わせ、この問いを胸に、アンテナを張り巡らせました。
これは、私にとって死活問題のような感じさえしました。
ていねいにたくさんの時間をかけて、アンテナをぐるりぐるりとやっていました。
すると、ゆっくりとゆっくりと、たくさんのモノがアンテナにかかってきました。
パフォーマンス・アート
優しい表現をするアーティスト
決して人を傷つけない「表現の自由」を体現する人たち
美しい音楽
美味しいお料理
尊敬できる先生
出会うたびに感動で震えました。
何より、それらに出会えた自分を思い切りほめてあげたい気分でした。
よくやった自分っ。
えらい!
私は、大好きな文章で、その感動を表現しました。
私は、大好きな言葉で、友人知人に感動を分かち合いました。
表現すればするほど、歓びと誇らしさで満たされて行きました。
すると、ますます表現したくなって行く。
はっ!!!
私はそこで気づいたのです。
私は『表現する人』なんだ。
いやいや、表現はできているかどうか怪しいもんだから『表現したい人』なんだ。
そこにたどり着いた時の大きな達成感がお分かりになりますか?
ようやく自分自身にたどり着いた!
記憶がよみがえった!
私は私だ!
そんな体験でした。
その後、脱ぎ捨てた「心理カウンセラー」という衣を見直してみました。
!!!!!!!
しっくり来る!!
人を助ける。人をサポートする。社会貢献する。社会を変える・・・・
やりたい!それをやりたい!!!それこそ私だ!と。
私は裸の身体に、いそいそと「心理カウンセラー」という衣服を身につけました。
アイロンがあたっていて、でもふんわりしていて、いい香りでした。
美しい私の信念の衣。
今までだって、優しい衣だったんですね、きっと。
『表現したい人生』を歩む私と、ここで出会ってくださったことを心から感謝いたします。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
またぜひお会いしましょう。
■椎奈アキ(しいなあき)さんって、どんな人?
(cocorotte代表 心理カウンセラー/キャリア・コンサルタント/心理トレーナー)
現代の「夢がない」「やりたいことがわからない」「自分で答えを見つけ出せない」という人が
多い社会問題に、心理面から取り組んでいます。
2008年6月に、FtMパートナーとカナダ・ブリティッシュコロンビア州で同性婚をした
ことを機に、常識や性別にこだわらない多様な将来設計をサポートしています。
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心理カウンセラー
2013-04-15T00:00:00+09:00
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2013年3月号 茂木秀之さんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさま、はじめまして。茂木秀之と申します。2012年10月から釜ヶ崎で活動するアートNPOこえとことばとこころの部屋(ココルーム)のスタッフをしています。
釜ヶ崎というのは、大阪市西成区にある、日雇い労働者が集中する地域の通称です。暮らす人々は毎朝手...
年末年始は越冬闘争といって、路上で亡くなる人が出ないようにと集中的に支援活動が行われます。2012年大晦日の夜、僕も地域外へのパトロールに参加してきました。昨年、襲撃された野宿者が亡くなる事件があった梅田。襲撃された場所は、駅構内の人通りの多い場所でした。人の命がそんな場所で奪われ、知られることもない、社会。その中で自分はどう振舞うのか、現場にお線香を立てながら、改めて問われる想いでした。
僕もほんの一年前に、仕事もなく手元のお金は3千円という状態になって呆然とした経験があります。同世代を見渡せば大学を出ても就職できないことが当たり前。派遣切りに合えば家を失うことも遠い話ではありません。自分がいま屋根のある場所で眠ることができているのは偶然でしかないと、常々思います。
ココルームも、毎年越冬に参加しています。恒例の書き初め大会を今年も行いました。炊き出しやステージイベントが行われる公園に集まる人たちに新年の想いを書いてもらいます。
若い男性が「今年こそ脱パチンコ」と書きました。
「去年も書いたけど、でけへんかってん…」
全国の建設現場を転々とする仕事をしている彼は、会社が前貸ししてくれるお金をパチンコにつぎ込んでしまい、年末とお盆に出身地である西成に帰ってきたときはドヤにも泊まれず野宿をしている、と話しました。ギャンブル依存のサポート団体に相談したこともあるそうですが、住所が定まることのない生活の中では継続的な支援を受けることができません。
「電話で相談してもな、腕引っ張って止めてくれるわけでもないやん。」
とにかく、釜ヶ崎に来たときはカフェに寄って話聞かせてよ、と伝えました。ココルームは商店街でカフェと交流スペースを運営しています。お盆に帰って来たときに、彼は姿を見せてくれるでしょうか。パチンコをやめられなくてもいい、借金が膨らんでいても仕方がない、ただもう一度会えたらいいと、思います。
出会いを大切にして、何もできなくても寄り添い続ける。その中で生きることの回復につながる何かが起きればいい。そんなささやかな想いと振る舞いを大事にして、僕たちは今日もお店を開けています。
■茂木秀之って、どんな人?
1983年埼玉生まれ。演劇、コミュニティカフェ、知的障害者支援活動などに関わりながら東京で10年過ごし、原発震災直後に広島県の生口島へ避難。避難者の多く集まる尾道地域で自給的暮らしを試みるがうまくいかず、2012年10月に移った大阪にてNPO法人こえとことばとこころの部屋スタッフに。まだまだ、生き方模索中。
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自由人
2013-03-15T00:00:00+09:00
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2013年2月号 小手川望さんより、おてがみが届きました
Hさんのこと
今日はわたしが2011年6月に埼玉県から釜ヶ崎に引っ越してこどもと暮らすようになってから、知り合った人の話を書こうと思います。
釜に暮らす人で一番話をしたのは、おそらくHさんという77歳のおじいさんだった。Hさんは、77歳の誕生日を迎え...
今日はわたしが2011年6月に埼玉県から釜ヶ崎に引っ越してこどもと暮らすようになってから、知り合った人の話を書こうと思います。
釜に暮らす人で一番話をしたのは、おそらくHさんという77歳のおじいさんだった。Hさんは、77歳の誕生日を迎えた直後に一人暮らしをしている部屋でなくなっているのを発見された。
宅配のお弁当、毎日同じ時間に届けている配達人の人が、返事が無いので、Hさんのいつもカギをかけていないドアをあけたところ、倒れているのを発見してくれたらしい。
Hさんは、重度のアルコール中毒で、カップ入り焼酎を一日少ない日で五本、普通のときは8本ぐらい飲んでいたらしい。夜遅くに、近所の自動販売機まで買いにいくらしいところに遭遇し、「若い娘がこんな時間まで歩いていてはいかんよ」とたしなめられたこともある。
わたしが、「Hさんこそ、こんな時間に焼酎買いにいってはいけませんよ」といったら、「それだけは聞けんな〜」といって笑っていってしまった。
Hさんは、よく、「えんがわ茶屋こころぎ」というココルームが運営するカフェにモーニングを食べにきてくれて、歯がわるいのでトーストを時間をかけて食べていた。その間に良く話を聞いていたのだった。いつも自分は無学で文字も読めないから、といって笑っていた。「おっちゃん、バカやから」が口癖だったが、朝には新聞を携えて老眼鏡をかけながら読んでいるところをよく見かけた。
その後、他の人には絶対言ってはいけないよ、といいながら、その定期購読している新聞社の校閲部につとめたいたことがある、と教えてくれた。
Hさんが、「他のひとにはいってはいかんよ」といって教えてくれた話はたくさんあって、でも、何回も何回も繰り返し聞いたその話はいつも面白かったので、「いつかインタビューして文章にまとめてもいいか」と聞いたら、「あんたが書いてくれるんやったら、何を書いてくれてもいい」といってくれた。
結局、Hさんが生きている間に文章にまとめることはできなかったが、いくつか書いておいたメモを元に、Hさんの思い出話を書いてみたいと思う。
さて、とある新聞社の校閲部につとめていたHさんは、一升瓶を携えて会社に行ったり、スーツを着るのがいやだったりして、問題社員だったらしい。「それでも、わからないもので、こんな俺を上司は評価してくれて、なんでも校閲部という部署につとめられるのはそんなに多くないらしいが、出世しそうになったんよ」
といっていた。それでも、仕事は優秀だったが、会社勤めが肌に合わずに辞めることになったようだ。
その後、実家に戻って農業をやったり、市会議員に立候補しないかと言われて自分ではその気になっていたが、奥さんに大反対されてとりやめたこと、そしてそれを悔やむ気持ちがあること、その後もいくつもの職を転々とした後に、50歳を過ぎてから釜ヶ崎に来たことを教えてくれた。
「ここにきてからちょうど25年になるなぁ。その当時は一日働いたら3万円位になった。それで、金があって働きたくない時は働かんでもいいし、金がなくなってきたらまた仕事に並んだらいいから、そういうのが性におうたんよ。だから、50過ぎてからずっと釜にいるな」
Hさんは、毎日大量に焼酎を飲むので、それで食がとても細かった。「こころぎ」のモーニングは月水金だが、その日はその食事しかとらなかった、ということもしょっちゅうあった。Hさんは、アル中と言っても酔っぱらって暴れたり、暴言を吐いたり、ということはなかった。それで、話が面白いし、愛嬌のある性格だったので、まわりの多くの人がHさんを心配し、みんなが「酒を辞めなさい、せめてもう少しへらさないと体によくない」といっていたが、どうしても辞めることができなかった。
「長く生きようとしてもしょうがない、早くお迎えにきてほしい」というのが口癖で、酒を辞めてアルコール中毒を治すことに意味を見いだせなかったようだ。
それは、ひょっとしたら娘さんのことがあったのかもしれないと、わたしはかってに推測してしまう。Hさんにはわたしと同じ年の娘さんがいるらしかった。一時期は、釜で一緒に暮らしていたこともあったらしい娘さんは、最近結婚し、そして、事情があり父親であるHさんのことを配偶者に伝えてないのだ、といっていた。以前は定期的に来ていた娘さんが、滅多に会いに来れなくなってしまった、と口調は淡々と、でもさみしそうに言っていたのが印象に残っている。
Hさんの葬儀は、お姉さんに連絡したところ、引き取りを拒否されて、住んでいたマンションの管理人が主体となって、マンション住民やわたしのような知り合いが参列しておこなわれた。その葬儀には、近親者として唯一娘さんが来てくれた。娘さんは葬儀の間中顔をあげられないくらい泣き崩れていた。
わたしは、その姿を見て、娘さんがHさんのことを大好きだったのだと感じた。悲しさの中で、ちょっとだけ、ほっとした。
Hさんの遺品である本を見せてもらった中に漢字検定の本があり、「娘に、お父さんは漢字を良く知っているから、漢字検定1級でもきっと受かるから受けたらいい、といわれたことがあるんよ」とうれしそうに言っていたことを思い出した。
でも、検定料が高いので、受けるのはやめたらしい。
あるとき、「この本、いるか?」といって、大正時代に発行された、活版印刷のとてもうつくしい明朝体でつづられた「源氏物語」をもってきてくれたことがあった。「読んだら捨てるように」と何度もいいながら、その本を手渡してくれた。結局、わたしの手元に残ったHさんの遺品として、今でも「源氏物語」3巻はこころぎの本棚に並んでいる。
■小手川望さんって、どんな人?
1974年埼玉県生まれ。演劇制作。
2011年の東日本大震災と、東京電力の原発事故をきっかけに2011年6月から大阪市西成区の通称「釜ヶ崎」に移住。ココルームに助けられながら「支援ハウス路木」で避難生活を送る。2012年からココルームスタッフ。現在小学校3年生の母。
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演劇制作
2013-02-15T00:00:00+09:00
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2013年1月号 小野民さんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさま、はじめまして。小野民と申します。
私は、「編集者」です。なぜ「」づきかといいますと、未だに自分の肩書きを名乗るときには緊張するし、“一応”とか“半人前で”などとどうしても但し書きしたくなってしまうから。あの人こそ編集者、と憧れる先輩の編...
私は、「編集者」です。なぜ「」づきかといいますと、未だに自分の肩書きを名乗るときには緊張するし、“一応”とか“半人前で”などとどうしても但し書きしたくなってしまうから。あの人こそ編集者、と憧れる先輩の編集者ぶりを鑑みると、どうしても自分が編集者だと大きな声で宣言する気力を失います。
ではなぜ編集者になったのかといえば、突き詰めれば偶然です。でも、理由を100挙げろと言われればたぶん挙げられる――そんな風に人生や世の中はできていると思います。
だけど、せっかくなら、気持ちを込めた理由をひとつ持っておこう、と思い立ちました。理由をひとつ挙げるとしたら話したい、国語の先生の話があります。ただの思い出話かもしれませんが、よかったら聞いてください。
国語の授業と国語の先生が好きだったから、私は編集者になりました。
国語の授業を大切にする、笑顔がすてきで、すごく怖くて、とても優しいT先生に出会わなければ今の私はありません。私がT先生に出会ったとき、T先生は、定年したての61歳か62歳の先生でした。私が小学校2年生のとき、1年間の産休をとった若い先生の代わりにやってきました。
結局、1学期の始業式から3年生になるまで、ずっとその「おばあちゃん先生」が私たちの担任になるのですが、初めはもうちょっと短期間の予定だったように記憶しています。私が通っていた小学校は全校生徒60人ほどの農村の小さな学校で、私のクラスは10人の女の子と4人の男の子で構成されていました。
T先生は、定年まで教頭や校長という立場を選ばず、誰かの担任であり続けた人でした。今思えば、なかなか変わり者の先生だったのでしょう。過去の記憶がどんどん遠くにいってしまう私の頭の中でも、なぜかT先生との思い出だけはちゃんとしまわれていて、今でもよく思い出します。
NHKの連続テレビ小説が大好きで、給食の時間、12時45分になると生徒の誰かが教室の天井高くに備え付けられたテレビのスイッチを押すのが、1年間の日課でした。その頃は『女は度胸』をやっていて、毎日先生と14人の生徒で一喜一憂していました。
黒飴も好きで、よくこっそりとみんなに飴をくれました。ビールも大好きだと言っていました。なにかのお祝いのときには、コップに黄色い紙を詰めて、白い紙の泡をあしらってみんなでプレゼントしたのを覚えています。
と、ここまでは子どもに人気のある要素を挙げましたが、恐ろしく厳しくもありました。仲間はずれともいえないような少しの排除の心でも、私たちの心に見つければ本気で怒りました。物質的な自慢の心も決して見逃さず、平手で頬をたたいて怒鳴りました。何で怒られたかは、言えません。
すごく些細なことなのですが、20年以上たった今でも、時々思い出しては羞恥心と後悔で身悶えしています。すぐに調子づいてしまう私にとっては、人生において「おごらない、排除しない」ための最良の戒めは、T先生の顔を思い出すことです。絶対にT先生が怒るようなことはしないと心得て毎日を過ごしています。たまに信念を逸脱しますが…。
さて、本題の国語のこと。このことについてもまず思い出すのは怒られた記憶です。小学校の国語の問題は簡単です。「大人が子どもに言わせたい答え」がいつも分かってしまってつまらないと、私はいつも斜に構えていました。
そんなあるとき、「このときのおじいさんの気持ちを考えてごらん」と先生に問われて、「こういう風に大人は答えてほしいんだろうけど」と前置きしてありがちな答えを返した私を、T先生は一括しました。「“答え”じゃなくて、おじいさんの気持ちを真剣に考えなさい。正解を探すんじゃなくて、気持ちをちゃんと想像するの」と。それから、徐々にですが、文章に向き合うこと、真剣に読み込むことが国語の本質なのだと私は学んでいきました。
T先生は、読書感想文には「感想」ではなく「手紙」を書くように指導しました。手紙という枠をつくるからこそ、すらすら書けることがあるのだと子ども心に驚きました。詩についてもそうです。例えば、「あいうえお」と横に書き、それぞれの文字から始まる文を並べて詩にする方法を先生に習いました。自分には恥ずかしくて書けないと決めつけていた「詩」が、自分にも書けるなんて!なんとかひねり出した文章が、なんだかリズミカルな響きになって現れる喜びは、なんともいえないものでした。この喜びは私一人が感じていたものではないはず。席にじっとしていられない、手をつけられないヤツばかりだと言われていた私のクラスは、「はい!はい!」と手を挙げて自分の意見を述べる子の多い教室に変わりました。
そんな先生とはたまの手紙のやりとりがあり、その度に私の成長を心から喜んでくれ、将来を楽しみにしてくれていました。先生に期待されているのが誇らしく、進路が決まるたびに先生に報告するのが私の喜びでしたが、その報告は大学進学まで。出版社に就職したという報告はできないまま、先生は天国に旅立ってしまいました。
先生に会って話したいことは、ここ10年弱でたくさんたまっています。小学2年生では分からなかった先生のいろいろな気持ち、私が出会った人や国や仕事のこと、大好きな人ができて結婚したこと、先生がなんていうか知りたくて仕方ありません。
なんでこんなにT先生と話したいのか、つながりたいのか計り知れないところがありますが、なんとかして近づきたい。その近づきたい気持ちが、「言葉」や「文章」といった先生が開いてくれた扉とつながっている気がしてなりません。
いつだって誰かとつながれるのは、言葉があるから。天国とも、まだ見ぬ誰かとも、そして身近なあの人とも、つながるためには、言葉を発することが必要だし、言葉を使うことを厭わない人でありたい。
だから私は、言葉と向き合うことを自分に課して、編集者をやっています。
■小野民さんって、どんな人?
おのたみ/編集者
大学卒業後、(社)農文協に入会。バイクで全国行脚する、農家への営業生活を2年半続けたのち、雑誌編集部へ異動。食をテーマに雑誌編集に携わる。2012年よりフリーランスの編集者として活動中。
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編集者
2013-01-15T00:00:00+09:00
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2012年12月号 小倉ヒラクさんより、おてがみが届きました
蘭の会さま
はじめまして、東京でデザイン業を営んでいる小倉ヒラクともうします。
「詩」というと、かつて20代はじめの頃に絵の修行をしたフランスを思い出します。
当時、フランス語がまったく喋れない僕に、知り合いがジャック・プレヴェールという詩人の...
はじめまして、東京でデザイン業を営んでいる小倉ヒラクともうします。
「詩」というと、かつて20代はじめの頃に絵の修行をしたフランスを思い出します。
当時、フランス語がまったく喋れない僕に、知り合いがジャック・プレヴェールという詩人の詩集をオススメしてくれました。ジャック・プレヴェールの詩は、とても簡単な単語を、とてもシンプルに使って、かつダブル・ミーニングや隠喩に富んでいるアクロバティックなものが多く、僕はその詩集"paroles"(たしかfolioの文庫本だったな)を、夢中で何度も読み返した記憶があります。
いま思えば、それは理想的な言葉の学び方でした。
何が理想的なのか。それは、全ての言語の本質であり出発点であるものが「詩」である、ということなのです。
言葉が言葉として生まれた瞬間は、それは「記号」になる前の、未分化で、象徴的で、音楽的な、一言ではくくれない「多義的」なものだったはずです。
それが、言葉が定着し、体系化されていくと、「AはAである」「BはAではない」という風に、概念が切り分けられ、整列させられ、ある固定化された社会的な意味を付与されます(会社の会議とかは、そういう「記号」のやりとりによって成り立っていますよね)。
それはそれで結構なことで、そういう固定化されたルールがあるからこそ、契約も成立し、裁判も成立し、通販で注文したものが間違いなく届く訳なのですが。
「詩」は、僕たちを言葉の始源に戻してくれる優れた装置です。「ことば」は「こえ」であり「からだ」である。
そこには、ことばを使う主体である自分の向こう側にいる「神さま的なもの」とアクセスする装置であり、「記号」には還元できない「その時、その瞬間」のこころのふるえを記録する装置なのでした。
ジャック・プレヴェールの詩のいくつかは、いまでも念仏のように空で暗唱することができます。それを思い浮かべるときに僕のなかでイメージするものは、その「響き」の磨き抜かれた美しさです。それはジャック・プレヴェールの才能の輝きであると同時に、「フランス語」という言葉の本質です。
「ことば」の本質は「こえ」である。そこには祈りがあり、からだがある。
詩人は、そのための触媒、ことばは「記号でない」ということを常に主張している大事な存在だなと思うのでした。
■小倉ヒラクさんって、どんな人?
小倉ヒラク:おぐらひらく。合同会社++(たすたす)共同代表社員。地と人をつなぐ「地営業」を提唱。「デザイナーのフリをした学者」を自称し、各地でデザインプロジェクトやワークショップを行なう。
BLOG:http://hrkwords.exblog.jp/
WEB:http://tassetasse.jp/
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会社員
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2012年11月号 しまなか こう さんより、おてがみが届きました
この間、電車の吊り広告で、「生きる意味を考える」なんていうフレーズを見ましたけど、考えて意味なんかあってたまるか思ったんです。
生命は、ただそこに在るだけやと、そこに理性でなんしか意味乗せたかて、
存在してる事実、それ以上に勝るもんはないやないですか。...
生命は、ただそこに在るだけやと、そこに理性でなんしか意味乗せたかて、
存在してる事実、それ以上に勝るもんはないやないですか。
どう生きるかゆうのは、どう死ぬか…ということやと思うんですが、
いつやったか、深夜に河川敷で酔っ払ってサックスを練習しているうちに、足元よたついてたんか、勝手に前に進んで行って、川にはまりかけたんですけど、その時の演奏が、最高やったんです。
死ぬんやったら、こんなふうにごきげんに酔うて足滑らせて次の日、ドブに浮いてたらそれが一番幸せな死に方やな、そう思たとき、自分の生が始まったなあ、と感じました。
死ぬ覚悟で生きてやっと、手にしていくもんがある。
やから、ライブを創り上げる空間は、毎回とてもいとおしいです。
みんな一度しかない人生の時間を、みんなで同じもの見て、感じて、共有して、その空間はみんなの存在を無条件に認め合ってる。一瞬のうちで、それぞれの全生涯を見せる覚悟があり、相手はそれを受け入れている。
やから、意味づけなんかアホらしい。
そこに生きて在る、それだけで圧巻です。
遅滞なく、水が頭から足元に流れて、視線で空気割るようなライブや、情動を解放して、内的なものへと変わるライブが終わった日には、今まで疑問に思ってたこと、悩んでたことが頷けて解決して、一つ自分が進みます。
人生が一回限りであると同じく、ライブも生モノの一回性やからこそ、自ら前に進まなあかん、死ぬまで生きることを生ききれるんやと思います。
■しまなか こう さんって、どんな人?
しまなか こう
大阪府出身 京都西陣在住
即興朗読、演奏者
写真 鬼頭 学
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演奏者
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2012年10月号 多田衣里さんより、おてがみが届きました
はじめまして。私は大阪在住の女子です。つい先日三十歳を迎えました。
この歳になりようやく最近私の故郷と呼べる場所ができました。
私はこれまで、故郷と言える場所を持っていませんでした。(実際にはあったかもしれませんが、あまり故郷と感じていませんでした。)...
この歳になりようやく最近私の故郷と呼べる場所ができました。
私はこれまで、故郷と言える場所を持っていませんでした。(実際にはあったかもしれませんが、あまり故郷と感じていませんでした。)大阪生まれ大阪育ち、ですが思春期の半分は西宮で育ちました。
生まれ住んだところは大阪湾に浮かぶ埋め立て地。何もかも人工的に創られた、マンションが並ぶ新興住宅地でした。
緑は多くて川もあり(全部人工!)、公園もたくさんありました。安全な場所だったと思います。その後遺症か、私も妹も、方角を気にするという感覚がありません。社会に出て最近気にするようになりましたが。
全てがつくりものということは、地域のお祭りや行事も全部つくられています。今思えば不思議な町ですね!!いっちょ前に夏祭りや御神輿、花火大会なんかあり、正月には餅つきもありました。子供の頃よく夏になるとお囃子の練習に行った覚えがあります。今大阪のいろんなお祭りを見に行くようになり、歴史あるお祭りとの違いを大人になり感じています。でもそんな新しい町でも、いろんな行事を体験させてもらったのは良かったなあと思ってます。
このような不思議なまちだったためか、住んでいた頃から、故郷という感じはあまりなかったです。
その後、中学3年の時、西宮へ引っ越しました。西宮も良い所でしたが、大阪から来た思春期の私にはもの足りなかったのと、やはり小さいころからいないため土地勘があまりなく、ここもまた故郷と呼べるのか微妙な場所となりました。
いきなり数年前、両親が田舎暮らしをするため日本海付近のど田舎に引っ越しました。都会育ちの我が人生にいきなり田舎ができました!!
Iターンながらも、実家へ帰ると畑で採れた野菜や米など食料自給率120%、きれいな風景と心からの豊かさを満喫できます。
半年間私も実家で暮らしていましたが、田舎の人間関係はつながりが強く(人数が少ないから?)、私の中では「田舎」=「故郷」に少し近いものとなりました。
現在私は大阪で一人暮らしていますが、この春から大阪のまち歩きをする会社で働いています。
この大阪が、最近私の故郷だと思える場所になってきています。仕事で大阪のいろんな場所に行くようになりました。生まれ育った場所だけど、全然どこも行ったことがなかった!ミナミと梅田、京橋、天満、大阪城ぐらいかな〜。そんな人結構多いと思うんだけど。
大阪っておもろいまち!商売ゾーンあり、ごちゃごちゃゾーン、下町ゾーン、ディープゾーンに、ピンクゾーンもあり?!人が生活するとは、町とはこういうものなんだなあと日々勉強です。
生まれた町を知ることは嬉しいことやなあと思いました。
故郷と思う場所ってどういうことなんやろう?
育って、よく知ってる所のことでしょうか?でも素敵な思い出がよりたくさんあった場所が故郷と感じたりするんかな。よく引っ越しをしていた人たちはどうなのでしょう。
書いていて、その感覚について面白いなあと思いました。私は最近やっと見つかったように感じるので。
■多田衣里さんって、どんな人?
大阪生まれ。「今更聞けない勉強会」、「ファイヤー!粘土団子爆弾!!」主催。パーマカルチャーや農業について学び、未来の暮らしに関心ありの自由人。
現在は大阪あそ歩で少し落ち着いている。
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会社員
2012-10-15T00:00:00+09:00
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2012年9月号 りょうちゃんより、おてがみが届きました
こんにちは、みなさん。りょうちゃんです。
文章を考えるのは、苦手なのですが 変だなと思ったら ほっといてください。
最近、俳句や詩を作る縁があって何十年ぶり?ってぐらい久し振りに頭を働かせました。
手紙を書くのは好きで、文通相手は いるのですが、、...
文章を考えるのは、苦手なのですが 変だなと思ったら ほっといてください。
最近、俳句や詩を作る縁があって何十年ぶり?ってぐらい久し振りに頭を働かせました。
手紙を書くのは好きで、文通相手は いるのですが、、、
よく、意味分からんと言われます。
そんな、私が俳句?!もう、直観で浮かんだ言葉を 5 7 5 になるように、指を
おる、おる、おる。
季語?なにそれ、分かりません。
あっ!落ちもないと、よく言われるので読み終えた最後ごめんなさい。
で、意外と自由に作ると、ルールも何も無くてできました。3個も!!!
見てもらった先生に、名前忘れました、、、
おもろいやん、そんなん、そんなん。って言われて
出来た詩が 新世界 おっちゃん元気 暑くても
ほんまに〜???こんなんで、えぇ〜の?!とびっくり。
他2つは、忘れました。ははは〜。
私の詩を、気に入った!と選んでくれたのは、小学3年生の女の子!
私が、気に入った!と選んだ詩は、その小学3年生の女の子の詩!
笑いながら、先生が一緒やな、はっはっはっ〜。って!
はっはっはっ〜。おもしろっ!!てな感じで、詩を作って出来て、誰かが選んでくれる。
何か、楽しい。。。
また、詩を作る会に参加してみよ〜と思いました。
言葉。
楽しく、広がりそうです。
■りょうちゃんさんって、どんな人?
りょうちゃん 所属:自由人
1980年 7月31日生まれ 女子 B型
趣味 カポエイラ と 最近始めた、ディジュリドゥと織物してます。
好きなこと 自転車をこぐ!!
最近、お酒を飲むのに なかなか選べないので めんどくさくなって、ウォッカロック、ロック、
そして、ロック、ダウンです。
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自由人
2012-09-15T00:00:00+09:00
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2012年8月号 Dan Luffeyさんより、おてがみが届きました
雲になりたい
俺はペンシルバニア州の田舎の小さな部屋で生まれ育った。あの部屋の窓からカーペットまで差し込む光が金色で暖かくて、毎日俺を包んでくれた。きっと今のマンションから差し込む光とちっとも変わらないけど、なぜか、あの光を思い出すと、色あせたよう...
俺はペンシルバニア州の田舎の小さな部屋で生まれ育った。あの部屋の窓からカーペットまで差し込む光が金色で暖かくて、毎日俺を包んでくれた。きっと今のマンションから差し込む光とちっとも変わらないけど、なぜか、あの光を思い出すと、色あせたように見える。そしてちょっぴり悲しく感じる。
16年後、俺は大分県の耶馬溪町という小さな、山奥の村にいた。なぜそこにいたのか、何が俺をそこに導いたのか、は分からない。ただ、「ここに来て良かった」と思った。あの時、今までの俺が心配してた事、辛いと思った事、嫌と思った事がどんだけ小さく見えたか。三日目に、また一人で小さな部屋に座り込んで、差し込む陽差しを眺めると、なぜか涙がぽろぽろと流れた。特に悲しみや感動といった強い感情はなかったけど、ひつぁうら枕に顔をおしつけた。
何だったんだろうね。今でも、不思議な現象として思い出す。ホームシックという気持ちは一回も感じたことはないし、1年の留学が終わった時に、アメリカに帰りたくなかった。その涙の意味というのは?「ここに来て良かった」っと?日本の事を何も一つ分からなかった俺が、一体何を考えたんだろう。そもそも留学する理由は「家から離れたい、自立したい、高校のシステムが嫌いだから旅に出ようという、日本と何も一つ関係のない理由ばかりだった。なのになぜか、日本という国に始めて来て、わけも分からない間に心に何かが響いた。強いて言えば、その後に湧き出た感情は「安心」だった。
当時、日本に何を求めていたのかはもう忘れたけど、見つけたものが山ほどある。日本語がうまく喋れなかった頃には、どう頑張っても分からない事だらけだから、間違った言葉を言う時が必ず来る。ここで恥ずかしがるなら切りがないと思って、初めて「恥」という感情の意味のなさに気づいた。「恥は俺にとって、邪魔なだけ」と思って、さまざまな面で恥ずかしがらずに堂々と人生を楽しむようになった。しかし今でも、たまに「恥」という不細工な悪魔が襲って来る。人間だからね。
大分での1年の後に、俺はアメリカに帰って、ひたすら日本に戻るように頑張った。そして3年後、戻れた。そして「日本に戻る」という大きな目標を果した俺は、「次に何をすればいいだろう?」という質問に辿りついて、途方に暮れた。日本に来て、俺は一体何がしたかった?月日が過ぎた。俺はひたすら彷徨った。ひたすら頑張って、失敗を繰り返せば、答えはいつか頭に浮かぶだろう、と思った。でもそれこそが答えなんだよね。迷うこと。ひたすら次へ、新しい地平へ進もうとする意志を灯す事。
幾度の失敗を重ね、俺はようやく最近、それに気づいた。俺は留まらない人間だ。違う言い方をすると、リラックスできない。俺は日本語という言語が大好きで、今でも毎日勉強している。でもいくら分かるようになっても、落ち着かないんだよね。先を見ちゃう。日本語は先が長いから、お似合いかもしれない。16歳の頃、日本という国、日本人という人々、そして日本語という言語に感動した俺は、一体どこまで行けるか?まさか、ここで男のロマンが出てくるとは...
人間はすぐ「これは駄目、あれは駄目」と言うよね。俺も、よく言ったな。今でもたまに思わず言っちゃう。世界の可能性は無限なのに。視野を広げる、心を開くことによって、己の人生はきっとよりポジティブになるはず。これからはどんなに大きな事でも、広い心で受け入れるように頑張る。しかし、それを言うと、なんでも「駄目」という人を受け入れる事も含まれるよね?ややこしいな。
どっちにしろ、俺は次の目標をやっと見つけた。大きな雲になりたい。好きなペースで空を巡って、止められることもなく、全てを飲み込みながら進んで行きたい。こんな気持ちになるのはきっと日本にいるからだと俺は信じる。そして、こういう生き方が好きだから、この地に大変感謝している。これからも、日本を彷徨いながら、人々に笑顔の慈雨を届けられたら幸いである。
■Dan Luffeyさんって、どんな人?
Dan Luffey
25歳、鶴橋在住。2005年から様々な分野で翻訳・執筆活動しており、その他に、俳優、モデル、ナレーター、と作家活動中。一番好きな邦画:「ハウス」(77年)
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翻訳家・作家
2012-08-14T23:58:00+09:00
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