www.orchidclub.net LB 2020-10-31T09:31:44+09:00 JUGEM 2018年6月号 根来ゆうさんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283530 2018-06-15T00:00:00+09:00 2018-06-14T15:15:35Z 2018-06-14T15:00:00Z 「全部のせのパフェみたいな人生」
◯女である事が苦痛だったこと
私はずっと女であることに違和感があった
母に言わせると
「女の子なのにワンパクで困る」手合いの子どもだった
母は手作りのワンピースを私に無理やり着せた
外で猿のように野山を駆け巡... orchidclub2 映画監督
◯女である事が苦痛だったこと
私はずっと女であることに違和感があった
母に言わせると
「女の子なのにワンパクで困る」手合いの子どもだった
母は手作りのワンピースを私に無理やり着せた
外で猿のように野山を駆け巡っていた私の浅黒い肌には
レースのついた細かい花柄のそれは、全く似合わず
お隣のクラッシックバレエを習っていた女の子に比べて「少女」として随分見劣りしていたと思う。記憶にないが私は男の子もよく泣かせていた(物理的に!)そうだ・・・
さて、思春期がきて第二次性徴で胸が目立って来て、まわりにいやいやブラジャーを付ける様に促されても一向に私が自分が女である実感が得られず、乙女たちが初恋や初体験する中、通過儀礼としての異性とのいわゆる「男女交際」にはこれといって興味は湧かなかった
◯女をやらなきゃとひととおり努力してみた結果・・・
私は齢45になろうという人生の成熟期を迎えてもなお
「男と番う」意味がわからず、彷徨っている
20代は合コンにも行ったし、好きでもない男とカップルになるフリもしてみたが、どこかで冷めている自分がいた。プロポーズされても全くしっくり来なかった。
30代は婚活パーティーにも好奇心から行って見たが、そこでモテても虚しいばかりで飽きていかなくなった。婚活パーティーは商品価値がまだ幾分か残っている自分に酔いたい人か、本当にコミュニケーションが苦手な人が多く集まる所と言われていて、なんだか業者がアリバイ的にやっている緩い詐欺の現場に見えた
私はいつ男と番うのか!?
イエスやブッダに聞きたい
そして、それと反比例して私は空手やムエタイや柔術に手を出し、軍人や武道家の友達ばかりが増えていく
そしてそこには出会いはない!
私には一生結婚も、出産も、子育ても無いのかな?それでいいのかな?と半分以上諦めつつもずっと気になっていた。子育てだけでもできないものか?
「20代でテキトーな男との間であってもいいから、子どもだけでも作っておけばよかった!」と後悔先に立たずな心境だった
私は人生のほとんどを、周りの物差しに合わせようと意識はしてきたけど、結局は「当たり前の女の幸せ」に従える程優等生でもなく、何処かで「人生全体がストライキ」みたいな状況だった。自分を「可哀想」とまでは思わないけど「なんか物足りない」とは思ってきた。
◯新星のごとく現れた・・・希望?
そんなとき私の目の前にジャンヌ・ダルクのごとく現れたのが「アツコ」だった
彼女は私が撮っていた映画に役者として出演してくれた女性で、年の頃は30手前だった
彼女は「私、男がいなくても子ども産みたいし育てたいねん」と、言いたくても言えなかった事をサラリと言ってのけ、複数の知人友人の男性から精子提供をうけ、長年の不妊症の時期を乗り越えて13年ぶり位にやっと妊娠した
父親は科学的にはわからない、でも彼女は「父親が誰かは分からへんねん、そのほーがええねん」と言っている
彼女は「自分の子どもだから育てる」という考え方が嫌いみたいで、私にはその言葉がしっくり来た。あと、勝手に男に「俺が責任とるから!」とかも寒気がするから言われたく無いみたいだ。
つまり、子を産みたいけれど、そこに単に生物学的父というだけで関わってくる人からの束縛やコントロールは要らないという事みたいだ。
アツコは子を産む。そして、不特定多数の人々が出入りするコミュニティをつくり、そこで子育てしたいそうだ。なんてパーフェクトな解決策だ!と私は思った。
◯なんでそんなに「フツウの結婚」が嫌なのか?
私は1970年代生まれだ。私の母の世代は姑さんとのジメッとした問題を抱え、逃走の手段が核家族だった、核家族ならフリーダムだと思っていた。でも、結果社会は摂食障害でコミュニケーションに問題のある私みたいな娘を多く産んだ。私は(私たちは?)承認を得られない母親たちの愚痴を延々と聞いて育って来た。解決としての家族や戸籍制度に違和感があるのは当然である。
今の標準的な事として流布されている価値観には「幸せなフリはもうやめようや。バレてるからさ」という風な印象を私は持つ。
アツコの様な女性たちの事を「男に認知してもえあえなかった可哀想なシングルマザー」とか「計画性もなく子どもをもつ動物みたいな輩」とか「貧困女子まっしぐらの愚か者」とか「高収入の男と番えなかった負け組女」とか「わがままばかり通そうとして産まれてくる子どもが可哀想」とか自分から切り離して勝手に下にみて蔑むのは簡単だと思う
でも、それで私たちは何か新たな解決策を得られるのか!?
否
物理的に子をつくり、育てていたとしても、人様を蔑んで支えられる価値観は脆弱に思える
実際日本の出生率は低いままな訳で・・・
こと、こういったテーマについては日本は空気が重いと思う
◯子と一緒にある人生
アツコの子育てはアツコだけのものでは無い気がする
こんなご時世であっても、子どもを産もうと頑張っている若者がいて
その若者をことさらディスっているのが今の政治家
今の社会
そんな中、子を持とうとしている人にぐいぐい食い込んだっていいと思うし、なんなら結婚も、出産も、終身雇用としての結婚も飛び越して、どさくさに紛れて共に子を育ててもいいじゃないか!?と思う
だって、そうそうチャンス無いもん!
そう、未婚(非婚?)の人が子と接するチャンスなんてそうそうないんです
母は手塩にかけて私を嫁にやるべく丁寧に育てた
手作りのロールケーキ
手作りのワンピース
丁寧に編み込んだお下げ髪
六年間無理に習わせたピアノ教室
初めての生理に炊いたお赤飯
数十万かけた振袖のレンタル代
結婚費用の為の積立金二百万円
それらを全部私はドブに捨てた
私は母の様に生きようとは思わないし
私は私らしく生きたいな・・・と思ったから
好きなことを手放さない(例えば詩を書くことも)
大して好きでも無い男と適当に番いたく無い
恋人や配偶者をモノとして品評したり、束縛したく無い
もとい、勝手に「異性と恋愛する人」と決めつけられたくない
自然に人と一緒にいたい
自分の稼いだお金で暮らしてみたい
たまには恋愛もしてみたい
生活空間に子が居て欲しい
そんな「全部載せ」のでっかいパフェみたいな生き方をアツコの事件は私に想起させた
そして、そんな気づきが何千人、何万人もの女の人たちにいつか伝わるといいのになあと
ほんわか思う
私たちは自分の足で歩いていくだけの力を持っている
幾つになってもそれに気づけるなんて、素敵なことじゃないか?
桜の季節に何かが生まれる予感がするのでした
中目黒の桜並木を眺めつつ・・・
根来ゆうより愛をこめて
■根来ゆう(ねごろゆう)さんって、どんな人?
岡山県倉敷市生まれ。20歳から10年近く摂食障害を経験。数年自助グループに参加。映画、テレビドキュメンタリーの仕事を経てフリーに。97年に依存症をテーマに短編を3本制作。2001年に摂食障害を扱った長編ドキュメンタリー「そして彼女は片目を塞ぐ」を制作。山形国際ドキュメンタリー映画際にて上映。祖母、母、自分の三世代の労働とライフスタイルを並べた「her stories」性暴力について扱った「らせん」などの作品がある。
消費と依存、モラトリアムと成熟拒否、身体、サブカルチャーにおける女子文化、労働行政と移民政策など様々なテーマで作品制作を続けている。 ]]> 2018年3月号 樋口ミユさんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283529 2018-03-15T01:55:00+09:00 2018-03-14T17:03:38Z 2018-03-14T16:55:00Z 「臨時ニュースを繰り返します
現在、詩人の数がまったく足りておりません。
詩人の数は決まっています。
独りの詩人が消えれば、独りの詩人が生まれる。
しかし、詩人の数は足りておりません。
今、メディアに乗って、電波に乗って、呼びかけます。
あ... orchidclub2 劇作家
現在、詩人の数がまったく足りておりません。
詩人の数は決まっています。
独りの詩人が消えれば、独りの詩人が生まれる。
しかし、詩人の数は足りておりません。
今、メディアに乗って、電波に乗って、呼びかけます。
あなたこそが詩人ではなかったのでしょうか?
絶対数に満たない。
まだ気がついていない、
未だ詩人となっていない、
隠れ詩人がいるはずなのです。
自分自身でも詩人と気がつかず
今その人生を終えようとしている、
もしくは全く別の人生を選ぼうとしてるあなたこそが、
あなた自身が、
詩人なのではないでしょうか。
臨時ニュースを繰り返します。
現在、詩人の数がまったく足りておりません。
臨時ニュースを繰り返します」
そんな言葉から始まる戯曲を書きました。
地上からすべての詩人がいなくなったら、きっと世界は終わりをむかえてしまう。
世界情勢の均衡は詩人によって、詩人の言葉によって保たれている。傾いた経済を、二度上がった北極の温度を、武装しはじめた国を、絶滅しかけた人種を、沈んだ大地を引き上げるのは、詩人が朝日について考えるとき、夕暮れについて考えるとき、ニンゲンについて考えるとき。言葉の、その奥に広がる言葉になる前の言葉が、宇宙を連れてくる。
んなワケない。
ええ、そんなコトがあるワケない。
けれども、世界は言葉によって支えられているのではなかろうかとずっと疑っているあたしは、どうにかしてそれをお芝居に出来やしないだろうかと取り組んだわけであります。
言葉で世界を作るのは誰か。
言葉と戦っているのは誰か。
言葉を考えるのは誰か。
言葉を探しているのは誰か。
言葉になる前の言葉を掴もうとしているのは誰か。
見えるはずもない思考をカタチ創るのは、誰か。
小説家や劇作家は言葉を駆使する。
ああ、だめだわ。
使いこなしちゃ探している感じがしない。
戦っている感じがしない。
では誰が?
・・・・・・詩人だ!!
と、ここへたどり着いたあたし。
安直でしょうか。
思い込みでしょうか。
ただの憧れでしょうか。
イメージ先行でしょうか。
うん。でも、でもね。
そんなコト、あるわけないと書きつつも。
あたしはどこかで信じているのであります。
やっぱり。
地上からすべての詩人がいなくなったら、きっと世界は終わりをむかえてしまう。
と、あたしは考えるわけでありますが、詩人のみなさん。
どうお考えでしょうか。
よろしければお返事ください。
■樋口ミユさんって、どんな人?
樋口ミユ higuchi miyu 劇作家・演出家 Plant M主宰
誕生日 4月6日 出身地 京都市
劇団Ugly duckling旗揚げ以降、解散までの劇団公演32作品の戯曲を執筆する。劇団解散後は、座・高円寺の劇場創造アカデミー演出コースに編入し、佐藤信氏に師事。2012年にplant Mを立ち上げる。
受賞歴
1999年 3月 「深流波〜シンリュウハ〜」で第7回OMS戯曲賞大賞を受賞。
2000年 3月 「ひとよ一夜に18片」で2年連続、第8回OMS戯曲賞大賞を受賞。
2012年6月 第38回放送文化基金賞受賞ラジオドラマ部門「飛ばせハイウェイ、飛ばせ人生」
2017年2月 大阪市文化祭奨励賞 女優の会 「あたしの話と、裸足のあたし」の舞台成果
ホームページ https://plant-m.jimdo.com/
ブログ http://plant-m.blogspot.jp/ ]]> 2018年2月号 アオキ裕キさんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283528 2018-02-15T00:00:00+09:00 2018-02-16T15:00:09Z 2018-02-14T15:00:00Z 日々荒野。
3月に踊った東池袋中央公園は炊出し会場でもあり、ソケリッサ!ではメンバー勧誘を含んだパフォーマンスとして何度か踊った事のある空間。初めて来た時は夏だった。サンシャインやプリンスホテルなど接にそびえ立つ建物に囲まれた公園の奥は、木が鬱蒼と生い... orchidclub2 ダンサー/振付家
3月に踊った東池袋中央公園は炊出し会場でもあり、ソケリッサ!ではメンバー勧誘を含んだパフォーマンスとして何度か踊った事のある空間。初めて来た時は夏だった。サンシャインやプリンスホテルなど接にそびえ立つ建物に囲まれた公園の奥は、木が鬱蒼と生い茂り都会の谷底のようであった。そしてその空間に膝を抱え休む路上生活の人々の姿は、母なる子宮の安堵の中にいるようにも見えた。「谷底と子宮」僕はこの世の中で生きている。身体に入り混じる不安と希望、悲しみと喜び、日々滅亡と繁栄を繰り返す血がこの中に凝縮されている。
そこに転がる石ころは全てを知っている。
そして僕達はその石ころを蹴っ飛ばす。
今回使用する道具は大きく重い、劇場から毎回メンバーと共に転がしての会場への往復は一苦労だった。地面を眺めながら運ぶ道端、10円玉が落ちていた。メンバーと目があった。僕達はニヤリと笑った。
そこには人がいる。共に過ごし、そして踊りが生まれる。そこに僕は躍動を感じる。
美しく煌びやかで価値のあるものと信じたその景色をふと無意味だと思わせる。きっとこの目の前に広がるのは日々荒野だ。
女流詩人のみなさまへメッセージ
誰かに伝えたいことがあり、言葉が生まれました。きっとそこに至るには身振りや感情表現だけでは伝えられない生きるために必然とした強烈な渇望があったと思います。一つの言葉の中にある壮大なドラマ。詩によって揺さぶられる身体の出現は楽しみです。
■アオキ裕キさんって、どんな人?
ダンサー/振付家、兵庫出身。東京にてジャズダンスを学ぶ。タレントのバックダンサーなどを経、2001年NY留学時にテロと遭遇。帰国後、自身の踊りの根底、今あるべき真価を追求。 2005年ビッグイシューの協力とともに路上生活経験者を集め、ダンスグループ「新人Hソケリッサ!」を開始。個人しか生めない体の記憶を形成した踊りにより自己肯定を生むなど、社会的弱者への社会復帰プログラム、またダンス教育のアプローチとしても定評を得る。一般社団法人アオキカク代表。
]]> 2017年12月号 正木恵子さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283527 2017-12-15T00:00:00+09:00 2017-12-14T14:36:32Z 2017-12-14T15:00:00Z はじめまして、正木恵子と申します。
文章がとても苦手なのでこのお手紙を書くかどうかものすごく悩んだのですが、がんばって筆?をとりました!つまらないお手紙ですがすみません。
私は打楽器奏者をしていまして、ざっくり言うと太鼓からマリンバ、マラカスなどの小さ... orchidclub2 フリーパーカッショニスト
文章がとても苦手なのでこのお手紙を書くかどうかものすごく悩んだのですが、がんばって筆?をとりました!つまらないお手紙ですがすみません。
私は打楽器奏者をしていまして、ざっくり言うと太鼓からマリンバ、マラカスなどの小さな打楽器まで色々な打楽器を演奏したり教えたりしています。それと、保育園や学校、公共施設などで、子どもたちや障害のある人ない人やお年寄りなど色々な人と、うたを作曲したり楽器を演奏したりする音楽ワークショップもしています。
さて、私の自己紹介話は置いておいて。
2月のことですが、音楽家の赤羽美希さんと2人で組んでいる音楽ユニット「即興からめーる団」で主宰しているワークショップ・プロジェクトの『うたの住む家』(集まった人たちとうたを作るワークショップを2007年から100回以上続けています)を東京の両国門天ホールで行ないました。いつもは即興からめーる団が音楽のワークショップをするのですが、その日はゲスト講師に上田假奈代さんを迎えて詩を作るワークショップをしていただきました。そこで、なんと私も詩を作らせてもらいました。ドキドキ。
詩の作り方はこれまたざっくり言うと、2人ペアになってお互いインタビューし合って、相手から聞いたことのメモを元にして詩にする。というものでした。
私は両国門天ホール支配人の黒崎さんとペアになってお互いにインタビューし合ったのですが、黒崎さんはとても面白い方で、私があまり何も質問しなくても(インタビューなのに)面白いことをどんどん話してくださるので、瞬く間にたくさんの言葉が私のメモ用紙に並んだのでした。そしてそのメモから詩にしたのですが、相手の言ったことだと思って書くからか、文章が超苦手で作る自信が全くなかったはずなのに自動書記のように筆が進み、あっという間に詩を作ることが出来ました!詩を書いていた時、すごくアドレナリンが出ていて不思議な感覚でした。詩人のみなさまもそうなのでしょうか??
と言うわけで(どんなわけ)、その作った詩を載せて最後のご挨拶にさせていただこうと思います笑 ちなみに、上田さんのワークショップでできた詩の数々はいくつか作曲してうたにしていく予定です。ドキドキ!
あと、黒崎さんが私にインタビューして作った詩のほうが実はめちゃくちゃ傑作だったのですが、そのお話は、またいつか。
「引っこしの夜」
月に星
宇宙人がいそいでトラックを運転している
誰の引っこしかはわからない
ひもでくくられたほろから 何かがはみだして
色んな引っこしがあるけれど
引っこすとは
引っこしはあったほうがいい
捨てるものを取捨選択して
きれいになる ふしめになる
もう引っこすことはないわたし
宇宙へとはしるトラック
未来はもはやトラックではなく
フェリーのような宇宙船に
すぽん と すいこまれて
行くのかもしれない
なんとなく ふさわしいのは
日本語ではない
■正木恵子さんって、どんな人?
プロフィール:正木恵子(まさき けいこ)
打楽器奏者。12歳で打楽器を始める。名古屋市立菊里高校音楽科を経て、日本大学芸術学部音楽学科打楽器専攻卒業。
現在、フリーパーカッショニストとして打楽器やマリンバの演奏・指導に携わるほか、劇音楽の演奏やダンスとの共演、映像作品とのコラボレーション、即興演奏など、幅広い音楽活動に取り組んでいる。また、子どもや高齢者、障害のある人との音楽ワークショップを保育園や学校、コミュニティ施設等で数多く行っている。
音楽ユニット「即興からめーる団」メンバー。打楽器奏者3人組による打楽器アンサンブル「どってん博物館」メンバー。おもちゃ楽器バンド「moccha」メンバー。
うたの住む家ホームページhttp://utanoie.is-mine.net
即興からめーる団ブログhttp://improkarame.blogspot.jp
]]> 2017年10月号 加藤わこさんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283526 2017-10-15T00:00:00+09:00 2017-10-15T15:06:01Z 2017-10-14T15:00:00Z 蘭の会のみなさま
『Sさんからの手紙の事』
初めまして、京都市に住む加藤わこといいます。蘭の会さんへ手紙を書いてみませんかと、古い友人から声をかけてもらい、喜んで書かせてもらっています。
わたしは、9年前にもらった1通の手紙を、今でもときどき読み... orchidclub2 フリーランス
『Sさんからの手紙の事』
初めまして、京都市に住む加藤わこといいます。蘭の会さんへ手紙を書いてみませんかと、古い友人から声をかけてもらい、喜んで書かせてもらっています。
わたしは、9年前にもらった1通の手紙を、今でもときどき読み返します。お守りのような手紙です。「リビング京都」というフリーペーパーに、写真付きのミニコラムを書いていた時、編集部に届きました。
「突然のお便り失礼いたします。先日あなたの吉野川の写真を見て、あまりにも懐かしく、ペンを取りました。おいやでなければお読み下さい」。
端正な文字が流れるようにつづきます。
「昨日のことや朝食のおかずのこと等忘れてしまうことがありますのに、何故、60年も前のことが、昨日のことのように鮮明に思い出せるのでしょうか。わたしは77歳の女性です。父は奈良県吉野郡の出身です。子どもの頃の夏休み、父の実家に遊びに行くのが楽しみでした。おばあちゃんは、川で遊ぶ孫たちのために草鞋を作ってくれました。都会の子は、川を渡るのに、ぬるゝ水苔がついた石ですべってしまうのです。筏(いかだ)にも乗せてもらいました。上から鮎が群れをなしてキラリゝと光って泳ぐのが見えました。そこは、『天皇の淵』と、言われていました」・・・
手紙が語る故郷の川の、鮮やかなこと。清流にきらめく鮎の群れ、子どもの声が響く谷。「天皇の淵」とはどんなところだろうか。想像するだけで吸い込まれそうになります。
「思い出してもどうにもならない、帰らぬ昔のことですが、父も母も祖母も元気で居た頃に、戻れるものなら戻りたい想いで、心の中はいっぱいです。」
何度読んでも、このくだりで喉の奥がクッとなります。9年経った今は一層沁みます。
Sさんにお礼の手紙を書くと、すぐに2通めの手紙が届きました。お礼のお礼がていねいに綴られ、次のように締められていました。
「…あなたのおかげで、胸がいたくなるような遠い日の思い出にひたることが出来ました。ありがとう。お元気でおすごしください。拝」
手紙の中に、詩を見るときがありますよね。思いかけず。
インターネットにもたくさんの言葉が溢れています。それらは誰に宛てるともなく漂う手紙の束のように思います。
何度も開く手紙のように、何度も覗くページがあります。蘭の会に寄せられた手紙のページも、そんな場所になりそうです。そしてそこにわたしも加えてもらえることが、本当に嬉しいです。
いつかお会いできることを願って、書き置きます。
■加藤わこ(かとうわこ)さんって、どんな人?
奈良県吉野郡出身、京都在住。コンピュータメーカー勤務後、フリーランスでいろいろな仕事や活動をしています。現在は講師業、企画請負、ライター業、三度笠おむすび塾主宰、まち歩きガイド等をやっています。好きな言葉は「カオス」です。ブログ三度笠書簡
プロフィールの写真は気仙沼市の復活した名店「喫茶マンボ」で今年(2017)3月に撮ってもらったものです。
]]> 2017年8月号 安田恵美さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283525 2017-08-15T00:00:00+09:00 2017-08-14T14:43:55Z 2017-08-14T15:00:00Z こんにちは。
はじめてお手紙を書きます。
私は、犯罪をしてしまった人、刑務所に入った経験がある人が、その後、社会の中でひとりの人間として生活していくためにはどのような施策が良いのか、そしてなぜそのような施策が必要なのか、という領域の「専門家」... orchidclub2 國學院大學法学部専任講師
はじめてお手紙を書きます。
私は、犯罪をしてしまった人、刑務所に入った経験がある人が、その後、社会の中でひとりの人間として生活していくためにはどのような施策が良いのか、そしてなぜそのような施策が必要なのか、という領域の「専門家」(といってもまだまだヒヨコですが…)です。日本の制度や議論の中で研究していても、なかなか良いアイディアが思い浮かばないので、私は、大好きなフランスの議論や制度を参考にしながら研究をしています。このお手紙も、実はパリのホテルの一室で書いています。フランスの法制度を学ぶのはもちろん、受刑者や出所者に寄り添いながらかれらの社会復帰を支える人々にインタビューしているのです。彼らの活動からヒントを得て、大阪で「シャバの空気をおいしくする会」という活動を色々な人とつながりながら行ったりもしています。
私の活動や研究テーマは賛否両論あるもの、だと思います。肯定的にみていただくのも、批判的にみてただくのも、それはあなたの自由です。ただ、批判的な意見を持たれるとしても、刑務所や受刑者の状況や法制度について知ってほしいのです。知ったうえで、批判をしてください。
まず、私が今このような研究や活動するようになったきっかけとなった出来事をお話ししたいと思います。10年くらい前、私は、東北にあるとある小さな地方大学で、犯罪と刑罰に関する刑法という法律を学ぶゼミに所属していました。ある日、そのゼミの活動の一環として、刑務所を見学する機会がありました。私の頭の中には、なんとなく、「犯罪者・受刑者」にたいして、「みるからに悪そうな顔つきの(もしかしたら、頬に傷があるかもしれない)、身体が大きい」イメージがありました。しかし、実際に行ってみたら、刑務所内の工場には、白髪の、小さいからだを寒さでより丸めてヨロヨロと作業にいそしむ高齢者が多かったんです。彼は一日8時間、東北の雪が積もるところにある施設なのに暖房もなく、冷え切った工場でひたすら作業にいそしんでいました。
その光景は私にとって、とても衝撃的でした。
彼らはなぜ、刑務所でこんな暮らしをしているのだろう?私は、刑務官に尋ねました。こたえはこうです。「彼らは、軽い窃盗を何度も何度も繰り返しているんですよ。貧しくて食べるものが買えないんです。食べるものを盗んだり、無銭飲食したり、あるいは、刑務所なら3食食べれますからね。」
私が抱いていた「受刑者=悪人像」は見事に消え去りました。人・お店のものを盗ることや無銭飲食はもちろん犯罪です。彼らが犯罪をしたのは事実です。でも、実際に高齢受刑者を目の当たりにして彼らを2年、3年と刑務所に入れることは行き過ぎているように思えました。今でもそう思います。それから10年間高齢犯罪者の実態と彼らに対する刑罰や刑務所内での生活について研究を重ねてきました。彼らはなぜ犯罪を繰り返すのか?簡単に言ってしまえば、刑務所出所後に行く場所がない、頼る人がいないから、です。でも、もっと奥底には、「自分を大切にすることができなくなっている」という問題があるのだと思います。ひどい生活困窮状態に陥るまでのながれの中で、色々な人や機関に頼ってもうまくいかない、という経験をとおして、「人から大切にされない→自分は大切にされる価値のない人間なのだ→どうなっても良い」という思考のスパイラルにおちいってしまうのではないでしょうか。
様々な法律は、受刑者であろうと、犯罪をしたことのない人だろうと、同様に人権や尊厳が尊重されるとしています。法律のセカイではそのようになっていても、一般的にはこのような考え方は、少数派のようです。むしろ、一般の人々にこのようなお話しをすると、「偏っている」と言われることもしばしばあります。私は、むしろその逆で、受刑者も出所者も一人の人として等しくまわりから大切に扱われなくてはならない、と言っているつもりなのですが…。
「シャバの空気をおいしくする会」の活動を始めたのは2016年春のことです。きっかけは色々ありますが、「偏っている」という誤解を解きたいな、と思ったのもそのひとつです。2016年の活動としては、刑務所と社会を行ったり来たりしている人が置かれている状況について情報を提供し、それについて考えたり、意見を交換するワークショップの開催、出所する人にたいしては、「シャバのあるき方」というペーパーの作成、といったところです。シャバの空気をおいしくしていくためには、社会にいる人たちと刑務所出所者の両方に力をつけてもらうことが必要です。社会にいる人たちには、刑務所を出てきた人の存在を否定しない力を、刑務所から出所した人には社会に居場所を作っていく力を。このように書くと、住む場所や社会保障の話になりそうですが、必ずしもそうとは限りません。
さて、話はフランスに戻ります。今回も、受刑者や刑務所出所者によりそう活動をしている様々な人々にお話しを聞くためにきました。たくさんの人に出会いましたが、特に印象的だったのは、刑務所内で「表現活動」を提供している人々です。フランスでは、刑務所の中に一般の人・団体が入って受刑者によりそうことができます。刑務所の中で絵をかいたり、立体を作ったり、詩を書いたり…。自分の気持ちを表現する活動は彼らにとってとても貴重な時間となります。自分と向き合う時間、コミュニケーションの時間…人それぞれです。
どれも社会で生活するための準備運動として重要なものです。残念ながら日本の刑務所では、「教育」的な活動が多く、そのような自由な表現活動は数少ないのです。刑務所出所者も、若ければすぐに就労することが「良い」とされ、高齢であれば施設でおとなしくしているのが「良い」とされている。いずれにしても、彼は「品行方正」であることが社会から求められているのです。そのために彼らは刑務所出所後、シャバとの熾烈な「闘い」に身を投じなくてはならず、自分と向き合う時間や余裕はないのです。「闘い」に疲れ、「犯罪のスパイラル」に陥っていく人も少なくありません。
「表現」する時間は、コミュニケーションをとるためのツールであり、自分と向き合う時間であり、自分を解放する時間にもなります。いずれにしても、彼らにとってとっても重要です。社会と闘っている受刑者・出所者にたいする「表現」の場が日本でも広がっていくことを切に願っています。そして、このお手紙を読まれたみなさんのうち一人でも多くの方に、「表現」という形での彼らの社会参加に関わっていただきたいのです。
■安田恵美さんって、どんな人?
2013年3月に大阪市立大学大学院法学研究科後期博士課程を修了。2015年4月より國學院大學法学部に専任講師として着任し、現在に至る。大学では、主に刑事政策と犯罪学の講義を担当している。専門は、高齢犯罪者の権利保障と社会復帰に向けた施策に関する日仏比較。大阪では「シャバの空気をおいしくする会」の一員として、市民向けワークショップの開催や刑務所出所者向けのリーフレットの作成等の活動を行っている。 ]]> 2017年7月号 ジェイリンミンダさんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283524 2017-07-14T20:40:40+09:00 2017-07-14T11:40:40Z 2017-07-14T11:40:40Z 日本の体験
私はジェイリンミンダです。亜米利加人です。ウェスタンミシガン大学の学生です。宜しくお願いします。
みんなの日本語を勉強する西洋人はこういう文章を暗記しないと行けません。そのように、日本に留学する時に、正しい道は作ってあります。毎日日本... orchidclub2 大学生・英語の先生
私はジェイリンミンダです。亜米利加人です。ウェスタンミシガン大学の学生です。宜しくお願いします。
みんなの日本語を勉強する西洋人はこういう文章を暗記しないと行けません。そのように、日本に留学する時に、正しい道は作ってあります。毎日日本語の授業に行って、周りの留学生と話したり、遊んだりします。授業に居ない時に祭りに行って、観光し、留学のプログラムの作った無理矢理します。反対に僕は留学した時に、親友と新しい道を作りました。
よく僕は日本語について褒められて、そして、「よく勉強していますね!」とかいわれるけど、僕の本当の習い方は授業も教科書なしでした。英語の表現は「When in Rome, do as the Romans do」で、日本に居たから、日本人のような生活をしたかったです。僕と親友はよく授業をさぼって、遊びに行ったんです。でも、遊ぶと言うことは必ず、日本人と。この親友はスペイン人で、日本語を勉強したことは無かったから、僕はずっ通訳者としていました。そのことによって、僕の話す能力はよく上達できました。
実は、最初に僕は普通と留学生の生活をしたかった。でも、すぐにこのスペイン人と仲良くなって、毎週末激しい遊びに僕をつれって行きました。クラブや、バーや、居酒屋によく行ってしまいました。二人の関係は、このスペイン人は危険な状況を見つけて、僕は日本語によって、守りに行く。
例えば、あの日に、スペイン人と一緒に無料のナイトクラブに行って、僕は日本人の友達できて、一緒に踊ってた。反対に、親友はバーでたくさん飲ませられた。親友を探す時に、その隣の人は高そうなスーツと宝飾を着てる人達でした。そんな早く判断したくなかったけど、安全のため、僕は親友に来て、「ああ、すみません!私の彼女のことです!帰って行ってしまいます...」といいながら、手をつながって逃げました。
この生活はちょっと激しそうけど、価値は本当にあると思います。ことに、他の留学生はできないたくさん経験できました。クラブで会った友達は自動車修理工で、カーショーに苫小牧まで連れて行ってくれた。たくさん楽しい人も、素敵なカイゾされた車もレースを見られました。その上、そういう人達はずっと日本語だけしゃべるから、ずっと勉強になっていました。
一人でも、ちょっと大学のことを無視して、冒険のように探していました。日本人の彼女できて、その時も本当に凄くいい練習できました。授業で習えない言葉をたくさん聞いてる。「振れる」、「チュー」、「ふざける」、「合コン」などは、日本語の教科書には無くて、体験から習った役に立つ言葉です。その付き合いのおかげで、今の付き合いに対しても、友達の付き合いについても話せてきました。
加えて、海外でバイトするのがも、日本語を手伝いました。ずっと先生とALTとして、英語を教えました。その時に英語も日本語で考えてるのが良いことでした。以外は翻訳者のこともできて、それによって、日本語の書き方をたくさん並んで来た。日本語の考えは英語にするのが、本当に日本語の理解を支えました。
僕の留学年はちゃんと精巧ではなかったです。成績はよくなくて、大学の期待をたまに捨ててしまいました。留学生とは仲良くならなかった。けど、僕にとって、体験できるのほうが大事でした。だれでも、流れを従いに行けるけど、新しい世界を見るために、流れの反対に行って。君たちの読者は留学に行きたい日本人でも西洋人でも、本当に体験して欲しいです。一瞬だけでも、学生の世界を忘れて、ちゃんと留学する国に含まれることを許したら、感動して、目を覚めると思います。
■ジェイリンミンダさんって、どんな人?
留学生
男性
亜米利加人
22歳
ウェスタンミシガン大学生
英語の先生
作曲、日本語の専攻
社会言語学専門
臭味は亜米利加のプローゲーマのこと、卓球、演歌、スポーツ
]]> 2017年6月号 ヨシミヅコウイチさんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283523 2017-06-15T00:00:00+09:00 2017-06-14T14:56:32Z 2017-06-14T15:00:00Z だれかがなにかを「装う」ということについて、
こんにちは、
いかがおすごしでしょうか、
と書き出した途端に、もう「ごっこ遊び」が始まってしまっているわけですが、100人を超える詩人のみなさま、しかも「女流」ということは全員女性であるわけです。ことば... orchidclub2 画家
こんにちは、
いかがおすごしでしょうか、
と書き出した途端に、もう「ごっこ遊び」が始まってしまっているわけですが、100人を超える詩人のみなさま、しかも「女流」ということは全員女性であるわけです。ことばなるものと真剣に向き合うことを専らにしている100人超の女性のみなさんに対して、そうしたことをやや疎かにしながら日々暮らしている男としての当方が一体何を語ることができるだろうか、そう考えると全くもって途方にくれてしまいます。
ですがここは気を取り直し、手紙、というヒントをいただいているわけですから、そこは当然男が女性に手紙を書くとなればそれはもう恋文ということになるわけです。そして恋文の本義とは、やはり決定的な真実の光を輝かせないまま、いかにして無内容な作文を綴ることができるかにあるわけです(ほんとかよ)
と、いうわけで、と強引に、例えばみなさま、を「あなた」とおきかえて、つまり「あなた」に向けてお手紙をしたためているのです、と装って、だれかがなにかを「装う」ということについて、少しだけ書いてみたいと思います。
装う、というとやはり装いも新たに、とか季節の装いを身に纏って、というように女性が自らを美しく演出するというような華やかな香りが漂います。つまりこれはお召し物の話です。また化粧というのも当然装いであり、最近は日常的に化粧をする男もいるらしいですが、当方は一切そういうことに疎いタイプということになります。むしろ換喩的にズレていくタイプなので、よそう?と聞き違えて装いは二の次に子供のためにご飯をよそう女性の姿、あるいはその手の内にある器、そこに盛られた白い飯、そんなものを想像してしまうのですが、つまりは単に食い意地が張っているだけなのです。
それはさておき、例えば新装開店、と書くとややタバコ臭くなってまいります。装備とか装填、と書くと厳めしい男所帯の火薬の臭いが、或いは偽装、と書くとかなり邪な感じがしてくるわけです。おなじ「装」という漢字でも、こちらは何と言いますか男くさいといいますか、嘘とか虚構とか良からぬものの匂いといいますか、どこか犯罪的な感じもしてくるわけです。
ですが、うそ、というと何故でしょう、何か女性のほうが男よりも長けている、そんな印象もあるのです。うそ泣き、というのは女性がするものでしょう。個人的な経験から来る間違った印象(!)かもしれませんが、どうもいつも騙されているのは男のほうであって、最近はやりのダーティーな心理学ものとか、メンタル何とかみたいなハウツーもの、そういうものを読んでいるのはたいてい男で勤め人で、という感じがして、我々男はそうした作戦によってかろうじて女性に対抗しているに過ぎない、勝利しているのはいつも女性である、そんな気が致します。男の場合は、うそ、というよりも、えせ、似非、ですね、つまり似て非なるものを装って、こそこそと忍び寄っていく、そんな感じでしょうか。総じて詐欺師的といいますか、適当な作り話をでっち上げて、我田引水、自分の土俵にするすると引きずり込む、そんなところがせいぜいです。ですから、女詐欺師(女流詐欺師?!)というのは、女性的なうそと、男性的なえせと、双方をあわせ持つ、ある種の最強の登場人物ということになるかもしれませんが、それはまた、別のお話し、と致しましょう。
男が聞いた風な話を始めますと、大抵ウソ臭くなってきます。やはり匂う、臭う?多分うそが香る、薫ることはなさそうですね。うそを見破るのは女のほうであって、男の語りというのはいつだってウソ臭いのです。おそらく女性にとって、男が何事かを語るふるまいは、嗅覚に訴えかける何かであるようなのですが、そこはあなたのお考えをぜひともお伺いしたいところです。
そういえば、あの有名な物語の登場人物は匂とか薫という名前でありましたし、この二人の男の間でゆれ動くヒロインは、男たちの不実を疑い、おのれの不義を恥じながら、水面に浮かぶ小舟のようにゆらゆらと漂うばかりでありました。そしてそんな物語を1000年以上前に物語ったのは、なるほどこれは女性であったわけです。ですが真っ赤なウソ、ということばもありますから、こちらは大いに視覚的な表現でありまして、私の仮説は脆くも崩れ去ってしまうばかりということになります。
一方、女のうそを見破るのはやはり同性である別の女性、或いは男であるなら例えば刑事とか探偵とかジャーナリストといったような特殊な職能を持った存在でありまして、これはつまり真実を暴きたてる者、であります。言わなくてもいいことをあえて言ってしまう存在ですから、性格が悪いといわれたり、ヤボなことをあえて口にするような男なので、これはやはり女性にはモテない、ということになっている様です。
つまり女性は一般にうそを見破るが、男がうそを見抜くにはやはり特殊な技能がいるということです。ですが昨今は「女性上位時代」なんてことばがかつてあり、「草食系男子」といういい草があるように、ある種の「男らしさ」がスポイルされつつある時代であるわけです。これはどうやら近代というシステムが否応なく孕んでいる何かであるらしく、ここ数年というスパンではなく、ここ100年来、という中で、緩やかに起きつつあることのようです。
例えば夏目漱石の小説に『三四郎』というのがあります。この小説の主人公=三四郎は、「索引の附いている人の心さえ中ててみようとなさらない呑気な方」だとヒロインにズバリいわれてしまう、それこそ草食系男子の走りみたいな男であります。で、この小説のなかにこんな台詞があります。
「同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋お七時代の恋だ…(中略)…何故というに。二十前後の同い年の男女を並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。男はばかにされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね……(後略)」
なるほど明治時代の昔からこんなでしたか、と、まさしく目から鱗でありまして、たまたま最近全く別の興味から読んでみたのですが、教養がないというのは罪深いことだ、と反省している次第であります。
そんな時代であるが故に逆に「ツンデレ」などというキャラクター造形が出てくる、ということかもしれません。ツン=男まさりと見せた積極的な誘惑のアプローチ/デレ=結局乙女、というこのシステムは、こういう仕掛けになってますよという「振り」であるわけで、そう、結局プロセスはどうあれ男は乙女にたどり着くほかはない、というこれまたごく当たり前の結論にたどりつくしかないのです。
大分横道にそれました。ともあれ装うという言葉には、本体そのものとそれを覆い隠すように存在する外側との最低でも二段構えの、ある種の二重性を前提としていることになります。本体とそれ以外、つまり外部に対して防御的に身代わり的に作用する何か、昨今のLINEやSNSといったテクノロジーはまさしくそうした二重性を補填する、優れて今日的な何か、なのでありましょう。
ともあれわれわれは膨大な量の装いの文化というものと延々と作り出してきたということの様であり、多くの人はそれを多かれ少なかれ受け入れつつ生まれ、生き、そして死んでいく、ということを繰り返してきたことだけは間違いがないでしょう。本来、あなたが感じているようにわたしも感じている、などということは厳密にはあり得ないわけですが、虚構としての共感を装いによって獲得し、ある種の共同性というものを維持運営してきたということでしょうか。そしてことばを獲得したことによってやがて内面なるものを獲得し、ある種の二重性の中を生きていくことを強いられながらも、声の肌理であるとか、ふいに作動する無根拠な身振りのようなものを改めて獲得しつつある、今はそんな時代でもあるかもしれません。装われた共感を蒸発させてしまう空っぽの身振り手振り、またはその連なりのようなもの?
共感、と言ってしまえばあらゆる表現手段はただそのことだけに賭けられているともいえるわけで、人様の共感を得るための作法、そうしたある種の表現系一般としての装い、真実には決してたどり着けないものの、ある種のかりそめの共感を織りなすことによってかろうじて今ここにいることができる、ということかもしれません。
これは私の個人的なことになりますが、わたしにはどちらかというとあえて人様の共感を得られないような方向にハンドルをついつい切ってしまうという心の癖のようなものがありまして、それはつまり装いの亜種としての偽装であり、個性的であろうとする凡庸さであり、平凡であることを忌避する振る舞い、であるわけですが、そのことによって共感の機会を大いに失ってきたような気がしており、実際そうであったでしょう。であるならば逆に、平凡であることを専らにすれば共感の機会も増えるのではないか、というようなことを最近は考えておるのです。またそうした機会とはいわば装いがはらはらと外れていく、そんな武装解除の瞬間でもあるような気がしており、そう考えるとなるほど世界の秘密というものはいつでもごくごく単純なものであるのだなぁ、と、やや既視感にさいなまれつつ、ひとり言ちているのです。
なんてことをぼんやり考えながら、これはほんとうについ数日前のことですが、酒でも飲むべしと最寄り駅近隣のターミナル駅で下車すると、改札前で、大学時代の恩師が入場して来るのにバッタリ出くわしてしまいます。最近どうしてるの?と問われ、ちょっと人様の共感を得るための作法、というものを勉強しております、と答えると、ああそうだねえ、キミはそれを学んだほうがいいよねぇ、と納得されてしまいまして、まったく困ったもんです。積もる話をとも思いつつなんせお忙しい方なのでご遠慮申し上げ、実際その日もなにかの講演だったらしいのですが、取り急ぎ恩師の近著を拝読して共感したというようなやり取りをし、何かあったらまた学校のほうに郵便を送ってください、そう仰っていただき、その場はそれで数分で別れたのです。
自宅への道すがら、そういえば折に触れ、恩師にはそうしたことを言われて来たような気がして、なるほど忠告というものは言えばわかるというものではなく、最後は本人の気付きの時宜でしかないのだ、という至極当たり前の結論に達したというようなありさまで、それでもそのような時宜でうっかり出くわすワケですから、なるほど「縁」というものはあるのかもしれない、そんなことを考えさせられる出来事ではありました……
……といった感じで、わたしはいくらかでもあなたの共感を得ることが、はたしてできたのでありましょうか。何やら意味ありげなこと、内容のある事をくどくど書き連ねてしまったような気がして、大いに心もとないわけですがさてさて、お叱りを受けないうちにこの辺で、退散するに若くは無し、ということでございます。
どうぞお健やかに。
ごきげんよう。
■ヨシミヅコウイチさんて、どんな人?
ヨシミヅコウイチ/由水孝一/画家
1969年神奈川県川崎市生。1989年から15年ほど京都、のち東下り現在埼玉在住。現代美術系平面作品を専らにする画家、1997年ОギャラリーUP・S(東京)にて初個展、以後各所にて個展等。一頃屏風に入れ込む。2011年BOOK ART 2011にて初映像作品「散漫な思考 散漫な映像 散漫な読書 散漫な観客」を発表。最近は映像作品の設計図としての脚本のお勉強をコッソリとしている。但しその実態は単なる不良中年にすぎない。 https://www.youtube.com/watch?v=Rj-1CUvv-Ts
]]> 2017年4月号 アワポンさんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283522 2017-04-15T00:00:00+09:00 2017-04-14T15:09:24Z 2017-04-14T15:00:00Z 蘭の会のみなさまはじめまして。
アワポンと申します。
なにをしてる人なん、と聞かれていつも困っています。
わたしが大事にしていることは、
ぱっと見るととてもばらばらなのですが、
一応ひとつ、ずっとつながっているテーマがあって、
そのことを、ちょっと... orchidclub2 シチュアシオニスト
アワポンと申します。
なにをしてる人なん、と聞かれていつも困っています。
わたしが大事にしていることは、
ぱっと見るととてもばらばらなのですが、
一応ひとつ、ずっとつながっているテーマがあって、
そのことを、ちょっとだけ。
世界が生まれる「ひとつまえ」に、
勇気を出して目を凝らし、耳を傾けると、
なまなましい、知りたくなかったけど、
いちばん探していたエネルギーが佇んでいる。
その世界を知らずに一生逃げ回ることをしあわせと呼ぶのかもしれない。
でも、一度その世界を知ってしまうと、逃げることはもうできなくなる。
おなじなのにちがう、ちがうのにおなじ、それはひとつまえ。
だいきらいはだいすきで、だいすきはだいきらい。それはひとつうえ。
ときどき、
そんなことも全部ぶっとんで
360度ぐるりと景色がせまってくる。
すべてはその瞬間のために。
■アワポンさんって、どんな人?
1979年兵庫生まれ。10歳の息子と2人暮らし。
物事の「ひとつまえ」をととのえたり、問いかけることをライフワークにしています。
フランス語の「シチュアシオニスト」ということばを最近知って、
これが肩書にぴったりくるかなぁ、でもちょっとちがうなと悩んでいます。
音楽畑出身でありながら、その経歴をぶっとばし、
人生の謎を追ううちにいつのまにやら闇鍋な人生。
鍋の具材は、形而上の世界と形而下の世界をまじめにつなぐヒントたち。
西洋占星術、ホリスティックな体の整え方、菜食、哲学、心理学、シャーマニズム、民俗学、
サブカルチャー、普段着着物、オルタナティブな学びについて、などなど。
手仕事をしながら「?」を「!」にひっくりかえすのが好き。
だいぶ煮えてきましたので、5月に文学フリマに出店予定です。
2015年末より、ココルームにお邪魔して働いています。
ブログはこちら
http://dreaming-is-as-natural-as-living.blogspot.jp/ ]]> 2017年3月号 瓜生智子(うりうさとこ)さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283521 2017-03-15T00:00:00+09:00 2017-03-14T15:02:21Z 2017-03-14T15:00:00Z 蘭の会の皆様
こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶、瓜生智子と申します。
まだ顔も見ぬみなさまへどんなお手紙を書かせていただこうかと、考えあぐねておりましたが、変に肩肘を張らず、最近よく考えていることを、想いのままにつらつらと書かせていただこうと... orchidclub2 僧侶
こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶、瓜生智子と申します。
まだ顔も見ぬみなさまへどんなお手紙を書かせていただこうかと、考えあぐねておりましたが、変に肩肘を張らず、最近よく考えていることを、想いのままにつらつらと書かせていただこうと思います。
最近「愛する」とは一体どのようなことなのだろうか、と考えることがございます。皆様は、どんな風にお考えでしょうか。
「愛するとは、その存在をそのままに受け止めること」
様々な方や本とのであいの中で、今の私に一番しっくりときた言葉でありました。
そして、同時に愛するということの難しさを教えてもらった言葉でもありました。お恥ずかしいことに、自らのことを振り返ると、相手に対して「こうあって欲しい」「ここを変えてくれないかな」「もう少しこうだったらいいのに」とその人の存在をそのまま受け止めることと、真逆なあり方をしてきた自分に気づかされました。
では、存在ごと受け止められるとは、一体どういったことなのだろうか。と考えますと、ふと、小さい頃に父が話してくれた大地の働きの話を思い出しました。それはこんな話でした。
父「失敗や挫折から立ち直るには何が必要だと思う?」
私「うーん、私が頑張ることかな?」
父「そうだね、それもあるかもしれないね。でも、立ち上がる時、踏ん張る時にそもそも大地がないと立ち上がれなくないかな?私たちは大地があってどこか当たり前と思っているけどそうじゃないんだよね。その上、大地は、この人が好きだから、嫌いだからと区別はしない。この私に変わって欲しい、と…こうして欲しい、と…あぁして欲しい、と言わない。なんとも言わずに、ただただひたすら支えてくれているのが大地なんだよ。だから感謝していかなきゃいけないね。」
という話でした。その話を聞いた時には、ふーんとしか聞けていなかったのですが、今になってこのことを思い出したのでした。そして改めて考えてゆくと、その大地の働きは、きっと生きているうちも、死という形へ私達の姿が変わっても大地は、そのままに私たちを受け止め続けてくれているのでしょう。
そんなことを思うと、私が気づかぬうちに「私そのままを受け止めてくれる存在とであっておったのだなぁ…」と不思議な気持ちになるのでありました。そして、それと同時に、じゃぁ、そこを教えてもらった私はどう生きていくのか。ということを問われているようにも思うのであります。きっと大地の働きの様にはいかないかもしれない。でも、それでもそんな生き方にが出来たらなぁ…とせめてつまづきながらも出会いの中の1つ1つに「愛する」を生きていけたらと思う今日この頃であります。
そして最後に「詩」には実は、そんな「愛する」がたくさん込められている気が勝手にするのであります。今のこの私を愛するということ、人を愛するということ、人生を愛するということ、世界を愛するということ…。詩を作られている方々は、今の私という存在、良しも悪しも、美も醜もこの一瞬を全力で受け止めてらっしゃる方々の様に感じております。勿論、これは私の勝手な邪推に他なりませんが、だからこそ、詩に出会わせてもらった時に、なんとも言えない安心感をいただく様に思うのです。そして、そんな皆様の在り方に憧れずにはおれません。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
いつの日か、皆様と直接におであいできる日、楽しみさせていただいております。
合掌
■瓜生智子さんって、どんな人?
浄土真宗本願寺派僧侶。日本ヨガセラピストスクールヨガインストラクター。1987年、福岡生まれ。大学で社会学コミュニティマネジメント、大学院で真宗学を専攻。2013年までグリーフケアに携わる一般社団法人リヴオンに勤務。現在は浄土真宗本願寺派勤務。
週末は、影絵を使った布教団体「ともしえ」で全国のお寺を訪問したり、若手僧侶の集まりである「カンゾー」で死をカジュアルに語り合うDeathカフェを関西の寺院を中心として開催。
]]> 2017年2月号 観野健太郎(かんのけんたろう)さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283520 2017-02-15T00:00:00+09:00 2017-02-14T13:44:18Z 2017-02-14T15:00:00Z 蘭の会の皆様初めまして。
観野健太郎といいます。
きっかけを頂いて皆様に手紙を書くことになり、詩ってなんだろう自分から溢れてくる言葉?なぜ詩を書くのだろう?などと答えがないことを考えたり、子供の頃は授業で詩を書いたり、俳句を詠んだり、大学生の頃はバ... orchidclub2 税理士
観野健太郎といいます。
きっかけを頂いて皆様に手紙を書くことになり、詩ってなんだろう自分から溢れてくる言葉?なぜ詩を書くのだろう?などと答えがないことを考えたり、子供の頃は授業で詩を書いたり、俳句を詠んだり、大学生の頃はバンドで曲を作ったりと、意外と創作活動をしていたなと思い出がよみがえってきました。
34歳になり、生活の中で創作することも減ったのかなと思っています。
最近は料理を作ることや本を読むこと、自転車に乗ることなどで生活を楽しんでいます。
新しい料理を作ったり、新しい自転車のルートを開拓したりと、作ることは日々続いていますが、考えが溢れてくることを楽しむというよりかは、おいしかったり、懐かしい味だったり、景色が綺麗だったり、幼少の頃見た景色が思い出されたりと、作ることで、記憶の中の何かを頼りに楽しんでいるような感じがします。
時間軸的には小さい頃に比べて生きることができる時間は減っています。
これから食べることができるご飯の量も減っています。
将来のことを考えることができる時間も減っています。
その分飲んだビールの量が増えて、
いろんな人と話した時間が増えて、
これまでの思い出も増えているはずです。
思い出が増えることで創作する時間は懐古する時間に取り変わっているのかなとふと思いました。
かくいう私も事あるごとに懐かしい気分に浸ってしまうので、思い出と創作は反比例するというのは嘘ではないのかもしれません。
そんなことを考えていたら、小さいころの記憶が思い出され、いい機会なのでここに記したいと思います。
? 料理の記憶
始めて料理を作ったのは3歳位だと思います。
おおぶりにザクザク切られた人参とピーマンが入った焼き飯を作りました。
椅子に乗ってご飯を炒めています。
生まれた時から5歳位までは団地(公団)に住んでいました。 (団地というのは何棟かの同じような建物が一団で建っているのを指すようで、私が住んでいたのは一棟建てで、これは団地ではなく公団住宅というそうです。) そのためか、団地や公団を見るのが今でも好きです。
で、この記憶では台所が玄関側の廊下に面した所にあるので、公団の記憶だと思います。
焼き飯の味は覚えていませんが、台所の窓から光がさしています。
一度、当時住んでいた公団を見に行ったことがあるのですが、玄関側の廊下は東側にあったので、焼き飯を作ったのはお昼前のことかなと思います。
これが私の初めて料理をした時の記憶です。
? 渡し船の記憶 よく市営のプールに連れて行ってもらっていました。
プールに行き、泳いで、カップラーメンを食べます。
プールに行く時は自転車で向かいます。
途中渡し船に乗り、人工島の間にある川を渡ります。
現在の知識で穴埋めすると、公団が大阪市港区にあり、プールが大阪市大正区にありました。
この地域は港に面した地域で、隣同士の地域でも川で分断されていたりします。
そのため市が運営する渡船が運行されています。
? 父親と自転車で祖父の家へ
ある日、どんな成り行きか忘れましたが、祖父の家へ自転車で向かいました。
私は買ってもらった自転車で父の後ろをついてきました。
これについては行った記憶がありますが、到着して、自宅に戻った記憶はありません。
翌日おしりが痛かった記憶はあります。
これについても地理的なところを現在の知識で穴埋めすると自宅が大阪市港区で、祖父の家が大阪市の城東区というところにあります。
ついでにネットの地図で調べると、片道約10キロほどあるようです。
? 父と港へ
先にも述べたとおり、港の近くに住んでいました。
港とは言うものの横浜のような洒落たところではなく、工場地帯で小さい船の工場や材木置き場などがある少し怖いところだったと思います。
父が運転する自転車に乗せられて港に行きました。
港の端っこのところで、自転車が止まります。
ここで父はブレーキを一瞬離して、海に落ちそうになります。
ハンドル部分に取り付けられた子供用シートに座っていた私は大層怖かった記憶があります。
終わりに
まだまだあるのですが際限がないので、この辺で留めておきます。
意外と父との記憶が多いです。父は調理師で、土日祝日が休みという職業ではなく、それが子供心に寂しかったのですが、今考えるとしっかりと遊んでもらっていたようです。
母が弟を出産するときも父親と過ごした記憶があります。
今自転車が好きなのはこの頃の影響でしょうか。
料理が好きなのも父親の影響かもしれません。
気分屋で意外と大雑把なところは母親に似ています。
現在私は税理士として事務所を開業しています。
趣味は料理を作ることと、自転車に乗ること。あとは公団のような大きな建物を見ること。
両親と小さい頃の経験に影響を受けつつ、仕事だけはなんだか影響を受けていなくて、しっくりこないのはそういうことかなと思ったりもしましたが、よくよく考えると祖父は漁師や商店主で、父親も一般的なサラリーマンではないというところで、自営業を選んだ時点で、やはり影響を受けているのかなと少し安心しました。
■観野健太郎さんって、どんな人?
昭和56年11月7日生まれ
大阪市港区で8歳位まで過ごした後に長野県大町市へ父親の転勤で引っ越す。
中学生からは奈良県の生駒市というところで過ごし、大阪府内の大学へ。
就職活動のタイミングが分からずそのまま大学を卒業。
成り行きで税理士資格を取得し、会計事務所やコンサルティング会社でのサラリーマンを経て、税理士事務所を開業。
週一回、毎週水曜日には西成区の「ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム」にてスリランカカレー屋を出店中。 ]]> 2017年1月号 門田表(かどたひょう)さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283519 2017-01-15T00:00:00+09:00 2017-01-14T14:57:12Z 2017-01-14T15:00:00Z 【私たちに似たどっかのだれかさんへ】
毎日ミライについて、
どっかのだれかさんから噂を聞きます。
わたしたちのみらいと違うので
毎日何かがおかしいと思います。
何がおかしいかは、よく分かりません。
どっかの誰かさんのミライがおかしいのかもしれ... orchidclub2 パーマカルチャリスト
毎日ミライについて、
どっかのだれかさんから噂を聞きます。
わたしたちのみらいと違うので
毎日何かがおかしいと思います。
何がおかしいかは、よく分かりません。
どっかの誰かさんのミライがおかしいのかもしれないし、
私たちのみらいがおかしいのかもしれません。
遠くの国でたくさん人が死にました。
どっかのだれかさんは、このままだとミライは
世界中戦争になると言ったり、もうとっくに戦争中だと言います。
どっかのだれかさんは、地球がもう壊れそうだと言います。
人類が沢山資源を取って地球を汚してしまったからだそうです。
このままではミライの地球には人類が住めないそうです。
戦争したり、資源を取りすぎたりすると、
世界中から愛が減ってしまうらしいです。
どっかのだれかさんが言うミライでは
弱い立場の子どもやお年寄りが死んでいくと言いました。
それは、私たちのみらいとは違うかもしれません。
私たちは忙しいんです。
未来を考えるのに。遠くの国へバカンスの計画をしなければいけません。
なので遠くの国でも戦争なんてしたくないに決まってます。
私たちは忙しいんです。
未来の私たちの食べものや資源を作らねばなりませんから。
なので地球が壊れるようなことは、減らしたいに決まってます。
私たちは忙しいんです。
未来の私たちや子どもたちの為に愛を学ばないといけないんですから。
つまり、私たちの未来のことを考えなきゃいけないので、
どっかのだれかさんの言う未来について考えてる暇は無いんです。
あまり変なうわさを流さないでくださいね。
私たちに似たどっかのだれかさん。
【生活】
命が大切にされることは、
誰にとっても役に立つことです。
みんなで生きていくことは時に難しいでしょう。
誰もが幸せになりたいです。そして、考えることが一緒の人間なんていないから、喧嘩や争いも時には起きてしまいます。
それでも、
なるべく誰かを助けたい。
それができなくても、誰かを傷つけないようにすることだってできるはずです。
みんなずっと幸せが続けばいいと思っています。
だけど、ずっと同じことなんてなくて何もかもが少しづつ、時に大きく、変わっていきます。
世界を変えるなんてことはできなくても、
1日1日を大切に生活していく。
愛や勇気といった口に出すにはちょっぴり恥ずかしいことをみんなで小さいことから、学ばないといけないと思います。
■ 門田 表(かどた ひょう)さんって、どんな人?
1984年生まれ。東淀川の障がい者のグループホームで働きながら、コミュニティハウスはらいふにて、パーマカルチャーをテーマに生きている。好きなことは読書や庭いじり、ギターや料理もちょっとだけ。 ]]> 2016年11月号 赤井郁夫さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283518 2016-11-15T00:00:00+09:00 2016-11-14T15:01:16Z 2016-11-14T15:00:00Z 皆さま はじめまして。
私の住んでいる尼崎市は昭和30年代以降の高度経済成長期に公害に苦しみ、最近は工場が減って人口も減り阪神淡路大震災の後、人口が阪神間の自治体の中で未だに回復しない唯一の自治体です。
そんなお疲れ気味の尼崎市で「哲学カフェ」を根付... orchidclub2 むこ哲カフェマスター
私の住んでいる尼崎市は昭和30年代以降の高度経済成長期に公害に苦しみ、最近は工場が減って人口も減り阪神淡路大震災の後、人口が阪神間の自治体の中で未だに回復しない唯一の自治体です。
そんなお疲れ気味の尼崎市で「哲学カフェ」を根付かせたいと活動を始めて3年、今日は私が哲学カフェについて考えていることをお話しします。
◆「哲学カフェ」に行ってみませんか。
哲学カフェでゆっくりお茶を飲みながらあなたの思うことを話してみると、みんながちゃんと聞いてくれます。それは快感です。
他の人の意見に耳を澄ませてみます。何を伝えたいのか、しっかりと聞いていると豊かな時間が過ぎて行きます。
全国各地で哲学カフェが行われるようになりました。哲学カフェと言う名前を聞かれたり実際に参加されたりした方もいらっしゃると思います。
でもまだ哲学カフェは敷居が高いなと感じる方が多いのではないかと思います。
「哲学」と言う言葉が固苦しく、もう少し親しみやすい名称がないものかと思ったりしています。
勇気を出して初めて参加した哲学カフェ、緊張されたのではないでしょうか。私も初めて参加した時は何も発言せずに様子を窺うようにして2時間を過ごしました。後から思えばそこまで固くならなくても良かったと思いますが何しろ様子が分からず、黙り込んで様子見をせざるを得なかったのです。
「哲学カフェ」とはどんな場所なのでしょう、何が起こっているのでしょう。
哲学カフェから帰る道、あなたは今しがたあったことを思い出しています。
あなたの言ったことが伝わった満足感か、伝わらなかったモヤモヤ感か。
他の人の意見、あなたには考えられないような意見に出会ってビックリしたか、それともわけがわからない、という混乱でしょうか。
◆哲学カフェはこんなところです。
哲学カフェにはテーマと簡単なルールがいくつかあり、進行役がいます。参加者の自己紹介はしないことが多く、時間を区切って行われ結論を求めません。仕組みはこれだけです。
哲学についての知識などは必要ありません。日常生活とは少し違うこの簡単な仕掛けが、自分一人だけで考えていると陥ってしまいがちな堂々巡りから抜け出す切っ掛けを与えてくれます。
哲学カフェはテーマについての色々な意見が出る場です。同時に人はそれぞれどのようにテーマにアプローチし、何を前提にしてどう考えるのか、「多様な考え方」が披露される場でもあります。
自分には出来そうもない考え方や発想に導かれた意見を聞くと、意見そのものよりもその考え方に感心することがあります。
「あっ、そういうふうに考えてもいいんだ」と自分にはなぜか越えられなかった一線を簡単に越えた考え方をポンと示されると、テーマがあなたの興味に合うか合わないかに関係なく、考えを深める切っ掛けになることがあります。
私は「哲学カフェ」をかつて戦国武将たちが鎧兜を脱ぎ、刀を置き一服の茶の前にだれもが対等であったと言う茶の湯に喩えることがあります。
対等と言う関係は実現が難しいものです。日常生活での親子関係、師弟関係、上下関係などの人間関係は、なにか特別な仕組みがないとなかなか解除できないようです。
日常生活を離れて、時間と場所を限定し名も知らぬ人たちと目の前のテーマに集中する、進行役がいて安全かつ安心して発言できることが確保されている、そのような場にあって対等な関係が実現できるのだと思います。
哲学カフェにはいくつか簡単なルールがあります。そのひとつが、今お話しした対等な対場で参加するというものです。参加者は対等な立場に立ち先生も生徒もありません。
哲学カフェはテーマについて話し合うためだけにその時だけできたコミュニティーです。
参加者が日常をどのように送っているのかなどは関係ありません。
その場に出された意見だけに集中して、みんなでそれらを吟味していきます。
一期一会です。ほら、まるでお茶席のようでしょう。
◆みんなで考える
哲学カフェでは何が行われ、何が起こっているのでしょう。
哲学カフェは哲学的対話の実践の場です。色々な哲学的対話法が工夫されていますが、哲学カフェは対話しながらみんなで考えると言うことを気軽にやってみよう、というものです。
哲学カフェでの対話の様子を少し再現してみましょう。
?.まず参加者にテーマについて思いつくことを出してもらいます。
テーマが「成長」で、例えば「成長と言う字は<長く成る>と書くのはなぜだろう」という問いが参加者から出されたとします。…テーマを字面で捉えると言う発想は面白いですね。参加者が「えっ」と思うような発想、考え方に出会える楽しい始まりです。
?.次に、この問いについて様々な考えを出して行きます。
例えばだれかが「子どもや植物の生長は大きくなったり背が伸びたりはするけど、長くはならないなあ」と言います。話を続けて行くうちに、「<長く成る>のは生まれてからや芽を出してからの時間じゃないかな。」とだれかが言います。
なるほど。成長とは(身体や茎は関係なく)生まれたり始まったりしてからの時間が長くなることなので「成長」と書く…のではないか。これは問いに対する一つの答えになるかもしれません。
?.そこで、みんなで寄ってたかってこれ(命題:成長とは始まりからの時間が長くなること)を検証します。
だれかが新入社員の例を挙げます。2年3年と経験を積み一人前になって行くことを成長と言っても差し支えないでしょう。他の人がスポーツを始めた人の例を挙げます。数年のうちにスキルを身につけることも成長と言うでしょう。
さらに、経済成長はどうでしょう、これもある時点からの経過を元に比較するもので時間が関係しているようです。あるいは別の視点から退化あるいは老化はどうか、この場合も時間の経過が関係しているのでこれも一種の成長と言い得るのではないか、などとみんなで考えて行きます。
このように検討を重ね、成長には「物事が始まってから時間が経つことが間違いなく関係している」という意見に異論がないならば、成長のひとつの特徴として合意ができたことになります。…実際にはこんなに一直線に進む事はないのですが。
みんなでテーマに関するこのような命題をたくさん出して検討して行くと、やがてそれらが参加者それぞれの「成長」についての考えをより鮮明に、詳細に、豊かにして行く事に繋がります。
哲学カフェで活発な検討を重ねていると、なんだか他人の頭を使って考えているような感覚を覚える事があります。他人と一緒に考えていることが実感できると、他人ってなんてありがたい存在なのか、と思わされます。
◆日常の対話
皆さま、いかがでしたか。
哲学カフェで何が起こっているのか、お伝えできたでしょうか。
皆さんの日常生活では対話は身近なものですか。
私は以前に一度、とても楽しい対話を味わった事がありました。その時の楽しさを忘れる事が出来ずにいたところ哲学カフェや哲学的対話に出会い、これこそが私がやりたい事だったと感じました。そして今は次のように考えています。
私を含め多くの人が学校生活や社会生活で対話のスキルを磨くチャンスが少なく、対話の楽しさを味わう事も少ない。みんなで考えると言うことは一般的ではないのではないか。
そして、日常的で気軽に楽しめるカフェ文化として哲学カフェを根付かせることができればかつて私が味わった楽しい対話体験をたくさんの人に知ってもらえるのではないか、ひいては少しづつでも対話の知識や経験がこの社会に蓄積できるのではないか、と考えています。
長々と書いてしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。
拙い文ですが、哲学カフェに感心をお持ちいただき、お近くの哲学カフェに参加していただく切っ掛けとなればければ幸いです。
■赤井郁夫(あかい いくお)さんって、どんな人?
昭和31年11月7日生まれ 兵庫県尼崎市在住
2010年初めて哲学カフェに参加。哲学カフェの普及活動を行う「カフェフィロ」が主催する哲学ファシリテーター入門講座などを受講の後、尼崎市北西部にある阪急電鉄武庫之荘駅周辺で哲学カフェを始める。現在月に5〜6回の哲学カフェを開催、進行役を務める。
武庫之荘哲学カフェ運営委員会代表。
以心伝心心〜むこのそう哲学カフェ〜
]]> 2016年10月号 勝見幸二さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283517 2016-10-15T00:00:00+09:00 2016-10-14T14:59:06Z 2016-10-14T15:00:00Z 女の人について
こんにちは、初めて蘭の会の詩人の方々に手紙を書きます。勝見幸二と申します。今、私は、ひきこもりの四十四歳です。二十年以上、ひきこもりですが、外には出られるので、映画館で映画を観たり、本屋に行くことはあります。十年以上前に、ある知り合... orchidclub2 人間
こんにちは、初めて蘭の会の詩人の方々に手紙を書きます。勝見幸二と申します。今、私は、ひきこもりの四十四歳です。二十年以上、ひきこもりですが、外には出られるので、映画館で映画を観たり、本屋に行くことはあります。十年以上前に、ある知り合いから、仕事を紹介してもらって、週に二日、土曜と日曜に働いています。店主は、私が、ひきこもりであることを、わかった上で、雇ってくれました。有り難かったです。
ひきこもりで四十四歳なので、きつい状況です。先のことを考えなくてはならないのですが、先のことを考えると、うつ病になってしまい、先のことを考えることを、止めました。私は、どのようなことになっても、行けるところまで行って、死ぬまで生きるつもりです。うつ病にならないため、今を大事に生きています。
女流詩人 蘭の会とあるので、私が思っている女の人について書こうと思いましたが、あまりにも女の人は、千差万別なので、これと言って、一つのイメージで女の人を語ることは、難しいと感じました。私は、あまり言いたくないのですが,恋愛経験が乏しいのですが、ここで、恋愛経験が無いと言う勇気はありませんので、四十四歳の私ですが、二、三回の恋愛経験があったことで、許してください。
ここで、蘭の会のみなさまに書くのは、恋愛の話もありますが、それよりも、どのような女の人と出会ってきたのかを書こうと思います。それで、女の人のことが、わかったとは思っていません。私にとって女の人は、未知との遭遇です。異星人に近いのです。だから、女の人に興味を持ち続けるのです。私にとって女の人は、好奇心そのものです。
先程書きましたが、私はアルバイトで、週に二日、土曜と日曜に働いています。すし食堂です。(そのような店名は、ありません。)その店で十年以上、働いていますが、スタッフは、ほとんど女の人です。大将(男)がいまして、その母親の大女将がいまして八十代後半です。この大女将には、よく叱られ、怒られましたが、仕事が終わって、帰る時にはいつも巻き寿司などをもらいました。
私は、このすし食堂で働いていても、仕事が覚えられなくて、覚えるのに半年以上かかりましたが、誰一人文句を言う女性スタッフはいませんでした。出来ることだけをしていました。テーブルにある食器の後片付けに、集中していました。女性スタッフは、五十代、六十代、七十代といましたが、私に対して、きつい言葉ではなく、優しい言葉ばかりもらいました。
店は、午前十一時半から、午後一時までが、一番忙しい時間になり、客がいっぱいやって来ます。その時、定食の寿司が無くなり、客は、寿司ができるまで、待たなければならなくて、怒る客も出て来て、そのことで、焦っている時に、一人の女性スタッフが、どんとしていて、気構えがあって、客が怒っていても、笑っていました。「定食の寿司ができていないなら待つしかない。客は怒らせておけばいい。客がいくら怒っても、すぐに、寿司はできないのだから。」と言って、また笑っていました。私は、その女性スタッフの言葉で、焦ることを止めて、寿司ができるまで待ちました。結局客は、怒りながら寿司を待っていましたが、私は、その時「もうすぐ、寿司はできますので、すみません」と言いました。客は、その後、寿司とうどんの定食を食べて、帰って行きました。
これは、一つの話しです。色々と、女性スタッフのみなさんには、助けてもらいました。
私は、そのすし食堂では、ウェイターをしています。
七十代の女性スタッフと、少しした、接客のやり方について、喧嘩をしたこともありましたが、後で、私がその女性スタッフに謝ると、その女の人は「私も悪かった」と言って、仲良くなりました。
思ったことは、この職場の女性スタッフの人たちは、年齢は、五十代、六十代、七十代でしたが、悟っているとは言わないまでも、肝が据わっていると言うか、動じない印象があって、そのことは、凄いなと思います。今も、私は、すし食堂で働いていますが、動じないというのは無理で、いつも焦っていますが、それなりに緊張しながらも働いています。
短い話しになると思いましたが、長くなるので、しんどくなったら、無理に読まなくてもいいですが、私は書き続けます。
次に、印象に残った女の人は、十年以上前の人になります。今、私が四十四歳なので、三十歳位の時です。
その頃、私は、ひきこもりの人たちが集まる交流広場に参加していました。そこで、週に一回、ボランティアスタッフとして参加した海子さん(仮名)と知りあいました。当時、海子さんは、五十代後半の団塊の世代の人で、ビートたけしと同い年です。
この海子さんとは、話しが合って、よく居酒屋に行って、酒を飲んで話しました。
海子さんは、文学、映画、音楽も好きで、当時一九六十年代後半から七十年代前半の、安保闘争や学生運動、ヒッピーの話しを聞きましたが、海子さんは、そのどれでもなく、自分の人生を、生きていました。ベトナム戦争もありました。その中で、音楽や、文学、映画なども、盛り上がっていて、私も、その時代の音楽が好きで、よく聴いていました。
この海子さんのことは、色々あるのですが、一つの話しとしては、うまく書けません。
中途半端な、恋愛にもなっていない悩みをを相談したりもしました。私の行く末の悩みも、話しを聞いてくれました。
海子さんは、民間のユング心理学のカウンセリングの資格を取得するために勉強をしていたので、その効果が、私にも、影響していたのかもしれません。
海子さんは茶目っ気がありました。歩道を歩いている時に、急に、ある店にある風鈴を、飛んで鳴らしたりします。その風鈴は、海子さんの背よりも、高い位置にあって、だから海子さんは、風鈴を鳴らしたいので、飛んだのです。
海子さんには、たくさんの元気をもらった気がします。この出会いと付き合いは、一生忘れません。
次に、女の人ではありますが、これは一方的なもので、出会いと言えないかも知れないませんが、私にとって、元気をもらい続けています。それは、観て聴くことなのですが、私にとって、女性アイドルグループの存在が、元気にになったり、癒してくれるのです。特定の女性アイドルグループというのではなく、何人かは好きな女の子もいますが、基本的には、全体としての女性アイドルグループが好きなのです。それは、ライブに行ったり、CDを買ったりまでには至りませんが、基本的には、録画して観る程度ですが、この若い女の子のアイドルグループの言動は、男の私にとって、元気を与えてくれますが、効き目は短いです。実際に会って、話しているわけではないので、ほぼ、虚構を観たり聴いたりしているようなものだからです。しかし、それでも、女性アイドルグループには、魅力があります。それは、若さです。この若さが、私に元気をくれる。テレビ画面で、笑顔で歌って踊っている姿が、元気をくれる。当然、彼女達にも、たくさんの悩みを持った上での笑顔だと思います。それが、私には少しですが、心の支えになっています。それは、街を歩いている女子学生がはしゃいでいる姿に似ています。
私は、高校の時、思春期の影響か自意識過剰でうつ状態でした。その時の女子高生の元気や明るさを、太陽として、今でも感じてしまうのです。
この女性アイドルに対して下心がないかと言われると、ないというのは嘘になります。
私にとって、若い女の人は、光であり、星であります。ピカピカと輝いているのです。
それは、若い女の人だけではありません。世代を超えて、女の人は、輝いています。女性アイドルグループだけでなく、女性ミュージシャン、女性シンガーソングライターにも、同じことが言えるのです。
蘭の会の方々に言いたいのは、若い時があって、その時の青春が人によってはあって、その青春は、若い時に特に、意識するだろうと。ただ、意識しなかった私は、その若い時の青春が、欠けているようで、その時、若い女の子がはしゃいでいるのを見ると、私の十代が、甦る気がするのです。実際は、中年の男でも。
次に、私にとって、大事な思い出を書きます。それは、私が、小学三年生の時です。三年の時にクラス替えがあって、私は、その時森っ子(仮名)という女の子に出会います。森っ子は、母以外の異性、初めて女の人の原形を見たように思います。何か女のひとの、むきだしの姿、本能そのものというか、森っ子は、自分自身に正直すぎる位正直だったのです。子供の時には、よくありますが、森っ子は、それが突出していました。これは、私にとってショックでした。
森っ子は、周囲から女番長と言われる位に、気の強い女の子で、男の子がやって来て、森っ子と喧嘩をしても、男の子が負けて、泣いてしまう程でした。
森っ子は、女番長と言われるのが嫌だと言っていましたが、今思えば、言われても仕方がないと思います。
私は、森っ子に、急に襲われるような感じで、口と口で、キスをされたこともありました。その後、森っ子は、私の顔をみて、してやったりというような顔で、笑っていました。
小学校三年、四年が、私にとって、女の人と一番近づいたような気がします。
森っ子は、知能指数がとても高かった。それは、知能指数のテストで、学年の、一番だったからです。
森っ子は、ませていた。好きな男の子を見付けては、口と口で、キスをしていた。しかし、私は、この森っ子を最初に見た時、可愛いとも美人とも、思わなかった。私にとって森っ子は、好みではなかったのに、次々と、森っ子の魅力が出て来てしまう。歌を唄うのも、文章を書くのも、上手で、この森っ子は私にとって、超人でした。
クラスのお楽しみ会があるので、森っ子は、「眠り姫」を、芝居で見せようと考えた。
台本を作る時、何の本も無いのに、森っ子は、台詞を言い出して、私や、他の友達は、森っ子の言葉をノートに書いて行きました。その頃コピーはありません。本も無いのに、森っ子の言葉が、次々にやって来て、ノートに書くのが大変でしたが、そのノートに書くことが、終わった時、ノートには、「眠り姫」の台本ができていました。森っ子は、本も、何も見ず、言葉だけを発していました。この時、この森っ子のことが、少し恐くなりました。小学校三年、四年で、そのような、口伝えで、台本を作るなど、今でも、驚いてしまいます。
私は、森っ子の顔は、好みではなかったのに、そんなことは、どうでもよくなって、森っ子のことを、好きになっていました。
その後、小学五年のクラス替えで別々になって、森っ子と接することも、少なくなり、中学校も、森っ子と一緒でしたが、クラスは別々で、会うこともありませんでした。
中学校の卒業文集の中の森っ子の文章には、恋愛のことばかり、恋愛の思い出しか、書いていませんでした。森っ子は、恋愛に走って行って、森っ子の存在は、私の中から、風と共に去って行きました。
あまりにも、長文になってしまったのですが、大丈夫なのかわかりません。
まだ、一人私にとって、大事な女の人がいるのです。それを書きますが、独りよがりの独白になっています。手紙なのに、悪いと思っていますが、蘭の会の人のことを考えると、女の人ことを、どうしても、書きたいと思ってしまいました。
その大事な一人とは、私の母です。
母は、私にとって、初めて、出会った女の人である。
私が、子供だった時、母にヒステリックに「勉強しろ」と言われて、私は泣いていた。
母より、父の方が、好きだった。
母は、私に「勉強しろ」と言うのに、母自身には、知性の欠片もない。だから、私に「勉強しろ」と言ったのか?
私は、頭が悪い。それは、母の血が流れているからだと思って、母のことを憎んで、母に対して、当たり散らしたこともあったが、どれだけ、そのことで、暴れても、私は私でしかない。
今でも、何かあると、母とは、よく喧嘩をする。
ただ、最近になって、父が、認知症になった。介護の日々。その時、急に、母の存在が、大きくなってきた。七十歳半ばの母。そこには、知性以上の理屈だけではない、母の強い生命力を感じた。
母は、私の兄と、私を育てた。父も協力はしていた。しかし、子供を育てる大変さは、言葉にできない大変さがあると言う。そこには、小さな命が、あるのである。
母は、兄と私を育てた。命を育てた。その力は、知性や、理屈だけではなく、生命力と知恵が、大事になってくる。
そのことを感じた時、母の存在は、変化した。
父の認知症の介護は、今も続いている。父が、デイサービスに行くことによって、少しは、楽になったが、夜には、父は、家に帰って来て、おしっこを漏らす。母は、父の隣で、寝ているので大変だ。夜中でも、母と兄と私は、起きて、父のおむつを交換する。
母が老いて行く姿が、悲しい。もう昔のように母の知性について言うこともない。母には、心身ともに健康で長生きして欲しい、できるだけ。
母が元気でいると嬉しい。今でも、大喧嘩をするが、心の中では、母が、心身ともに健康で、生き続けることを、願い、祈り続けている。
母は、私にとって、今は、大事な存在になっている。
蘭の会のみなさま、女の人について、出来るだけ、正直に書きました。正直ついでに、また、正直に、書きます。
私にとって、女の人は、私より年下の女の人でも、私と同い年の女の人でも、私より年上の女の人でも、好きになれば、恋愛とセックスの対象です。それは、私にとって、本当に大事な気持ちです。もし、この世の中に、女の人が、いなくなったら、私は、死ぬかも知れない。それ位に、女の人は、大事な存在なのです。
恋愛やセックスの対象でなくても、女の人と接するのと、男の人と接するのでは、全然違います。女の人と接して話しをすることは、いつも、緊張と喜びがあります。
女の人に会うと、心が躍り、胸躍る。
女の人は、男以外。
若い女の子の中に女を見て、大人の女の人には、その中の少女を見出す。
女が集まれば、ヒステリックで、かしましい。
女の人を見ると苛々する。私に問題が。
女の人は、温かさを感じる。それは、母性から来るのか、異性に対しての反応か?
女の人が、子供を産む、産まないは、別として、女の人の体の中にある子宮に、宇宙を感じる。子宮の中に命が宿る可能性が、あるからだろう。
子宮には、あの世を感じる。この世に生まれる可能性のある、生命があるからだろう。
女は神秘。だから男は女に好奇心。
女は、色の色。花の花。それに男は、好奇心。美人、可愛いには、弱い。
性格も合えば、女の人との会話は楽しい。
しかし、私は、女の人に告白すれば、振られるばかり、私の性格に問題が。私の私が答える。「それは、そうだ。その上、お前の容姿にも。」
「はあ、なるほど」と、納得できる程、私はできていない。
気の強い女、気の弱い女。酒に酔って、色々話したい。
老若女(ろうにゃくおんな)と、話したい。
暗い女、明るい女、その心の中を、見てみたい。
私は、男。女の人を知りたい。本質がわかるまで。わからなくても、女の人に対しての好奇心は止まらない。
テレビでも、映画でも、詩でも、小説、絵画、音楽でも、宇宙、地球、生物でも、人生、女、男、人間でも、それらについて、女の人に会って対話をしたい。その思いは、一生続く。
女は、私の原動力そのもの。
男には、女が必要。
私の現在の活動は、上田假奈代さんの「詩の学校」に、通っています。この手紙は、上田さんの紹介で、書くことにしました。後は、週二回のバイトです。
蘭の会のみなさま。私が書いた女の人については、他にもあります。女の人の怖さについてとかです。他にも、女の人に対しての、男から見た、性についてですが、そのことは、書いていません。この手紙になっていない手紙は、基本として、女の人礼賛です。それで、このような、文章になりました。
蘭の会のみなさまに、言いたいことは、まず、女の人にしか、書けない詩があります。それに加えて、個性、センス、趣味、嗜好が、あります。
自分の中の意識下を見詰めれば、火の周囲で踊る類人猿を見るかもしれません。
ミクロとマクロとの合体、それは、矛盾するが、それを、夢見るような。マクロだけでなく、ミクロだけでなく、その中間の灰色の光景、生死の境界線、森羅万象も含めた、夢現の視野の状態から、死ぬまで、続く、詩作を、苦しみ、楽しみ、それらの詩達を、この世に、吐き出して欲しいです。
偉そうななことを、書いて、ごめんなさい。
■勝見幸二(かつみこうじ)さんって、どんな人?
一九七一年生まれ。京都市在住。二十歳前半からひきこもり。現在、週二回のバイト以外は、働いていない。出来れば、何かしらの話しを、表現して、食べて行きたいと思うが、現実は、とても、厳しい。 ]]> 2016年9月号 夛田 雄一さんより、おてがみが届きました http://otegami.orchidclub.net/?eid=1283516 2016-09-15T00:00:00+09:00 2016-09-14T14:58:41Z 2016-09-14T15:00:00Z 「奇跡」
路傍には雨に濡れてグニャリクチャクチャの段ボールが一枚いまにも溶けそう…、酔うて寝転んでる私も…、其のままにこのままに崩れてドロドロになって地中深く滲み込んでいきたい。
心がマイナーになっている時ってさ、酔うのが早い。それでもね、意識が遠のく... orchidclub2 酔う人
路傍には雨に濡れてグニャリクチャクチャの段ボールが一枚いまにも溶けそう…、酔うて寝転んでる私も…、其のままにこのままに崩れてドロドロになって地中深く滲み込んでいきたい。
心がマイナーになっている時ってさ、酔うのが早い。それでもね、意識が遠のくまで盃を重ねるのさ。身体が震えてる。 雨の音に混じって人の足音が耳の中を通り過ぎていく。吾が魂はノドをはいずり上がり吐瀉物に乗って口からドロドロと出てゆく。紫の唇が さよなら とささやいている。
全部嘘、吾輩はいたって元気。毎日毎日草刈りゴミ拾い、様々のパレード等のボランテイア。ある時は、詩、俳句、書道、美術、合唱、狂言、お芝居のお勉強、感傷にひたっている暇など無い。元来楽天家いくらへこんでも、一、二杯の焼酎でエネルギー回復。通う所は「ひと花センター」「釜ヶ崎芸術大学」ただ一心にワークショップを目指しボロボロのチャリンコで東奔西走。そんな活動をいつも笑顔でエールを送って下さるスタッフの方々に感謝、感謝、感謝。恩返し?…?うーん、私の笑顔と元気がなあ?
当地釜ヶ崎界隈でプラス志向で生きてゆけるのは、まさに奇跡。七、八割のオヂサン達がギャンブル、お酒三昧で終焉を迎える。吾輩も最近迄はそうでした。心の在り方で地獄にも天国にもなる。
♪ここ〜は天国 釜ヶ崎、釜ヶ崎。酔うたのお。
■夛田 雄一さんって、どんな人?
・名前 夛田 雄一
・肩書き 自由人(酔う人)
・プロフィール 釜ヶ崎在住28年 車誘導員歴15年
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