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2002年9月号 魚村晋太郎さんより、おてがみが届きました

A=〜Aの波打ちぎは

                             
 よく矛盾したことを、女性は言ふ。女性に限らず、人は、と言ひ換へてもいいが。 
 
 例へば晩秋のある日、ある女性が私に「週末は美術展を見に行きたい」と言ひ、別の所で他の男に「週末は紅葉を見に行きたい」と言ふのを聞いてしまつたとする。男性である私は美術展と紅葉のどちらが本音でどちらが建前なんだらう、とか、一方が本当でもう一方が嘘なんだらう、といふふうに往々にして考へてしまふ。
 
 しかしこの頃は、美術展も紅葉も、両方とも、本音であつたり本当であつたりするのかも知れない、と考へるやうになつてきた。しかも、私と美術展を見たあとに彼と紅葉を見にゆきたい、といふのではなくて、美術展なんか見ずに紅葉を見に行きたい、といふ気持ちと、紅葉なんか止して美術展に、といふ気持ちが同居してゐるやうなこともあるのではないか。こともあるのでは、といふより、多かれ少なかれ、さういふ矛盾を孕んだ状態が、ひとのこころの常態ではないか、と思ふやうになつた。

 矛盾を孕む、体現するのが女性で、それに振り回されるのが男性、といふ図式が存在するやうにも思ふが、男性だつて、こころに矛盾を孕むことはあるだらう。ジェンダーのあり方として、さういふ矛盾を男性は素直に表明し難いのかも知れない。
 
 「A」は「Aでないもの」ではない、といふ事。つまり、「Aでないもの」を「〜A」と表記して、A≠〜Aを矛盾律といふ。矛盾律は、A=Aと表される同一律と並んで形式論理学の基本的原理のひとつである。先の女性と過ごす週末の例とは話の位相が異なるが、言葉とは基本的にこの矛盾律を侵す性格、A=〜Aといふ等式、或は、A→〜Aといふベクトルの性格を基本的な機能として持つものではないだらうか。

 例へば、単語のレヴェルでも、首といふ語が、第一義的には脊椎動物の頭と胴をつなぐ部分を表しながら、同時に、それに似た形状の器物の部位を指したり、失職の意を表したり、手首、足首、と複合語を作つて身体の別の部位を示したりする。複合語のひとつ、雁首といふ言葉の第一義は水鳥の雁の首であらうけれど、ガンクビと発音するときは煙管(キセル)の先の部分や、何人かで集まるときの人の頭のことを言ひ、カリクビと発音するときは普通ペニスの亀頭の部分を言ふ。ペニスの亀頭のことを単に雁(カリ)といふこともあるけれど、さういへば亀頭だつて喩に基づく複合語だ。喩、と呼ばれる、言葉のこのやうな性格があるからこそ、無限の状況、ときにはありもしない状況をすら、有限の言葉の組合せで表すことができる。

 詩歌に用ゐるレトリックとしての喩は、また少し位相が異なり、等号やベクトルのあり方それ自体が表現者の精神状態や美意識と深く関つて表現の要になつてゐることが多い。そのことはまた別の機会に語らう。

 地球上のすべての生命の起源は原始の海洋に遡るといふが、もつと時代を下つて、ヒトがヒトとして直立して歩きはじめた後、一千万年くらゐ前までのかなり長い期間を波打ちぎはに身を潜めて主に貝類などを食べて生活してゐたのではないか、といふ説がある。キスは他の猿たちもするが、ディープキスを好んでするのはヒトだけなのださうで、これはヌルヌルした波打ちぎはで生活してゐた頃の種の身体の記憶を舌の感覚で取り戻してゐるのだ、とか、夏になると大勢の人たちが海水浴にでかけるのは祖先が生活した場所へのノスタルジアに因るのだ、とか言ふひともゐる。

 波打ちぎはとは、刻々と、海が陸になり、陸が海になりながら景色を変へる場所、つまりA=〜Aの地勢である。そのことと言葉の持つA=〜Aの性格に必然的な関係があるとは考へないが、そのやうな浪打ぎはに身を潜めながら、長い歳月をかけて言葉や情欲の複雑さを――言葉といふ情欲の複雑さを、と言つてもいい――懸命に育んでゐたであらう祖先たちに想ひを馳せると遥遥とした気持ちになる。それで彼女の週末の過ごし方が気にならなくなるかと言へば、それはまた別の話であるが。

◆魚村晋太郎さん情報 

詩人。歌人。1965年生まれ。京都市在住。
短歌/連句/俳句・・・過去のさまざまな文藝ジャンルをリミックスする反動的快楽主義者。
短歌誌「玲瓏」編集委員。パロールセンター代表。パロールセンターではリーディングイヴェント「声帯エステティック」を開催。奇数月の始めにオンラインのQP句会を開催中。
02年は初夏、北溟社季刊「短歌WAVE」創刊号に短歌朗読がCD収録。秋には扇町カルチャーセンターで「メカラウロコ現在短歌図鑑」を開講する他、「朝日新聞」、「短歌朝日」、角川「短歌」等に新作の短歌が発表される予定。詩の仕事ももう少し欲しい。

編集者注>
プロフィールは2002年9月時の情報です
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