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2014年6月号 臨夏(りんか)さんより、おてがみが届きました

「日本と台湾の言葉事情」

詩人の方々は、ことばをうまく使うことができます。それで、お願いがあるのです。以下、まずは、いろいろ書きます。

  台湾という国には、言語/方言の上でのいろいろな問題があります。
  それは、多分、世界のどこにでもある、普遍的な問題と思います。以下、時系列で「台湾人」の歴史を記していきます。
  10万〜8万年くらいまえ、アフリカ大陸から、新人(ホモサピエンス)の一部が、アラビアに渡り、その小さな集団の人たちが、以降、アフリカ以外の全世界に広がっていきました。
  その人々は、4〜3万年くらいまえには、台湾にたどり着いていました。自然人類学ではニグリト、と呼ばれ、いまも世界各地に分布し、アフリカから出た、初期の新人に一番近いと言われています。
  現在、台湾人の2%くらいは、原住民 で、オーストロネシア語族に属します。彼らは、6000年前中国から来ました。5200年前頃、外洋に「遠征」を始め、いまは北はハワイ、東はイースター島、南はニュージーランド、西はアフリカ沖のマダガスカルという、近代より前の言語拡大としては、最大に広がって住んではります。
  時代は跳んで、400年前。中国では明清の交代期、台湾島は、倭冦の巣窟やった思います。台湾の最初の漢人政権、鄭氏政権を立てた鄭成功は、父は漢人倭冦の鄭芝竜、母は日本人倭冦の平戸松浦一族の田川まつ。二人とも、中日国籍というよりは、東シナ海の「世界市民」ともいえる、「海民」であった、と考えた方がよさそうです。 
    このころ、中国から「ホーロー人」がどんどん台湾島に移住してきました。中国語の方言の一つ、福建南部のことば、閩南(びんなん)語を話します。このことばが、いま台湾で台湾語、と呼ばれているものです。いまの台湾人口の6~7割を占めます。
  少し遅れて「客家人」が入ってきました。客家は、これも中国語の方言のひとつ、客家語を話します。中世に華北から、南下してきた人々で、中国南部のあちこちに点在しています。いまの台湾人口の15%以上が客家です。以上、原住民とホーロー人と客家人を併せて、「本省人」と呼びます。
  1876年(明治9年)に、日本は軍隊を台湾に派兵し、原住民相手に戦争をします。これが、台湾地方が近代化運動を始めるきっかけの一つにもなりました。その後1895年に日清戦争に勝った日本は、戦後台湾に侵入、戦争の上、征服します。人口でいえばわずかな日本人が、主に台北市を拠点に、台湾支配を始め、その差別統治によって、台湾人に日本語を強制していきます。
  やがて1945年、第二次世界大戦に負けた日本人は、台湾島を追われ、その代わりに、中国人がやってきます。「中華民国」国民の人々です。彼らは「外省人」と呼ばれ、第二次大戦の終結時点で、台湾に住んでおらず、その後、多くは国民党と共に台湾に移住してきた人々を元とします。台湾人のなかで「本省人」以外が「外省人」です。やはり台北市を根拠地とし、主にマンダリン =官話 =国語(グォユィ) を話します。この言葉は、「中華人民共和国」の共通語、「普通話(プートンホヮ) 」とほぼ同じで、これを台湾人に強制します。

  以上の背景のなか、各言語集団のあいだには、いつも対立や闘争、迫害がありました。いまでも目立つものは、 外省人と本省人の対立です。外省人は「国語(グォユィ)」を本省人に押しつけ、そこで言葉にランク付けが現れ、国語が高級、台湾語その他の言語が低級とされます。学校では国語しか話してはならず、教室で他の言葉をしゃべれば、胸に「方言札」が付けられ、罰則の対象となりました。これは日本帝国時代の沖縄県でもあったものですね。
  これは、少し前まで「省籍矛盾」と呼ばれたもので「もう解消したで」という楽観的な見方はあるものの、慎重にして悲観的な見方をすれば、まだまだある、と言えます。国語は、戦後台湾で確実に広がって行きましたが、民進党が政権を取ってからは、台湾語も学習対象となりました。台湾語の歌や映画にも大きな力があります。しかし、皮肉な事としか言いようがありませんが、今でも取り分け台北市では、国語の力がいよいよ大きくなり、台北の少年層より幼い間では、台湾語をようせんけど、国語ができる、というような人が多くなっていってます。


  日本の国の言語問題も挙げてみましょう。まず列島でよく目につく言語集団としては、アイヌ人や日本人(アイヌ人から見れば和人、沖縄人から見ればやまとぅんちゅー)、琉球人(沖縄人、うちなーんちゅ)、朝鮮(韓国、コリア)人という4種のグループがあります。ほかにも、北海道には、戦後日本帝国領樺太からやってきた、ウイルタ人やギリヤーク人がいます。
  「日本語」は、大きく分けて、「首里方言」と「京都方言」に分かれます。前者は「琉球語」・「うちなーぐち」とも呼ばれ、日本語の方言と見なされれば、「首里方言(あるいは「うちなーぐち」)」となります。わたしは「方言か、言語か」が大切なのではなく、ことばは、ひとつひとつが大事なもの、と考えます 。

  さて、日本語の京都方言ですが、これをまた大きく分けると、東日本方言と八丈方言と西日本方言と九州方言とになるようです。どの方言もひとつひとつ大事ですが、今の日本で大きな問題で、わたしが(わたしのエゴイズムのせいもあり)もっとも心配しているのは、「大坂弁(広く近畿、京阪神に分布することばで、最近は関西弁、という言い方がありますが、わたしはこの言い方は嫌いです。まるで、関東と対等のようやからです)」と「東京弁(江戸東京の方言、あるいは共通語、標準語)」の問題です。

  多くの京阪神の人々の、ほぼ共通の体験と言えると思いますが、われわれ大坂人は、東京の日本支配と、東京弁の横行に苦しんで来ました。ことばは、衣服でなく、身体そのものであり、それが圧迫されたり、傷つけられたりしたら、甚だしい苦痛を受けます。いまでこそ、大坂弁は、広く日本各地や東京でも、暖かく受け入れられ、流通もすることばになってきましたが、わたしに大坂人としての自覚が出来始めてきた小学生のころは、大坂弁の立ち位置は、いまよりはだいぶ貧相なものでしたよ。あのころは、東京弁に苦しめられ、大坂弁に憧れていましたが、さまざまな「社会的なタブー」があって、素直にそれを表現できませんでした。

  いまは、かなり良くなりました。大坂人の地位がよくなり、力が付いて来たからでしょうか。でも、それで安心してしまい、東京弁を、安易に受け入れる傾向も出てきたりはしていないでしょうか、それが心配です。ある意味、われわれ大坂人は、東京に苦しめられていたときの方が、大坂弁が今よりもっと好きやったし、そういう意味で「恵まれていた」のではないか、との皮肉も言いとうなります。

  取り分け、非難するつもりはありません(というのも、歴史的に複雑で難儀な問題ですから)が、女性や、小さな子供たちが、東京弁をしゃべっているのが目につきます。

  そこで、最初に書いた「詩人の皆さんへのお願い」ですが、皆さんの詩作や、日常生活で、もっと方言(皆さんは、大坂以外の方々が多く、各地のことばをしゃべりはりますやろう)を、ばんばん使て欲しいのです。その際、各地ネイティヴには、固有の仕事がありますが、今や日本人の大きな部分を占める。関東、東京の人にも、遊びやお洒落感覚でええので、携帯やネットとかにおいて、方言を使てくれたら、わたしもおもしろいです(笑)

  大坂弁が、他の言語・方言にくらべ、比較的よく保たれているのには、漫才や落語が古い大坂弁を保存しつつ、大坂人に訴えかけるものがあったことや、まんがやアニメなんかで、新しい大坂弁が多用され、はじけて来た、という事があります。そこで、漫才師さんや、まんが家さん、そして詩人さんの方々が、方言に目を向けて、うまいこと使いはることにより、日本人の、いや地球人の文化的身体を治療していくことを期待したい、と、毎日台北市の街角で思ております。
  わたしも、北京語ばっかり勉強してますけど、ほんまは台湾語も客家語も勉強せんとおかしいんですけどね(^^;






■臨夏さんって、どんな人?
rinka
ハンドル:臨夏(りんか)
神戸市東灘区の灘校入学、
中一の二学期で勉強を止め、
中三の終わり頃、共産主義に目覚め、
高二の終わり頃、統合失調症を発病。
このころ革命家の表三郎に師事、灘校卒業。
種智院大学に入学、退学。
佛教大学入学、
途中一年足らず、
中国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市延辺大学に語学留学、
佛教大学卒業後、京都でフリーター。
2000年に台湾の台北移住。
政治大学台湾史研究所(大学院)で修士取る。
以降、引き続き台北暮らし、
いろいろ困りながらも、楽しく過ごして おります(笑
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