2017年3月号 瓜生智子(うりうさとこ)さんより、おてがみが届きました
蘭の会の皆様
こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶、瓜生智子と申します。
まだ顔も見ぬみなさまへどんなお手紙を書かせていただこうかと、考えあぐねておりましたが、変に肩肘を張らず、最近よく考えていることを、想いのままにつらつらと書かせていただこうと思います。
最近「愛する」とは一体どのようなことなのだろうか、と考えることがございます。皆様は、どんな風にお考えでしょうか。
「愛するとは、その存在をそのままに受け止めること」
様々な方や本とのであいの中で、今の私に一番しっくりときた言葉でありました。
そして、同時に愛するということの難しさを教えてもらった言葉でもありました。お恥ずかしいことに、自らのことを振り返ると、相手に対して「こうあって欲しい」「ここを変えてくれないかな」「もう少しこうだったらいいのに」とその人の存在をそのまま受け止めることと、真逆なあり方をしてきた自分に気づかされました。
では、存在ごと受け止められるとは、一体どういったことなのだろうか。と考えますと、ふと、小さい頃に父が話してくれた大地の働きの話を思い出しました。それはこんな話でした。
父「失敗や挫折から立ち直るには何が必要だと思う?」
私「うーん、私が頑張ることかな?」
父「そうだね、それもあるかもしれないね。でも、立ち上がる時、踏ん張る時にそもそも大地がないと立ち上がれなくないかな?私たちは大地があってどこか当たり前と思っているけどそうじゃないんだよね。その上、大地は、この人が好きだから、嫌いだからと区別はしない。この私に変わって欲しい、と…こうして欲しい、と…あぁして欲しい、と言わない。なんとも言わずに、ただただひたすら支えてくれているのが大地なんだよ。だから感謝していかなきゃいけないね。」
という話でした。その話を聞いた時には、ふーんとしか聞けていなかったのですが、今になってこのことを思い出したのでした。そして改めて考えてゆくと、その大地の働きは、きっと生きているうちも、死という形へ私達の姿が変わっても大地は、そのままに私たちを受け止め続けてくれているのでしょう。
そんなことを思うと、私が気づかぬうちに「私そのままを受け止めてくれる存在とであっておったのだなぁ…」と不思議な気持ちになるのでありました。そして、それと同時に、じゃぁ、そこを教えてもらった私はどう生きていくのか。ということを問われているようにも思うのであります。きっと大地の働きの様にはいかないかもしれない。でも、それでもそんな生き方にが出来たらなぁ…とせめてつまづきながらも出会いの中の1つ1つに「愛する」を生きていけたらと思う今日この頃であります。
そして最後に「詩」には実は、そんな「愛する」がたくさん込められている気が勝手にするのであります。今のこの私を愛するということ、人を愛するということ、人生を愛するということ、世界を愛するということ…。詩を作られている方々は、今の私という存在、良しも悪しも、美も醜もこの一瞬を全力で受け止めてらっしゃる方々の様に感じております。勿論、これは私の勝手な邪推に他なりませんが、だからこそ、詩に出会わせてもらった時に、なんとも言えない安心感をいただく様に思うのです。そして、そんな皆様の在り方に憧れずにはおれません。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
いつの日か、皆様と直接におであいできる日、楽しみさせていただいております。
合掌
■瓜生智子さんって、どんな人?
浄土真宗本願寺派僧侶。日本ヨガセラピストスクールヨガインストラクター。1987年、福岡生まれ。大学で社会学コミュニティマネジメント、大学院で真宗学を専攻。2013年までグリーフケアに携わる一般社団法人リヴオンに勤務。現在は浄土真宗本願寺派勤務。
週末は、影絵を使った布教団体「ともしえ」で全国のお寺を訪問したり、若手僧侶の集まりである「カンゾー」で死をカジュアルに語り合うDeathカフェを関西の寺院を中心として開催。
こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶、瓜生智子と申します。
まだ顔も見ぬみなさまへどんなお手紙を書かせていただこうかと、考えあぐねておりましたが、変に肩肘を張らず、最近よく考えていることを、想いのままにつらつらと書かせていただこうと思います。
最近「愛する」とは一体どのようなことなのだろうか、と考えることがございます。皆様は、どんな風にお考えでしょうか。
「愛するとは、その存在をそのままに受け止めること」
様々な方や本とのであいの中で、今の私に一番しっくりときた言葉でありました。
そして、同時に愛するということの難しさを教えてもらった言葉でもありました。お恥ずかしいことに、自らのことを振り返ると、相手に対して「こうあって欲しい」「ここを変えてくれないかな」「もう少しこうだったらいいのに」とその人の存在をそのまま受け止めることと、真逆なあり方をしてきた自分に気づかされました。
では、存在ごと受け止められるとは、一体どういったことなのだろうか。と考えますと、ふと、小さい頃に父が話してくれた大地の働きの話を思い出しました。それはこんな話でした。
父「失敗や挫折から立ち直るには何が必要だと思う?」
私「うーん、私が頑張ることかな?」
父「そうだね、それもあるかもしれないね。でも、立ち上がる時、踏ん張る時にそもそも大地がないと立ち上がれなくないかな?私たちは大地があってどこか当たり前と思っているけどそうじゃないんだよね。その上、大地は、この人が好きだから、嫌いだからと区別はしない。この私に変わって欲しい、と…こうして欲しい、と…あぁして欲しい、と言わない。なんとも言わずに、ただただひたすら支えてくれているのが大地なんだよ。だから感謝していかなきゃいけないね。」
という話でした。その話を聞いた時には、ふーんとしか聞けていなかったのですが、今になってこのことを思い出したのでした。そして改めて考えてゆくと、その大地の働きは、きっと生きているうちも、死という形へ私達の姿が変わっても大地は、そのままに私たちを受け止め続けてくれているのでしょう。
そんなことを思うと、私が気づかぬうちに「私そのままを受け止めてくれる存在とであっておったのだなぁ…」と不思議な気持ちになるのでありました。そして、それと同時に、じゃぁ、そこを教えてもらった私はどう生きていくのか。ということを問われているようにも思うのであります。きっと大地の働きの様にはいかないかもしれない。でも、それでもそんな生き方にが出来たらなぁ…とせめてつまづきながらも出会いの中の1つ1つに「愛する」を生きていけたらと思う今日この頃であります。
そして最後に「詩」には実は、そんな「愛する」がたくさん込められている気が勝手にするのであります。今のこの私を愛するということ、人を愛するということ、人生を愛するということ、世界を愛するということ…。詩を作られている方々は、今の私という存在、良しも悪しも、美も醜もこの一瞬を全力で受け止めてらっしゃる方々の様に感じております。勿論、これは私の勝手な邪推に他なりませんが、だからこそ、詩に出会わせてもらった時に、なんとも言えない安心感をいただく様に思うのです。そして、そんな皆様の在り方に憧れずにはおれません。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
いつの日か、皆様と直接におであいできる日、楽しみさせていただいております。
合掌
■瓜生智子さんって、どんな人?
浄土真宗本願寺派僧侶。日本ヨガセラピストスクールヨガインストラクター。1987年、福岡生まれ。大学で社会学コミュニティマネジメント、大学院で真宗学を専攻。2013年までグリーフケアに携わる一般社団法人リヴオンに勤務。現在は浄土真宗本願寺派勤務。
週末は、影絵を使った布教団体「ともしえ」で全国のお寺を訪問したり、若手僧侶の集まりである「カンゾー」で死をカジュアルに語り合うDeathカフェを関西の寺院を中心として開催。