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2016年2月号 櫻井篤史さんより、おてがみが届きました

蘭の会 ご担当者様

突然のお便りを差し上げる不躾をお許しください。
私は櫻井篤史と申します。
京都で映像制作のスタジオを運営していますが、運営といっても独りきりの自営業です。

元々8mmフィルムに親しむ機会があって、父親の8mmカメラを触らせてもらう内にその面白さにはまり、中学生の時に「作品のようなもの」を作りました。自分が撮影した映像がまるで「映画」のように動いた時の感動というか驚きは格別で、筆舌に尽くし難いとはこの事かと思うほど有頂天になったものです。
その後、何とかこつこつと貯金して、22歳の頃、当時最高級といわれたZC1000という8mmフィルムカメラを購入します。自前のカメラは大切です。道具にはこだわらない方が多くいらっしゃいますが、自分のカメラにはしっかりと癖がついて私は好きです。文筆家の方の万年筆も同じような事がいえるのではと推察します。
以来ZC1000とのコンビで作品を作り続けて、私はいつの間にか映像作家と呼ばれるようになってしまいました。
「映像作家」という職業は、実はありません。この言葉は、日本の個人映画・実験映画の礎のひとりである松本俊夫氏が、1950〜60年代の「Film Maker」というアメリカのアンダーグラウンドシネマシーンの用語を直訳して日本に紹介したことから生まれた言葉だと言われています。こんな肩書きを名乗る日本人は当時殆ど居ませんでした。純粋に個人の表現としての映像を意識的に作る人のみがそう名乗っていたと思います。今日では、ちょっと変わった、拘りの有りそうな、映画監督以外の映像関係従事者は、CM界から企業ビデオまで誰かれなしに「映像作家」です。とは言え、誰に迷惑のかかる話でもないのでどうでもいいのですが。

動く写真…………、今では動画などと総称する場合も有りますが、映画の作りについて私は3種類しかないと思っています。
ひとつめは、見る人を楽しくさせる目的のものです。映画を作るほとんどの人は、そう思っているのでしょう。街の映画館でかかるような、エンターテインメントという言葉で形容される全ての映画・映像です。作る側で言えば私は全く興味がありませんが見る側で言えば結構好きです。ハリウッド製のサスペンスやアクションも飽きる事なく見る事が出来ますが、いざ作れと言われても全く意欲はありません。まあ、お前のような金のない無名の素人に作れるわけがない、と言われればそれまでですが、そういう事情で諦めているという事ではなくて、作る根拠の問題として意欲がないのです。物語を俳優が演じ、プロットをつむぎ、展開や構成を巧みに構築して観客のカタルシスを誘発する事の全てに関心が有りません。それはそういう作りをしたい作家に任せればいいと思っています。
ふたつめは、メディアとしてのメッセージ性などという言葉で何かに利用され使い捨てされるものです。例えば、企業の制作する様々な映像は、業界ではVPと言いますが、このVP制作の場合、制作する人間の思い入れや思想は殆ど不要です。クライアントの要望を聞きつつも巧みに自分の感性を織り込ませるなどという幻想に振り回されて、今日も無数の映像制作スタジオで、無益な映像が量産され垂れ流されています。そしてさらに滑稽な事に、CMやVPに携わるディレクターやスタッフの多くは、自らの制作した映像を「作品」と呼びますがこれこそ噴飯物です。それらの映像に貫徹されているのは、ただ企業の経済優先意図をオブラートで包んだメッセージだけであって、その映像における全ての「優れた部分」は消費者や視聴者の興味を惹くための手段でしかなく、映像そのものが自律しない、何かのための存在でしかないものです。
そしてみっつめ。
個人が、その内に秘めたどうしようもない衝動を光で具体化させた結果としての映像があります。
前述したように、日本の実験映画は、60年代アメリカのアンダーグラウンドシネマというジャンルから大きな影響を受けました。その背景には60-70年代の反戦思想に代表される政治思想的な要素があり、美術界の大きな変革も影響していました。また、それまでの大企業による映画製作体制へのアンチという側面も見逃せません。この時期の血気盛んな破滅的な反体制的反権威主義的な空気の中で、個人が作る映像作品は成熟して行きました。
今日、その本来的な意味合いは薄れたものの、個人が単独乃至はきわめて少人数で製作する非商業的な映像表現は、日本においても連綿と全国各地で続けられています。個人映画、実験映画、プライベートフィルムなど様々な呼称をまといながら、画家が絵を描くように、文筆家がペンを走らすように、「映像作家」は、自分だけの全ての責任において映像を作り続けているのです。

私は、幸か不幸かこの三つのうち、2と3同時に深く関わっています。その切り替えは想像以上に困難です。
かたや商業的な使い捨て映像とも言うべき(映像にとっては悲しい不幸せな状況の)商品を依頼されて作り売る生業として、かたや自分の内的な動機と身の丈の方法によって作品と成す苦しい生き方の基本として、全く矛盾するこれらの映像をアンビバレンツな状況の中で手がけています。
本来食い扶持としては、映像関係とは全く違うジャンルの仕事が良かったのかも知れませんが、当時の私は「好きな事で飯を食う」という呪文が頭から離れなかったのです。

誰に教わる事なくカメラをいじくり回し、美大・芸大などに映像専攻などが殆ど存在しなかった時期に、私は普通の総合大学に進学して、相変わらず独りで8mmカメラを回していました。数人の理解者とともに、鳥取砂丘などにロケと称してあてのない旅にも出掛けました。
「私の学生時代は映画三昧でした!!」と滑舌よく宣誓してみたいのですが、残念な事に当時の私の身体を席捲したのは、熾火のようにくすぶる学生運動でした。来る日も来る日もキャンパス内で情宣ビラをまき、夜は輪転機の油にまみれながら酒を飲み、翌朝またヘルメットを被って隊列を組む、そんな日々が続きました。再会した小学校の同級生に告白して付き合いかけたものの「そんな事を続けていたら就職できないわよ。」という手紙とともに彼女は去りました。
結局、無為徒食と言っても過言ではないただただ痛いひりひりした5年間、一体何をしていたのか、未だに詳細のひとつひとつに納得するものはありませんが、5年間という塊そのものは現在の人格形成に多大な影響を及ぼしていると自覚しています。つまりそれは、映画を作るしかない、という諦念に似た希望だけが、澱のように残ったという事実です。
この自覚は、しかし生業についての選択眼を曇らせて、私を広告代理店という魔窟に誘ったのです。
たまたま入社したその会社はブラックどころか漆黒の闇そのもので、残業は多い時で200時間を上回りました。しかも悲惨な事に広告製作の面白さに気がついてしまったのです。この時期、私は、超繁忙会社への入社、第一子誕生、妻の癌発覚が重なり、生きた心地がしない数年間でした。ところが驚く事に、この時期が、これまでに最も多くの個人映画作品を制作出来た時期なのです。後にまとめたフィルモグラフィーを眺めるとそれは如実で、逆境に強いのか逃避意識が強いのか、未だに定かではありません。

約10年間のサラリーマン生活に見切りをつけ、私は映像製作プロダクション代表として独立しました。子供は成長し、妻の癌は奇跡的に完治していました。
その後独立して21年。サラリーマン時代よりは遥かに多くの自由になる時間を手に入れたはずが、決してそうではなく、金策に走り、不本意に頭を下げる未経験の雑事はかなり私の心身を蝕み、ストレスだけが生み出されて作品はなかなか生まれなくなりました。それでも何とか自前のカメラだけは手に入れて、次の構想を練っているのですが………。
時々、仕事も映像制作も何もかも辞めたい衝動に駆られる事が有ります。かつてサラリーマンを辞めました。その後、夫も辞めました。でも映像制作については、辞めるとかそういう事ではない気がします。すでに交感神経の担当になってしまったのかも知れません。例えば、私たちが呼吸するように、睡眠をとるように、気がつくとシャッターを押しているという感覚でしょうか。

私のひとつ年上の映像作家、ハンガリーのタル・ベーラは、「もう映画ですべき事はすべてやった。」といって2011年にリタイヤしました。そう言い放った時の彼の歳をもうとっくに越えたのですが、私はそんなに格好良く達観出来ずモタモタグズクズしています。ただ、若い頃の気概、例えば内的世界を屹立させるイメージの具体化・顕在化といった勇ましい衝動は陰を潜め、「作り出す世界」から「見つけ出す世界」へ意識がシフトしているという自覚があります。この兆候は50歳を過ぎてから顕著で、傲慢さを戒め、静かに、ゆっくりと、見つけた部分に対する思考をそっと置きにいくような作品作りが心地良くなりました。畢竟、益々人々のカタルシスには寄与出来ず、更なる難解さを抱え込み、もちろんこれを生業とする事など微塵も考えずに今日まで生き長らえています。

そして2015年。折角ここまで生き長らえているのなら、夢のひとつくらい叶えてみたい、という思いが募り、30年来の構想であった、個人映画・実験映画の専門上映空間を開設しました。
個人が作る映像作品は、非商業的な性格から映画館ではかけられず、美術画廊などでは設備がなく、最近やっと美術館や資料館、図書館などにホールが完備されたものの敷居が高く、これまで殆ど専門の場がないのが実状でした。そのため個人的に映像を手がける作家たちは、喫茶店や会議室を借りて機材を持ち込み、自ら仮設の上映空間を確保しなければなりませんでした。80〜90年代にかけてこのような巡回仮設上映の苦渋を13年間味わった私は、いつか個人映像の専門スペースを作りたいと切に願っていたのです。
自分の作品発表の場としてはもちろん、この世界に無数に眠っている個人が紡ぎ出した様々な映像世界を、この漆黒の空間に解き放ちたいと、様々な企画を目論んでいる今日この頃です。

長い手紙になってしまいました。恐縮です。
10人居れば10通り、100万人居れば100万通りの生き方がある訳で、そんな、人の半生のひとつにおける微細な変化について書き連ねた拙文に最後までおつき合いくださり有り難うございました。
時節柄、お身体ご自愛ください。

■櫻井篤史さんって、どんな人?
sakurai
1956年京都生まれ。0歳時大阪。以後1〜3歳鎌倉。4〜17歳横浜と巡り18歳の時に京都へ還る。1970年頃から8mmフィルム作品を制作、1990年頃からビデオ作品も手がける。1994年、映像製作事務所Finders Büroを設立し現在に至る。2007年より京都精華大学などで非常勤講師を勤めながら作品制作を続ける。2015年、京都・河原町五条に映像専門ギャラリー“Lumen gallery”を開設。
映像製作プロダクション代表 | permalink | - | -
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