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2015年9月号 衣笠 収さんより、おてがみが届きました

言葉の葉っぱにあるゆたかさ


言葉について、みなさんはどのように考えていますか?
言うまでもなく、言葉は何かの意思、考え、情報等を伝達する人間考えたツールです。
伝えるという長年の思いと経験を積み重ねて、今の言葉が存在します。
その言葉の使い方という点に着目すると、今はどうしても発信側の視点にウエイトが大きくなっているように感じています。
言葉に力強さ、揺るぎなさなどが備わっていくと、人を動かす説得力を持った言葉になっていきます。マスコミ等で語られる言葉を見ていると、どうも発信側の視点が重視される言葉が「いい言葉」となっているように感じます。
しかし、これらの言葉は本当に「いい言葉」なのでしょうか?
逆に、曖昧な言葉や力強さに欠ける言葉の存在は、人間的なコミュニケーションおいて非常に重要なのではないでしょうか?
これはそもそもコミュニケーションとは一体何かを考えていくことにもつながっていきます。伝えたいことを伝えたいという人間の欲求はたしかにあります。しかし、伝えるという行為は、発信側だけの行為でなく、受信側の行為でもあります。
受信側の相手のことを考える、感じるという意識は、コミュニケーションにおいて難しいことではありますが、最も大切なことではないかと思っています。その行為は相手への思いやりや自分への謙虚さにもつながっていきます。伝わりにくいストレスの解決を、発信側の言葉の力強さだけに頼ってしまうと、もはやコミュニケーションとしての言葉ではなくなってしまうのではと思います。
 雄弁に語られる言葉は非常に魅力です。しかし、その雄弁さがゆえにお互いに相手のことを感じとれるチャンスを失っているかもしれません。
今や多くの人が利用するフェイスブックに書かれている言葉についても考えてみたいと思います。ここでの言葉も発信者側にウエイトが置かれたものと言えます。誰にという相手を不明確なまま発せられている言葉が、フェイスブックでは多く見受けられます。この言葉は発信者側だけにある言葉であって、コミュニケーションとしての言葉ではないと言えます。返信のコメントや「いいね」ボタンでコミュニケーションがとれているようにも思えそうですが、発信者と違う意思や反対意見などは見えにくく、同じ考えの人同士だけの共感だけが可視化されやすい仕組みになっていると思います。
人との共感は気持ちのいいものです。しかし、共感ばかりを求めるコミュニケーションは、大きな盲点もつくりがちです。自分の想像力、創造力を高めていく上で、自分とは違う考えの人の存在は非常に重要です。とは言え、そう簡単に受け入れられないのも人間です。そのストレスとどう向き合うかが、コミュニケーションの難しさ、大変さとも言えますが、そこに曖昧な言葉やか弱い言葉がコミュニケーションでの工夫として使われ、相手を察していく気持ちを生み、ストレスを軽減させるのではないかと思っています。
あまりにも曖昧で、弱くてその言葉を見逃してしまうこともあるかと思います。実際に言葉として発していない言葉もあるかもしれません。言葉にできない感覚、あえて言葉にしない感覚。これらが言葉の「葉っぱ」の部分とも言えます。その言葉の「葉っぱ」の部分を感じとる力が発信者側と受信側の双方にあることが、ゆたかなコミュニケーションだと思っています。特に、日本人はその感覚を大切にしてきたと思っています。しかし、それが国際舞台等強い意見やPRを求められる場面では、マイナスに受け取られることも多々あるようです。出てこない、見えない言葉を大切にする、それは相手のことを察するという日本文化の素晴らしさ、優しさではないかと思います。

さて、名乗るのが遅くなりましたが、私は、神戸市役所で働く衣笠と言います。これまで仕事で文化、デザインに関わり、その中で、目に見えないモノをどう感じるかの大切さを実感しました。私たちは、目に見えるモノについて安心感を持ちすぎているように思います。しかし、人間的なゆたかさ、楽しさ、喜びは、そればかりではありません。むしろそこに人だからこそ感じられる幸せがあるのではと思っています。
そこで、私は人事異動で文化関係の仕事を離れたのをきっかけに、「ゆたかな日常とクーナとアートの会」を立ち上げました。
人の生き方、社会のあり方として、「日常をゆたかにさせていくこと」というのはどういうことなのかを考え、実践していく場を創り続けていく会です。
会の名にある「クーナ」はこびとの名前です。目に見える存在ではありません。感じることで認識できる存在です。目に見えることばかりに動かされがちな今の世の中にあって、感じとっていくゆたかさを再認識していければと思っています。
そして、アート。アートの持つ非日常的であったり、不可解であったりする視点は、私たちに新しい気づきを与えてくれます。
 この会を通して、明るい未来を実感できるゆたかな日常を実現していく価値観を確かめ合っていきたいと思っています。

今の私は、「人って何だろう?」「生きるって何だろう?」と貪欲に、そして素直に考えていこうとしています。
そのことが、最初の言葉について考えることにもつながっていきます。「ゆたかな日常とクーナとアートの会」でしようとしていることは、言葉の「葉っぱ」を大切にし、感じようとすることでもあります。自分は、コミュニケーションをうまくできる人間でもないですし、他の考えを優しく受け入れる大きな寛容性もありません。しかし、そんな自分でよいのかと問い続けることが、自分を成長させ、人との関係性もゆたかにしていくという気持ちは持ち続けたいと思っています。

言葉の「葉っぱ」をお互いに大切に感じとりあっていける世の中に。
なんかいいと思いません?
今の私の夢ですね。いや、これからもずっと考え続ける夢かな。


■衣笠 収さんって、どんな人?
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ゆたかな日常とクーナとアートの会 きっかけ探究家

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