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2012年6月号 濱口竜介さんより、おてがみが届きました

手紙についての手紙


 お元気でしょうか。私は元気にしています。変わらずやっています。何を書いたらよいかわからないのはいつものことで、まずは「手紙」について書くことから始めます。そうすれば自ずと書くべきこともわかるでしょう。

 手紙を書くということも最近はすっかり少なくなりましたが、子どもの頃は人並み以上に手紙を書く子どもではありました。小中学生の頃、いわゆる「転勤族」として引越しと転校を繰り返していたせいで、メールも携帯電話も普及していない当時、もしも離れた友だちとつながりを保ちたいと思ったら今やほとんど死語となった「文通」というものをしなければなりませんでした。ただ、結局それも自分の意志の弱さからか、そう長く続いたことはありません。率直に言えば、文通をしていたときというのはそのときいる土地に馴染めないときで、文通が終わるときというのは、新たな土地とうまく関係を作れたときでした。つまり、恥ずかしながら、ある種の逃げ場として手紙を書いているわけです。重ねて恥ずかしながら「ここにいる自分は本当の自分ではなく、この手紙に書き付けられているものこそが本当の自分なのだ」とでも言うように、あくまで自分の感じる/信じる「本当の自分」みたいなものをそこには書き付けて郵送します。ですから、それは泣き言や弱音では有り得ません。「僕は元気です。変わらずやっています」ということを書き付けるわけです。そして、その「元気」で「変わらずやっている」自分というものが、遠く離れた友達のもとで生きるのであれば、今のこの自分も「元気」で「変わらずやる」こととどこか通じているのかも知れない、そんな気持ちがあったように思います。

 そうした「本当の自分」というのは、言うなれば、自分の中でも最良と思われる、そんな自分です。自分の中の「最良の自分を差し出す」こと。手紙を書きつけるという行為には、それが受け取り手にとって押しつけであれ何であれ、そういうところが間違いなくあります。確かにあると感じることができて、自分の中でも一番価値を感じてさえいる部分なのに、どこにも行き場のないその「最良の自分」の避難所として、ある種の手紙は書きつけられるところはあるのではないでしょうか。そして、そうした手紙が書き付けられるのは大概「夜」それも「深夜」という時間帯であることは言うまでもありません。そして、朝になって、結局出されなかった手紙もそれは数多くあるのです。

 ただ、そうした朝の検閲を通り抜けて、何とか受け手の許にたどり着いたその手紙は、実際のところ、単に受け手を困惑させるものであるでしょう。手紙に忍ばされた、生活の中には容易には現れない「最良の自分」は、それまでごく自然に生活を営んでいた受け手を、日常生活とは別の次元に予告なしに引きずり込もうとするところがあるからです。受け手の状況によっては、そんなことは甚だ迷惑なことでもあります。それでも、立場が反転して突然、友人から胸の内を明かされるようにして届けられた「最良の彼/彼女」を受け取ったときにはやはり、モードをそれに合わせるためにどれだけ苦労をするとしても、いつか必ず最良の自分で以てそれに応えたいという気持ちにもなります。返信が、もらった手紙の価値を決定づけてしまう、そんなところがあるからです。返信次第では、その「最良の彼/彼女」を貶めかねない以上、返信はやはりでき得る限り「最良の自分」を以てする必要があるでしょう。そんなわけで、どこかあらゆる手紙への返信としてあるこの手紙に書き付けられるものも、おそらくはそんな自分なのではないかという気がします。

 個人的に、こうした手紙を受け取ることに少し似て感じられる経験があります。それは映画を見ることです。大学から、ようやく東京に居着くのですが、入ったサークルの先輩たちの影響で、見る映画のジャンルがそれまでとはがらっと変わりました。具体的に言えば、ハリウッド映画(またはその縮小再生産としての各国映画)だけでなくヌーベルヴァーグ、ニュージャーマンシネマ、アメリカン・インディペンデントの映画、世界中のクラシックを見るように徐々に変わっていきました。誤解を恐れずにごく単純に言えば、「面白い」映画だけでなく、「退屈な」映画も見るようになったわけです。ただ正直に告白すると、そうした映画を映画館で見るたびに寝ていました。そうした事態があまりに続くので、映画の感想を言い合うことを避けたり、自分には映画を見るセンスがまるでないのではないかと不安になったものです。それでも、寝てしまいはしても、寝てしまうような映画の中に、「寝てしまう」というそのことも含めて特殊な経験をしていることを、そこはかとなく感じてもいました。それは誰かと分け合うことがとても難しい、映画との間に起こる極めて個人的な体験であったようにも思います。

 不思議なものですが、寝て醒めたとき、目の前で投影され続けている画面からは、極めて特殊な「充実」の感覚を受け取ることがありました。その感覚を得たときには、何とも言えず「ああ、いい映画を見ているなあ」と幸福を感じたりもしました(そのことを先輩たちの前ではなかなか口にはできなかったのですが)。今なら、自分が寝てしまう理由もわかるし、それを受け入れられもします。そうした映画は「情報」からはできてはいなかった、ということです。「面白い」ハリウッド映画は「情報」を因果関係の連鎖として呈示します。その緊密な連鎖は本来なら時間に含まれているはずの「退屈」を排除してしまうほどのものです。それ自体まったく否定されるべきではないこの独自の洗練にハリウッド映画が至ったのは、ビッグバジェットで映画を作り続けるサイクルを保つため、「生きもの」としての人間の生理に忠実であらざるを得なかった、その結果でしょう。我々はそうした部分を退化させているとは言え、基本的には生きものであり、動物ですから、眼前の世界から情報を汲み取って、それを自らの生に役立てようとします(かつては、目の前の動植物を「食料」と看做して狩猟・採集するところから始まっていたであろうその習慣は、今もスーパーやコンビニでの商品の取捨選択として残ってもいます)。そうした「面白い」映画がどれだけ私を楽しませてくれたか、ということはまた別の話で、違う手紙が必要になるでしょう。

 一方、「退屈な」映画とは、言わばこうした情報化、情報の抽出を世界に対してより少なく行う映画と言ってよいと思います。それは言うなれば、「生きもの」の時間から離れた映画です。そうした映画を前にして、まぶたを閉じざるを得ないのも、これはほとんど当然なのだという気が今となってはします。我々「生きもの」は、眼前の世界から情報を汲み出せないとき、そこからは顔を背け、新たな対象を探すことに慣れているからです。しかし映画館という環境は、その場に留まり、スクリーンを見つめ続けることを、目を反らしたり、出て行くことよりずっと容易なこととして我々に用意し、与えます。立ち去ることも、目を反らすこともできないまま「退屈」を前にした我々は、そのとき情報入力の為されないコンピュータのように「スリープ」状態に入ることがあります。これが、映画を見るときの私にかつて、そして今も起きることなのですが、言い訳ではなくて、それは極めて「生きもの」として自然なことだとさえ今は思います。そして、ここで何とかお話ししたいのは、この「スリープ」を経て、何らかのきっかけで目を覚ましたとき起こる、それまでとは違う身体の在りようです。

 多くの場合、そうしたスリープを経た身体は、もう眠気に襲われることはありません。もちろん既に物語の脈絡は失ってしまっているし、それは決して取り返すことができないのだけれど、だからと言って映画を見て、退屈を感じると言うよりも、先ほども述べたような「充実」を画面から受け取ることの方がずっと多いように思います。時にそれが、沈黙であり、不動の画面であっても、そうした画面から受け取るものはやはりある種の「充実」であったように思います。「スリープ」という儀式を経て、身体が裏っ返るような、まるで映画専用の身体に書き換えられたような感覚があります。それはほとんど映画への供物のような身体であり、そこには「生きものの時間の終わり」があると言っても決して大げさではないと思います。そうした「生きものの時間」とは離れた持続が、映画が終るまでの残りほんのわずかのことであっても(いや、だからこそ)、そこにはあります。映画を見ることに慣れれば、こうした身体に「スリープ」を経ずにたどり着くこともありますが、やはり「スリープ」を経ることで、それまでの生活との連続性が明確に絶たれた身体が生まれることは確かに思えます。そして、そのようにして映画に捧げられた、映画への供物のような身体は、手紙に書き付けられる「最良の自分」というものとどこかとても近しいものであると、私は感じています。映画館の暗闇と、そうした手紙を書き付けることになる「深夜」という時間は何だかとても似ているように思われます。そういえば、映画の公開日のことを「封切り」と呼んだりすることを唐突に思い出したりもします。

 私は現在幸運なことに、大学で始めた「映画を作る」ことを卒業以降もずっと続けることができています。映画制作の際、私は映画を手紙のように、返信のように感じることがあります。映画を見ることから受け取ったものや、「最良の彼/彼女/あなた」の書き付けられた手紙に対する返信であることを、ほとんど義務のように感じています。ただ集団作業であるそれには、手紙のように直接に「自分」が書き付けられることはもはやありませんし、そうであってはならないとも思います。それでも、それが「最良の何か」を含むものであって欲しいとは常々思っています。それらはおそらく、いつもこの世界の沈黙と不動のうちに隠れています。それは現れるかもしれないし、現れないかもしれないものです。その不確かさの前に立ち止まるためのほとんど確信めいた予感をくれるのは、今まで受け取った手紙たちです。生活の中にほとんど現れることのない「最良の何か」の存在を、そうした手紙はいつも教えてくれます。それがあるから、開かない唇と、動かない指先を前にして、予感と期待に満ちた時間を過ごすことができます。私は「生きもの」としてはおよそ賢いかどうかわからない、そうした時間の使い方をできる今を、とても大切なものと感じもします。

 言葉にできることは精々ここまでです。果たしてわかり易い話ができたでしょうか? わかる/わからない以前の、バカバカしい話だったでしょうか? それでも、いずれまた続きをお便りしたいと思っていますし、気が向いたときには、ぜひ返信頂きたいとも思っています。

 それでは、くれぐれもお元気でお過ごしください。失礼致します。



■浜口竜介さんって、どんな人?

1978年神奈川県生まれ。2006年、東京芸術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域に入学。2008年、修了制作として制作された長編映画『PASSION』が国内外の映画祭で上映され、高い評価を得る。その後も、長編『THE DEPTHS』、『親密さ』、そして東日本大震災の津波被災者にインタビューしたドキュメンタリー『なみのおと』を監督。2012年2月現在も仙台を拠点としたインタビュー・活動を続けている。

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