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2011年10月号 熊本拓矢(くまもと たくや)さんより、おてがみが届きました

 親愛なるマリア・マリーナ・メンデロ様

 

 突然にもお手紙を差し出しまして、大変申し訳ありません。

 私は、日本に住む、熊本拓矢と申します。

私のことを覚えていらっしゃいますでしょうか? 

 

5年半も前のこと、地中海の畔、イスラエルのハイファーで、わずか数時間の出会いでしたが、マリーンさんより「一宿一飯」の恩に与った者です(「一宿」はしてませんね……)。

 マリーンさんは、私のことを覚えていらっしゃるかと思います。そうです、なぜなら、マリーンさんがあれから半年も経って、丁寧に便箋にしたため、わざわざ7.5シェケルも払ってエアメイルで送って下さったお手紙に、私は返事をしなかったのですから!

 いつまでも返事の来ないことに、憤慨もしくは悲しい思いをされたかもしれません。本当にごめんなさい。でも、マリーンさんのお手紙、たしかに私のアパートに届いていました。そして、お手紙をこの5年のあいだ、私は何時も部屋の手の届くところに置いていました。部屋が、紙と本とでひっくり返ったようになったときも、引っ越しをしたあとも、いつも、本と本の間に、棚の上に、そっと置いていました。

 

 あれは、私がヨルダン川西岸のパレスチナ自治区にある大学を離れ、エルサレム旧市街の城壁にも別れを告げ、若干の緊張とともに初めてイスラエル領内に足を運んだときのことでした。脳天を殴りつけるような灼熱を8月の太陽が降り注ぎ、そこかしこに血の匂いが滲むのを嗅ぎ付けずにはいられない聖都の高原から、転げ落ちるようにしてバスは、夜風に潮の香るあの港町にたどり着いたのでした。バスを下車したものの、闇夜に文字通り右も左もわからなくなり、自分の旅程の判断の誤りに気がついたとき、私は通りがかりのマリーンさんに道を尋ねたのです。

 正直なところ、西岸からも離れたイスラエルの街で最初に出会うのが、まさかフィリピンからの女性とは思ってもいませんでした。パレスチナとイスラエルの紛争について勉強していた私は、1948年、あの街ハイファーから追放された幾万ものパレスチナ人たちの、いまやうずみ火のような、僅かな生き残りに、相まみえるのだという、その一心でした。同じアジアの東の端から、アジアの西の端にやって来た者どうしとして、路頭に迷った私をマリーンさんは暖かな心で助けて下さったのだと思います。そういえば、ヨルダン渓谷の北端、地の底のような場所にある国境の町で、文無しの私を助けてくれたのも、韓国からの宣教師の若い夫婦でした。

 腹を空かせた私を、マリーンさんはアパートへ連れて行き、インスタントヌードルを食べさせてくれました。小さな部屋に詰め込まれた幾つもの二段ベッド。そこに下着姿でからだをうずめるようにして休んでいる、マリーンさんと同じ出稼ぎの女性たちの寝息、汗、そして室内に干してある洗濯物。それらの放つ湿り気に包まれながら、暖かい食事にありつけたのでした。そう、帰国の途中、ベイルートからドバイへの機中でも、女性たちの波に飲み込まれました。狭苦しい機内の最後部に、560人ものスリランカからの出稼ぎ女性たちが押し込まれ、なぜか私は男一人、その中に放り込まれたのでした。私の隣のシートの若い女性は、ベイルートのレストランで3年ほど働いていたと話してくれました。彼女は英語は話しましたが、アラビア語とフランス語の国レバノンで、彼女はどのようにして働いていたのでしょうか。彼女に家族のことを訊くと、スリランカにいる彼氏の写真をくたびれた財布から出して見せてくれました(なぜか、写真はすでにセピアがかって変色していました……)。

 行きに日本を発ち、さらにドバイでトランジット、アンマンへと向かうとき、隣席の男性は、バグダッドに親類一同を残して妻子と一緒にクアラルンプールで暮らし、現地の大学で電子工学の教鞭を執る、イラク人でした。ヨルダンに降り立ったら、陸路でバグダッドへ入ると言っていましたが、戦争から2年後、いまだ混乱のさなかにあるイラクで、首都までたどり着ける命の保証は全くない、むしろ殺される可能性の方が大きいときのことでした。「殺されてしまうのではないですか?」と訊くと、「そうかもしれないな」、男性はそうひとこと言ったきりでした。

 

 マリーンさん、私が返事をすぐに書けなかったのには、マリーンさんが書かれていた切実なご希望にどう応えたらよいのか、わからなかったからです。日本で何か仕事を探してほしいとのことでしたが、適当なものを見つけるのは難しく、ですがマリーンさんから頂いたご親切に対して、私が助けて頂いたように応じない訳にもいかないと思い、どうしたらよいのか、わかりませんでした。フィリピンでは英語の教師をされていたマリーンさんには、様々な職と機会の選択肢があってよいところ、ケアギヴァーか老人の付き添いの仕事の口を私にお求めになられて、私は当惑しました。マリーンさんが日本での仕事を切実に求めていらっしゃったこと、とても伝わってきました。イスラエルに比べれば、日本とフィリピンは圧倒的に近く、帰郷もすぐにできますし。

 「多くのフィリピン人女性が、性産業で働いている」。あの夜道でマリーンさんが「日本で仕事はないか」と尋ねられたとき、私はそう答えました。本当に失礼なことを言ったと思います。ですが、いまでも無視できない現実です。先日、私の住む京都で会ったフィリピン人の女性は、日本人男性と結婚したものの、何年間も、家の外に自由に出させてもらえなかった、と言っていました。でも、私の知る限りですが、この京都には教会を中心にフィリピン人女性たちの互助グループがあります。そこにアクセスすれば、日本での仕事や生活の取り掛かりが見つかるかもしれません。

 マリーンさんはいま、どちらにお住まいなのでしょうか? まだ、イスラエルにいらっしゃるのでしょうか? それとも、ほかの国へ移られたのでしょうか。それとも、フィリピンへ戻られたのでしょうか。マリーンさんにお会いして後日、ハイファーの街の背後にせり立つカルメル山の上に建つ、マリーンさんが働いている豪華なリゾートホテルへ足を延ばしました。山の頂上の遊歩道のベンチに座って、目の前の地中海の水平線の彼方に、アフリカ大陸とヨーロッパが見えないものかと、ずっと目を凝らしていました。足もとの大地は、左へはエジプト、右へはレバノンへ向かって続いていました。私たちの故郷は背中の方、ユーラシア大陸を丸ごと越えないといけませんね。眼下には、家々が建ち並んでいます。60年前、ユダヤの軍は、私のたたずむ場所からも迫撃砲と銃弾の嵐を、下のパレスチナ人たちの暮す市街へ浴びせたのでしょうか。何万人が、海へと押し出され、北へ南へ難民となり流浪していったのでしょうか。

 マリーンさんも、いつもお仕事の途中、ふと手を止めて、この景色を眺めていらっしゃったのでしょうか。

 

 私は、遅くても1年のうちには、またハイファーへ戻るつもりです。あの街で、マイノリティとしてゲットーのような地区に住むことを、かつてゲットーに住んでいた者たちの片割れによって強いられている、パレスチナ系の住民たちと働くためです。

 もしマリーンさんがまだ現地にいらっしゃれば、再会できましたら幸いです。のちに神の御子となる石切り職人の青年が暮らしたナザレへ、12時間バスに揺られて行き、オリーブの木陰でゆっくりできたらいいですね。

 実は私は、マリーンさんの故郷のフィリピンにも行ったことがあります。マニラから北へ車で3時間、ターラック州の農村です。香水の原料のイランイランが特産という、緑豊かな素敵な村でした。そのときの写真を同封します。フィリピンでマリーンさんにお会いできるなら、マンゴーの木の下でピクニックですね。

 

 マリーンさん、そして私がお会いした女性たちの皆さんが、幸せにお過ごしでいらっしゃることを、祈っています。

 

 

熊本拓矢

 

 

■熊本 拓矢(くまもと たくや)さんってどんな人?

 kukuma

1982年、名古屋市生まれ。シンガポール日本人小学校卒。

大学院でパレスチナ難民文学の研究に取り組むも、ゆきづまってしまい、中退。

諸事低迷のとき、「ココルーム」と「カマン!メディアセンター」を通じて釜ヶ崎に出会いなおして、元気が出る。一人ひとりの人に向き合って、日本でもパレスチナでも働ける、そんな弁護士を目指して目下、勉強中!

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