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2010年10月号 尾角光美(おかくてるみ)さんより、おてがみが届きました

「母の日なんて大嫌いだった」

はじめまして。大切な人を亡くした方のサポート(グリーフサポート)をおこなっている団体、Live onの尾角光美(おかくてるみ)です。現在26歳、同志社大学の学生です。

突然ですが、みなさんは母の日の原点を知っていますか?

日本の母の日は、生きているお母さんに「ありがとう」を伝える、感謝をこめて贈り物をする日の印象がありませんか。バレンタインやホワイトデーのように商業主義的な側面も見え、母の日はクリスマスよりも大きなギフト市場でおよそ5000億円規模とも言われています。

そんな母の日。実は「亡き母への追悼」が原点にありました。
アメリカ・ウェストヴァージニア州で、アンナ・ジャービスという女性が亡き母を追悼するため、 1908年5月10日にフィラデルフィアの教会で白いカーネーションを配ったのが始まりというお話です。彼女の思いに感動した人たちから母の日をつくる運動へと広がったのです。

わたしは7年前に母を自死(自殺)で亡くしました。わたしにとってはそれ以来、母の日は自分と関係のないものだと思っていました。けれど、偶然2007年にインターネットで母の日の起源と出会いました。そのときは天と地がひっくり返るような驚きでいっぱいになりました。「なんだ、母を亡くした子も母の日の主役じゃないか」。そんなことを思い、これを広めよう、伝えていこうと考えました。それから一年後、同じように母を病気や事故、自死で亡くした友人たちに声をかけてチームをつくり、全国の亡き母をもつ子に「亡き母に手紙を書いてみませんか?」と呼びかけて文集をつくりました。京都の和紙屋さんと相談を重ね、紙を選び、素人ながらに編集をして、手刷りで印刷機にかけて、製本をして、やっとの思いで出来上がったのが『101年目の母の日〜今、伝えたい想い〜』です。

この反響は出版したわたしたち自身の想像を絶するものでした。

母を亡くした人はもちろん、母が健在の人たちからも多くの声をいただきました。

「現在60歳です。80代の痴呆症の母の介護で、部屋中に『怒鳴らない』、『なぐらない』といった紙を張りながら、なんとか自分を律しながら生活しています。それでも、亡くなる最後まで大切にしたいので、亡くされた子たちの声をきかせてください」



  「私は私の母が大好きです。大学生の今でも母にはすごく負担をかけていて申し訳なく思うと同時に常に感謝の気持ちでいっぱいです。同じように、生きているいないにかかわらず、母親を大切におもう人の声を知りたいと思いました」(20歳学生)

「私の母は亡くなって7年です。なくなって母の荷物を整理していたら『私の子供たちへ 
あなたが100歳になっても私はあなたの母です』とありました。今も母が見ていてくれ
ると信じています」

タイトルの「母の日なんて大嫌いだった」というのは25歳の女の子の言葉から引用しました。

「私の母は、私が12歳のときに病気で亡くなりました。その次の年から、私にとって母の日は苦痛な日へと変わりました。周囲は笑顔でカーネーションを買っているのに私は泣きながら仏花を母の仏壇に供える。そのことにかなりの寂しさと悲しさを感じていました。
母の日なんて大嫌い、自分には全然関係ない、と思っていたけれど、母の日の企画を知って、私も素直に母への感謝を表していいのだと思いました」


こうした反響を受けて、「これは続けていきたい」と思いました。2009年、二年目はより多くの人へ届けるために『102年目の母の日〜亡き母へのメッセージ〜』(長崎出版)を上梓しました。108人の方から作品を応募いただいたのですが、中には詩を書いてきてくださった方もいらっしゃいました。自分に合った表現の方法を選んでもらえればとの思いから、手紙、手記、詩、絵といった多様なかたちで募集したのが二回目の特徴でした。

そして今年は今まで応募が少なかった若年層に対象をしぼって募集をしています。
作品募集→http://liveon-m.com/genkou.html

母を若いときに亡くすと、進学、成人、就職、結婚や出産、人生の局面で「みんなまだいるのに、わたしにはいない」といった喪失感を強く感じることがあります。
そうした、気持ちに寄り添っていたい。Live onの願いです。
大切な人を亡くした痛みや悲しみは完全に癒えることはなく、グリーフ(喪失による反応)にゴールはないといわれています。だからこそ、長い長いグリーフの旅をともに歩むような存在として活動を続け、広めていければと思っています。

わたしは確かに母を失ったけれど、そのことを経て今まで出会ったひと、つながってきたひとたちは母から送られてきた贈り物だと感じています。

失うことと得ること    母を亡くしたから、出会えたひとがいました。
悲しみと喜び       悲しんだ分だけ、感じられる喜びがありました。
生と死           母の死から、生きることを学びました。
光と影           影の中にいたからこそ、一筋の光を尊く思えました。

「ふたつでひとつ」
これはわたしの大好きな女流詩人、金子みすゞさんのテーマでもあります。
みすゞさんの詩からはひとつのものにあるふたつの面への「まなざし」が感じられます。
もしかすると、「ふたつ」どころではないかもしれませんが。
「丸ごと」という方がしっくりくるかもしれません。丸ごと認め、受けいれるまなざし。
Live onもありのまま、そのままの「ままに」を大事にして活動しています。

今年の母の日の本にはわたしも、母を想って詩を投稿しようと思っています。
みなさまもしよければご笑覧、ご一読ください。(4月下旬発行、詳細はHPにアップします)

【女流詩人のみなさんへのメッセージ】
「女流」ってナンダロウ?と思い調べてみたら、一般的に男性の職業に女性がついた場合につかわれるということをはじめて知りました。わたしの親友(女の子)は詩を書くのが大好きで、わたし自身も金子みすゞが好きだったので、「詩人=男性」というイメージは薄かったと思います。でも、実際詩集のコーナーに行ってみると男性の名前が多いので、なるほどと思いました。詩で表現することにおいて、「女流」ゆえの良さってあるのでしょうか。男性はこうだ、女性はこうだといった型にはめた見方は好きではないのですが、ここではあえて「女流」にこだわって言葉をつづってみようと思います。

女性はつよく、やさしく、しなやかだ。

というのがわたしの女性の印象です。もしかすると、偏見かもしれないしわたし自身が女性として「そうありたい」という願いかもしれません。

生命を生み出す存在として、実際に母になるならないに関わらずすべての女性に「母なるもの」はそなわっているのではないでしょうか。そうしたいのちを生み、育んでいく、つよさ、やさしさ、しなやかさが女流詩人のつよみなのかなと思います。

いえ、これは評価や分析ではなく、やはり「ねがい」です。

わたしは母に満たしてもらえなかったものがたくさんありました。わたしがもの心つくころには母はうつ病でした。
「あんたなんか生まれてこなければよかったんだ」
と言われたこともありました。
それを言った母自身も傷ついていたのだと、今では感じます。でも、わたしのいのち、生まれてきたことを尊重して、守ってほしかった。そんな思いから、この「ねがい」は生まれたのだと思います。

金子みすゞさんが3歳の娘を遺して自死したことは「子どもを旦那から守るため」という思いからではないかと言われていますが、わたしの母の自死も最後はわたしたちを「守るため」だったのかもしれません。

でもわたしは、今生きているおんなのひとたちがもし生きづらいのだったら、それでも生きるつよさ、やさしさ、しなやかさが自らの内にあると信じられるよう願います。
女流詩人から紡ぎだされた詩を読んだとき、そう信じるチカラが湧いてきますように。


■尾角光美(おかくてるみ)さんってどんな人?
http://blog.canpan.info/dogenkasenaika/archive/2675

■プロフィール
1983年生まれ。都立国際高校卒業。死別を経験した人や遺児のケア(グリーフケア)、総合的なグリーフサポートを行う団体Live on(リヴオン)代表。グリーフを通じて、ひとりひとりが「ままに」を大切に生きられるような社会づくりをめざしている。2003年大学入学直前に母を自死(自殺)で亡くす。あしなが育英会を通じて遺児のケア・サポートに携わり、2006年から全国で自殺やいのちをテーマに講演をはじめる。2008年第五回京都学生人間力大賞「京都市長賞」受賞。2009年『102年目の母の日』(長崎出版)編著。同年9月全国の自死遺児のケア・サポートをスタートした。
http://liveon-m.com/index.html
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