2013年1月号 小野民さんより、おてがみが届きました
蘭の会のみなさま、はじめまして。小野民と申します。
私は、「編集者」です。なぜ「」づきかといいますと、未だに自分の肩書きを名乗るときには緊張するし、“一応”とか“半人前で”などとどうしても但し書きしたくなってしまうから。あの人こそ編集者、と憧れる先輩の編集者ぶりを鑑みると、どうしても自分が編集者だと大きな声で宣言する気力を失います。
ではなぜ編集者になったのかといえば、突き詰めれば偶然です。でも、理由を100挙げろと言われればたぶん挙げられる――そんな風に人生や世の中はできていると思います。
だけど、せっかくなら、気持ちを込めた理由をひとつ持っておこう、と思い立ちました。理由をひとつ挙げるとしたら話したい、国語の先生の話があります。ただの思い出話かもしれませんが、よかったら聞いてください。
国語の授業と国語の先生が好きだったから、私は編集者になりました。
国語の授業を大切にする、笑顔がすてきで、すごく怖くて、とても優しいT先生に出会わなければ今の私はありません。私がT先生に出会ったとき、T先生は、定年したての61歳か62歳の先生でした。私が小学校2年生のとき、1年間の産休をとった若い先生の代わりにやってきました。
結局、1学期の始業式から3年生になるまで、ずっとその「おばあちゃん先生」が私たちの担任になるのですが、初めはもうちょっと短期間の予定だったように記憶しています。私が通っていた小学校は全校生徒60人ほどの農村の小さな学校で、私のクラスは10人の女の子と4人の男の子で構成されていました。
T先生は、定年まで教頭や校長という立場を選ばず、誰かの担任であり続けた人でした。今思えば、なかなか変わり者の先生だったのでしょう。過去の記憶がどんどん遠くにいってしまう私の頭の中でも、なぜかT先生との思い出だけはちゃんとしまわれていて、今でもよく思い出します。
NHKの連続テレビ小説が大好きで、給食の時間、12時45分になると生徒の誰かが教室の天井高くに備え付けられたテレビのスイッチを押すのが、1年間の日課でした。その頃は『女は度胸』をやっていて、毎日先生と14人の生徒で一喜一憂していました。
黒飴も好きで、よくこっそりとみんなに飴をくれました。ビールも大好きだと言っていました。なにかのお祝いのときには、コップに黄色い紙を詰めて、白い紙の泡をあしらってみんなでプレゼントしたのを覚えています。
と、ここまでは子どもに人気のある要素を挙げましたが、恐ろしく厳しくもありました。仲間はずれともいえないような少しの排除の心でも、私たちの心に見つければ本気で怒りました。物質的な自慢の心も決して見逃さず、平手で頬をたたいて怒鳴りました。何で怒られたかは、言えません。
すごく些細なことなのですが、20年以上たった今でも、時々思い出しては羞恥心と後悔で身悶えしています。すぐに調子づいてしまう私にとっては、人生において「おごらない、排除しない」ための最良の戒めは、T先生の顔を思い出すことです。絶対にT先生が怒るようなことはしないと心得て毎日を過ごしています。たまに信念を逸脱しますが…。
さて、本題の国語のこと。このことについてもまず思い出すのは怒られた記憶です。小学校の国語の問題は簡単です。「大人が子どもに言わせたい答え」がいつも分かってしまってつまらないと、私はいつも斜に構えていました。
そんなあるとき、「このときのおじいさんの気持ちを考えてごらん」と先生に問われて、「こういう風に大人は答えてほしいんだろうけど」と前置きしてありがちな答えを返した私を、T先生は一括しました。「“答え”じゃなくて、おじいさんの気持ちを真剣に考えなさい。正解を探すんじゃなくて、気持ちをちゃんと想像するの」と。それから、徐々にですが、文章に向き合うこと、真剣に読み込むことが国語の本質なのだと私は学んでいきました。
T先生は、読書感想文には「感想」ではなく「手紙」を書くように指導しました。手紙という枠をつくるからこそ、すらすら書けることがあるのだと子ども心に驚きました。詩についてもそうです。例えば、「あいうえお」と横に書き、それぞれの文字から始まる文を並べて詩にする方法を先生に習いました。自分には恥ずかしくて書けないと決めつけていた「詩」が、自分にも書けるなんて!なんとかひねり出した文章が、なんだかリズミカルな響きになって現れる喜びは、なんともいえないものでした。この喜びは私一人が感じていたものではないはず。席にじっとしていられない、手をつけられないヤツばかりだと言われていた私のクラスは、「はい!はい!」と手を挙げて自分の意見を述べる子の多い教室に変わりました。
そんな先生とはたまの手紙のやりとりがあり、その度に私の成長を心から喜んでくれ、将来を楽しみにしてくれていました。先生に期待されているのが誇らしく、進路が決まるたびに先生に報告するのが私の喜びでしたが、その報告は大学進学まで。出版社に就職したという報告はできないまま、先生は天国に旅立ってしまいました。
先生に会って話したいことは、ここ10年弱でたくさんたまっています。小学2年生では分からなかった先生のいろいろな気持ち、私が出会った人や国や仕事のこと、大好きな人ができて結婚したこと、先生がなんていうか知りたくて仕方ありません。
なんでこんなにT先生と話したいのか、つながりたいのか計り知れないところがありますが、なんとかして近づきたい。その近づきたい気持ちが、「言葉」や「文章」といった先生が開いてくれた扉とつながっている気がしてなりません。
いつだって誰かとつながれるのは、言葉があるから。天国とも、まだ見ぬ誰かとも、そして身近なあの人とも、つながるためには、言葉を発することが必要だし、言葉を使うことを厭わない人でありたい。
だから私は、言葉と向き合うことを自分に課して、編集者をやっています。
■小野民さんって、どんな人?
おのたみ/編集者
大学卒業後、(社)農文協に入会。バイクで全国行脚する、農家への営業生活を2年半続けたのち、雑誌編集部へ異動。食をテーマに雑誌編集に携わる。2012年よりフリーランスの編集者として活動中。
私は、「編集者」です。なぜ「」づきかといいますと、未だに自分の肩書きを名乗るときには緊張するし、“一応”とか“半人前で”などとどうしても但し書きしたくなってしまうから。あの人こそ編集者、と憧れる先輩の編集者ぶりを鑑みると、どうしても自分が編集者だと大きな声で宣言する気力を失います。
ではなぜ編集者になったのかといえば、突き詰めれば偶然です。でも、理由を100挙げろと言われればたぶん挙げられる――そんな風に人生や世の中はできていると思います。
だけど、せっかくなら、気持ちを込めた理由をひとつ持っておこう、と思い立ちました。理由をひとつ挙げるとしたら話したい、国語の先生の話があります。ただの思い出話かもしれませんが、よかったら聞いてください。
国語の授業と国語の先生が好きだったから、私は編集者になりました。
国語の授業を大切にする、笑顔がすてきで、すごく怖くて、とても優しいT先生に出会わなければ今の私はありません。私がT先生に出会ったとき、T先生は、定年したての61歳か62歳の先生でした。私が小学校2年生のとき、1年間の産休をとった若い先生の代わりにやってきました。
結局、1学期の始業式から3年生になるまで、ずっとその「おばあちゃん先生」が私たちの担任になるのですが、初めはもうちょっと短期間の予定だったように記憶しています。私が通っていた小学校は全校生徒60人ほどの農村の小さな学校で、私のクラスは10人の女の子と4人の男の子で構成されていました。
T先生は、定年まで教頭や校長という立場を選ばず、誰かの担任であり続けた人でした。今思えば、なかなか変わり者の先生だったのでしょう。過去の記憶がどんどん遠くにいってしまう私の頭の中でも、なぜかT先生との思い出だけはちゃんとしまわれていて、今でもよく思い出します。
NHKの連続テレビ小説が大好きで、給食の時間、12時45分になると生徒の誰かが教室の天井高くに備え付けられたテレビのスイッチを押すのが、1年間の日課でした。その頃は『女は度胸』をやっていて、毎日先生と14人の生徒で一喜一憂していました。
黒飴も好きで、よくこっそりとみんなに飴をくれました。ビールも大好きだと言っていました。なにかのお祝いのときには、コップに黄色い紙を詰めて、白い紙の泡をあしらってみんなでプレゼントしたのを覚えています。
と、ここまでは子どもに人気のある要素を挙げましたが、恐ろしく厳しくもありました。仲間はずれともいえないような少しの排除の心でも、私たちの心に見つければ本気で怒りました。物質的な自慢の心も決して見逃さず、平手で頬をたたいて怒鳴りました。何で怒られたかは、言えません。
すごく些細なことなのですが、20年以上たった今でも、時々思い出しては羞恥心と後悔で身悶えしています。すぐに調子づいてしまう私にとっては、人生において「おごらない、排除しない」ための最良の戒めは、T先生の顔を思い出すことです。絶対にT先生が怒るようなことはしないと心得て毎日を過ごしています。たまに信念を逸脱しますが…。
さて、本題の国語のこと。このことについてもまず思い出すのは怒られた記憶です。小学校の国語の問題は簡単です。「大人が子どもに言わせたい答え」がいつも分かってしまってつまらないと、私はいつも斜に構えていました。
そんなあるとき、「このときのおじいさんの気持ちを考えてごらん」と先生に問われて、「こういう風に大人は答えてほしいんだろうけど」と前置きしてありがちな答えを返した私を、T先生は一括しました。「“答え”じゃなくて、おじいさんの気持ちを真剣に考えなさい。正解を探すんじゃなくて、気持ちをちゃんと想像するの」と。それから、徐々にですが、文章に向き合うこと、真剣に読み込むことが国語の本質なのだと私は学んでいきました。
T先生は、読書感想文には「感想」ではなく「手紙」を書くように指導しました。手紙という枠をつくるからこそ、すらすら書けることがあるのだと子ども心に驚きました。詩についてもそうです。例えば、「あいうえお」と横に書き、それぞれの文字から始まる文を並べて詩にする方法を先生に習いました。自分には恥ずかしくて書けないと決めつけていた「詩」が、自分にも書けるなんて!なんとかひねり出した文章が、なんだかリズミカルな響きになって現れる喜びは、なんともいえないものでした。この喜びは私一人が感じていたものではないはず。席にじっとしていられない、手をつけられないヤツばかりだと言われていた私のクラスは、「はい!はい!」と手を挙げて自分の意見を述べる子の多い教室に変わりました。
そんな先生とはたまの手紙のやりとりがあり、その度に私の成長を心から喜んでくれ、将来を楽しみにしてくれていました。先生に期待されているのが誇らしく、進路が決まるたびに先生に報告するのが私の喜びでしたが、その報告は大学進学まで。出版社に就職したという報告はできないまま、先生は天国に旅立ってしまいました。
先生に会って話したいことは、ここ10年弱でたくさんたまっています。小学2年生では分からなかった先生のいろいろな気持ち、私が出会った人や国や仕事のこと、大好きな人ができて結婚したこと、先生がなんていうか知りたくて仕方ありません。
なんでこんなにT先生と話したいのか、つながりたいのか計り知れないところがありますが、なんとかして近づきたい。その近づきたい気持ちが、「言葉」や「文章」といった先生が開いてくれた扉とつながっている気がしてなりません。
いつだって誰かとつながれるのは、言葉があるから。天国とも、まだ見ぬ誰かとも、そして身近なあの人とも、つながるためには、言葉を発することが必要だし、言葉を使うことを厭わない人でありたい。
だから私は、言葉と向き合うことを自分に課して、編集者をやっています。
■小野民さんって、どんな人?
おのたみ/編集者
大学卒業後、(社)農文協に入会。バイクで全国行脚する、農家への営業生活を2年半続けたのち、雑誌編集部へ異動。食をテーマに雑誌編集に携わる。2012年よりフリーランスの編集者として活動中。