2017年6月号 ヨシミヅコウイチさんより、おてがみが届きました
だれかがなにかを「装う」ということについて、
こんにちは、
いかがおすごしでしょうか、
と書き出した途端に、もう「ごっこ遊び」が始まってしまっているわけですが、100人を超える詩人のみなさま、しかも「女流」ということは全員女性であるわけです。ことばなるものと真剣に向き合うことを専らにしている100人超の女性のみなさんに対して、そうしたことをやや疎かにしながら日々暮らしている男としての当方が一体何を語ることができるだろうか、そう考えると全くもって途方にくれてしまいます。
ですがここは気を取り直し、手紙、というヒントをいただいているわけですから、そこは当然男が女性に手紙を書くとなればそれはもう恋文ということになるわけです。そして恋文の本義とは、やはり決定的な真実の光を輝かせないまま、いかにして無内容な作文を綴ることができるかにあるわけです(ほんとかよ)
と、いうわけで、と強引に、例えばみなさま、を「あなた」とおきかえて、つまり「あなた」に向けてお手紙をしたためているのです、と装って、だれかがなにかを「装う」ということについて、少しだけ書いてみたいと思います。
装う、というとやはり装いも新たに、とか季節の装いを身に纏って、というように女性が自らを美しく演出するというような華やかな香りが漂います。つまりこれはお召し物の話です。また化粧というのも当然装いであり、最近は日常的に化粧をする男もいるらしいですが、当方は一切そういうことに疎いタイプということになります。むしろ換喩的にズレていくタイプなので、よそう?と聞き違えて装いは二の次に子供のためにご飯をよそう女性の姿、あるいはその手の内にある器、そこに盛られた白い飯、そんなものを想像してしまうのですが、つまりは単に食い意地が張っているだけなのです。 それはさておき、例えば新装開店、と書くとややタバコ臭くなってまいります。装備とか装填、と書くと厳めしい男所帯の火薬の臭いが、或いは偽装、と書くとかなり邪な感じがしてくるわけです。おなじ「装」という漢字でも、こちらは何と言いますか男くさいといいますか、嘘とか虚構とか良からぬものの匂いといいますか、どこか犯罪的な感じもしてくるわけです。
ですが、うそ、というと何故でしょう、何か女性のほうが男よりも長けている、そんな印象もあるのです。うそ泣き、というのは女性がするものでしょう。個人的な経験から来る間違った印象(!)かもしれませんが、どうもいつも騙されているのは男のほうであって、最近はやりのダーティーな心理学ものとか、メンタル何とかみたいなハウツーもの、そういうものを読んでいるのはたいてい男で勤め人で、という感じがして、我々男はそうした作戦によってかろうじて女性に対抗しているに過ぎない、勝利しているのはいつも女性である、そんな気が致します。男の場合は、うそ、というよりも、えせ、似非、ですね、つまり似て非なるものを装って、こそこそと忍び寄っていく、そんな感じでしょうか。総じて詐欺師的といいますか、適当な作り話をでっち上げて、我田引水、自分の土俵にするすると引きずり込む、そんなところがせいぜいです。ですから、女詐欺師(女流詐欺師?!)というのは、女性的なうそと、男性的なえせと、双方をあわせ持つ、ある種の最強の登場人物ということになるかもしれませんが、それはまた、別のお話し、と致しましょう。 男が聞いた風な話を始めますと、大抵ウソ臭くなってきます。やはり匂う、臭う?多分うそが香る、薫ることはなさそうですね。うそを見破るのは女のほうであって、男の語りというのはいつだってウソ臭いのです。おそらく女性にとって、男が何事かを語るふるまいは、嗅覚に訴えかける何かであるようなのですが、そこはあなたのお考えをぜひともお伺いしたいところです。
そういえば、あの有名な物語の登場人物は匂とか薫という名前でありましたし、この二人の男の間でゆれ動くヒロインは、男たちの不実を疑い、おのれの不義を恥じながら、水面に浮かぶ小舟のようにゆらゆらと漂うばかりでありました。そしてそんな物語を1000年以上前に物語ったのは、なるほどこれは女性であったわけです。ですが真っ赤なウソ、ということばもありますから、こちらは大いに視覚的な表現でありまして、私の仮説は脆くも崩れ去ってしまうばかりということになります。
一方、女のうそを見破るのはやはり同性である別の女性、或いは男であるなら例えば刑事とか探偵とかジャーナリストといったような特殊な職能を持った存在でありまして、これはつまり真実を暴きたてる者、であります。言わなくてもいいことをあえて言ってしまう存在ですから、性格が悪いといわれたり、ヤボなことをあえて口にするような男なので、これはやはり女性にはモテない、ということになっている様です。
つまり女性は一般にうそを見破るが、男がうそを見抜くにはやはり特殊な技能がいるということです。ですが昨今は「女性上位時代」なんてことばがかつてあり、「草食系男子」といういい草があるように、ある種の「男らしさ」がスポイルされつつある時代であるわけです。これはどうやら近代というシステムが否応なく孕んでいる何かであるらしく、ここ数年というスパンではなく、ここ100年来、という中で、緩やかに起きつつあることのようです。 例えば夏目漱石の小説に『三四郎』というのがあります。この小説の主人公=三四郎は、「索引の附いている人の心さえ中ててみようとなさらない呑気な方」だとヒロインにズバリいわれてしまう、それこそ草食系男子の走りみたいな男であります。で、この小説のなかにこんな台詞があります。
「同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋お七時代の恋だ…(中略)…何故というに。二十前後の同い年の男女を並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。男はばかにされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね……(後略)」
なるほど明治時代の昔からこんなでしたか、と、まさしく目から鱗でありまして、たまたま最近全く別の興味から読んでみたのですが、教養がないというのは罪深いことだ、と反省している次第であります。
そんな時代であるが故に逆に「ツンデレ」などというキャラクター造形が出てくる、ということかもしれません。ツン=男まさりと見せた積極的な誘惑のアプローチ/デレ=結局乙女、というこのシステムは、こういう仕掛けになってますよという「振り」であるわけで、そう、結局プロセスはどうあれ男は乙女にたどり着くほかはない、というこれまたごく当たり前の結論にたどりつくしかないのです。
大分横道にそれました。ともあれ装うという言葉には、本体そのものとそれを覆い隠すように存在する外側との最低でも二段構えの、ある種の二重性を前提としていることになります。本体とそれ以外、つまり外部に対して防御的に身代わり的に作用する何か、昨今のLINEやSNSといったテクノロジーはまさしくそうした二重性を補填する、優れて今日的な何か、なのでありましょう。
ともあれわれわれは膨大な量の装いの文化というものと延々と作り出してきたということの様であり、多くの人はそれを多かれ少なかれ受け入れつつ生まれ、生き、そして死んでいく、ということを繰り返してきたことだけは間違いがないでしょう。本来、あなたが感じているようにわたしも感じている、などということは厳密にはあり得ないわけですが、虚構としての共感を装いによって獲得し、ある種の共同性というものを維持運営してきたということでしょうか。そしてことばを獲得したことによってやがて内面なるものを獲得し、ある種の二重性の中を生きていくことを強いられながらも、声の肌理であるとか、ふいに作動する無根拠な身振りのようなものを改めて獲得しつつある、今はそんな時代でもあるかもしれません。装われた共感を蒸発させてしまう空っぽの身振り手振り、またはその連なりのようなもの?
共感、と言ってしまえばあらゆる表現手段はただそのことだけに賭けられているともいえるわけで、人様の共感を得るための作法、そうしたある種の表現系一般としての装い、真実には決してたどり着けないものの、ある種のかりそめの共感を織りなすことによってかろうじて今ここにいることができる、ということかもしれません。
これは私の個人的なことになりますが、わたしにはどちらかというとあえて人様の共感を得られないような方向にハンドルをついつい切ってしまうという心の癖のようなものがありまして、それはつまり装いの亜種としての偽装であり、個性的であろうとする凡庸さであり、平凡であることを忌避する振る舞い、であるわけですが、そのことによって共感の機会を大いに失ってきたような気がしており、実際そうであったでしょう。であるならば逆に、平凡であることを専らにすれば共感の機会も増えるのではないか、というようなことを最近は考えておるのです。またそうした機会とはいわば装いがはらはらと外れていく、そんな武装解除の瞬間でもあるような気がしており、そう考えるとなるほど世界の秘密というものはいつでもごくごく単純なものであるのだなぁ、と、やや既視感にさいなまれつつ、ひとり言ちているのです。
なんてことをぼんやり考えながら、これはほんとうについ数日前のことですが、酒でも飲むべしと最寄り駅近隣のターミナル駅で下車すると、改札前で、大学時代の恩師が入場して来るのにバッタリ出くわしてしまいます。最近どうしてるの?と問われ、ちょっと人様の共感を得るための作法、というものを勉強しております、と答えると、ああそうだねえ、キミはそれを学んだほうがいいよねぇ、と納得されてしまいまして、まったく困ったもんです。積もる話をとも思いつつなんせお忙しい方なのでご遠慮申し上げ、実際その日もなにかの講演だったらしいのですが、取り急ぎ恩師の近著を拝読して共感したというようなやり取りをし、何かあったらまた学校のほうに郵便を送ってください、そう仰っていただき、その場はそれで数分で別れたのです。
自宅への道すがら、そういえば折に触れ、恩師にはそうしたことを言われて来たような気がして、なるほど忠告というものは言えばわかるというものではなく、最後は本人の気付きの時宜でしかないのだ、という至極当たり前の結論に達したというようなありさまで、それでもそのような時宜でうっかり出くわすワケですから、なるほど「縁」というものはあるのかもしれない、そんなことを考えさせられる出来事ではありました……
……といった感じで、わたしはいくらかでもあなたの共感を得ることが、はたしてできたのでありましょうか。何やら意味ありげなこと、内容のある事をくどくど書き連ねてしまったような気がして、大いに心もとないわけですがさてさて、お叱りを受けないうちにこの辺で、退散するに若くは無し、ということでございます。
どうぞお健やかに。
ごきげんよう。
■ヨシミヅコウイチさんて、どんな人?
ヨシミヅコウイチ/由水孝一/画家
1969年神奈川県川崎市生。1989年から15年ほど京都、のち東下り現在埼玉在住。現代美術系平面作品を専らにする画家、1997年ОギャラリーUP・S(東京)にて初個展、以後各所にて個展等。一頃屏風に入れ込む。2011年BOOK ART 2011にて初映像作品「散漫な思考 散漫な映像 散漫な読書 散漫な観客」を発表。最近は映像作品の設計図としての脚本のお勉強をコッソリとしている。但しその実態は単なる不良中年にすぎない。
https://www.youtube.com/watch?v=Rj-1CUvv-Ts
こんにちは、
いかがおすごしでしょうか、
と書き出した途端に、もう「ごっこ遊び」が始まってしまっているわけですが、100人を超える詩人のみなさま、しかも「女流」ということは全員女性であるわけです。ことばなるものと真剣に向き合うことを専らにしている100人超の女性のみなさんに対して、そうしたことをやや疎かにしながら日々暮らしている男としての当方が一体何を語ることができるだろうか、そう考えると全くもって途方にくれてしまいます。
ですがここは気を取り直し、手紙、というヒントをいただいているわけですから、そこは当然男が女性に手紙を書くとなればそれはもう恋文ということになるわけです。そして恋文の本義とは、やはり決定的な真実の光を輝かせないまま、いかにして無内容な作文を綴ることができるかにあるわけです(ほんとかよ)
と、いうわけで、と強引に、例えばみなさま、を「あなた」とおきかえて、つまり「あなた」に向けてお手紙をしたためているのです、と装って、だれかがなにかを「装う」ということについて、少しだけ書いてみたいと思います。
装う、というとやはり装いも新たに、とか季節の装いを身に纏って、というように女性が自らを美しく演出するというような華やかな香りが漂います。つまりこれはお召し物の話です。また化粧というのも当然装いであり、最近は日常的に化粧をする男もいるらしいですが、当方は一切そういうことに疎いタイプということになります。むしろ換喩的にズレていくタイプなので、よそう?と聞き違えて装いは二の次に子供のためにご飯をよそう女性の姿、あるいはその手の内にある器、そこに盛られた白い飯、そんなものを想像してしまうのですが、つまりは単に食い意地が張っているだけなのです。 それはさておき、例えば新装開店、と書くとややタバコ臭くなってまいります。装備とか装填、と書くと厳めしい男所帯の火薬の臭いが、或いは偽装、と書くとかなり邪な感じがしてくるわけです。おなじ「装」という漢字でも、こちらは何と言いますか男くさいといいますか、嘘とか虚構とか良からぬものの匂いといいますか、どこか犯罪的な感じもしてくるわけです。
ですが、うそ、というと何故でしょう、何か女性のほうが男よりも長けている、そんな印象もあるのです。うそ泣き、というのは女性がするものでしょう。個人的な経験から来る間違った印象(!)かもしれませんが、どうもいつも騙されているのは男のほうであって、最近はやりのダーティーな心理学ものとか、メンタル何とかみたいなハウツーもの、そういうものを読んでいるのはたいてい男で勤め人で、という感じがして、我々男はそうした作戦によってかろうじて女性に対抗しているに過ぎない、勝利しているのはいつも女性である、そんな気が致します。男の場合は、うそ、というよりも、えせ、似非、ですね、つまり似て非なるものを装って、こそこそと忍び寄っていく、そんな感じでしょうか。総じて詐欺師的といいますか、適当な作り話をでっち上げて、我田引水、自分の土俵にするすると引きずり込む、そんなところがせいぜいです。ですから、女詐欺師(女流詐欺師?!)というのは、女性的なうそと、男性的なえせと、双方をあわせ持つ、ある種の最強の登場人物ということになるかもしれませんが、それはまた、別のお話し、と致しましょう。 男が聞いた風な話を始めますと、大抵ウソ臭くなってきます。やはり匂う、臭う?多分うそが香る、薫ることはなさそうですね。うそを見破るのは女のほうであって、男の語りというのはいつだってウソ臭いのです。おそらく女性にとって、男が何事かを語るふるまいは、嗅覚に訴えかける何かであるようなのですが、そこはあなたのお考えをぜひともお伺いしたいところです。
そういえば、あの有名な物語の登場人物は匂とか薫という名前でありましたし、この二人の男の間でゆれ動くヒロインは、男たちの不実を疑い、おのれの不義を恥じながら、水面に浮かぶ小舟のようにゆらゆらと漂うばかりでありました。そしてそんな物語を1000年以上前に物語ったのは、なるほどこれは女性であったわけです。ですが真っ赤なウソ、ということばもありますから、こちらは大いに視覚的な表現でありまして、私の仮説は脆くも崩れ去ってしまうばかりということになります。
一方、女のうそを見破るのはやはり同性である別の女性、或いは男であるなら例えば刑事とか探偵とかジャーナリストといったような特殊な職能を持った存在でありまして、これはつまり真実を暴きたてる者、であります。言わなくてもいいことをあえて言ってしまう存在ですから、性格が悪いといわれたり、ヤボなことをあえて口にするような男なので、これはやはり女性にはモテない、ということになっている様です。
つまり女性は一般にうそを見破るが、男がうそを見抜くにはやはり特殊な技能がいるということです。ですが昨今は「女性上位時代」なんてことばがかつてあり、「草食系男子」といういい草があるように、ある種の「男らしさ」がスポイルされつつある時代であるわけです。これはどうやら近代というシステムが否応なく孕んでいる何かであるらしく、ここ数年というスパンではなく、ここ100年来、という中で、緩やかに起きつつあることのようです。 例えば夏目漱石の小説に『三四郎』というのがあります。この小説の主人公=三四郎は、「索引の附いている人の心さえ中ててみようとなさらない呑気な方」だとヒロインにズバリいわれてしまう、それこそ草食系男子の走りみたいな男であります。で、この小説のなかにこんな台詞があります。
「同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋お七時代の恋だ…(中略)…何故というに。二十前後の同い年の男女を並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。男はばかにされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね……(後略)」
なるほど明治時代の昔からこんなでしたか、と、まさしく目から鱗でありまして、たまたま最近全く別の興味から読んでみたのですが、教養がないというのは罪深いことだ、と反省している次第であります。
そんな時代であるが故に逆に「ツンデレ」などというキャラクター造形が出てくる、ということかもしれません。ツン=男まさりと見せた積極的な誘惑のアプローチ/デレ=結局乙女、というこのシステムは、こういう仕掛けになってますよという「振り」であるわけで、そう、結局プロセスはどうあれ男は乙女にたどり着くほかはない、というこれまたごく当たり前の結論にたどりつくしかないのです。
大分横道にそれました。ともあれ装うという言葉には、本体そのものとそれを覆い隠すように存在する外側との最低でも二段構えの、ある種の二重性を前提としていることになります。本体とそれ以外、つまり外部に対して防御的に身代わり的に作用する何か、昨今のLINEやSNSといったテクノロジーはまさしくそうした二重性を補填する、優れて今日的な何か、なのでありましょう。
ともあれわれわれは膨大な量の装いの文化というものと延々と作り出してきたということの様であり、多くの人はそれを多かれ少なかれ受け入れつつ生まれ、生き、そして死んでいく、ということを繰り返してきたことだけは間違いがないでしょう。本来、あなたが感じているようにわたしも感じている、などということは厳密にはあり得ないわけですが、虚構としての共感を装いによって獲得し、ある種の共同性というものを維持運営してきたということでしょうか。そしてことばを獲得したことによってやがて内面なるものを獲得し、ある種の二重性の中を生きていくことを強いられながらも、声の肌理であるとか、ふいに作動する無根拠な身振りのようなものを改めて獲得しつつある、今はそんな時代でもあるかもしれません。装われた共感を蒸発させてしまう空っぽの身振り手振り、またはその連なりのようなもの?
共感、と言ってしまえばあらゆる表現手段はただそのことだけに賭けられているともいえるわけで、人様の共感を得るための作法、そうしたある種の表現系一般としての装い、真実には決してたどり着けないものの、ある種のかりそめの共感を織りなすことによってかろうじて今ここにいることができる、ということかもしれません。
これは私の個人的なことになりますが、わたしにはどちらかというとあえて人様の共感を得られないような方向にハンドルをついつい切ってしまうという心の癖のようなものがありまして、それはつまり装いの亜種としての偽装であり、個性的であろうとする凡庸さであり、平凡であることを忌避する振る舞い、であるわけですが、そのことによって共感の機会を大いに失ってきたような気がしており、実際そうであったでしょう。であるならば逆に、平凡であることを専らにすれば共感の機会も増えるのではないか、というようなことを最近は考えておるのです。またそうした機会とはいわば装いがはらはらと外れていく、そんな武装解除の瞬間でもあるような気がしており、そう考えるとなるほど世界の秘密というものはいつでもごくごく単純なものであるのだなぁ、と、やや既視感にさいなまれつつ、ひとり言ちているのです。
なんてことをぼんやり考えながら、これはほんとうについ数日前のことですが、酒でも飲むべしと最寄り駅近隣のターミナル駅で下車すると、改札前で、大学時代の恩師が入場して来るのにバッタリ出くわしてしまいます。最近どうしてるの?と問われ、ちょっと人様の共感を得るための作法、というものを勉強しております、と答えると、ああそうだねえ、キミはそれを学んだほうがいいよねぇ、と納得されてしまいまして、まったく困ったもんです。積もる話をとも思いつつなんせお忙しい方なのでご遠慮申し上げ、実際その日もなにかの講演だったらしいのですが、取り急ぎ恩師の近著を拝読して共感したというようなやり取りをし、何かあったらまた学校のほうに郵便を送ってください、そう仰っていただき、その場はそれで数分で別れたのです。
自宅への道すがら、そういえば折に触れ、恩師にはそうしたことを言われて来たような気がして、なるほど忠告というものは言えばわかるというものではなく、最後は本人の気付きの時宜でしかないのだ、という至極当たり前の結論に達したというようなありさまで、それでもそのような時宜でうっかり出くわすワケですから、なるほど「縁」というものはあるのかもしれない、そんなことを考えさせられる出来事ではありました……
……といった感じで、わたしはいくらかでもあなたの共感を得ることが、はたしてできたのでありましょうか。何やら意味ありげなこと、内容のある事をくどくど書き連ねてしまったような気がして、大いに心もとないわけですがさてさて、お叱りを受けないうちにこの辺で、退散するに若くは無し、ということでございます。
どうぞお健やかに。
ごきげんよう。
■ヨシミヅコウイチさんて、どんな人?
ヨシミヅコウイチ/由水孝一/画家
1969年神奈川県川崎市生。1989年から15年ほど京都、のち東下り現在埼玉在住。現代美術系平面作品を専らにする画家、1997年ОギャラリーUP・S(東京)にて初個展、以後各所にて個展等。一頃屏風に入れ込む。2011年BOOK ART 2011にて初映像作品「散漫な思考 散漫な映像 散漫な読書 散漫な観客」を発表。最近は映像作品の設計図としての脚本のお勉強をコッソリとしている。但しその実態は単なる不良中年にすぎない。
https://www.youtube.com/watch?v=Rj-1CUvv-Ts